第2話:鬼ヶ原さんからは、まあ逃れられない


 仕事をする上で人間、適切な距離感が大事だと言う。

 人間関係とか物理的な距離とか、そういうやつ。


 なのだが。


「先生、これからあなたを拘束します…!!」


 逃亡癖のある漫画家の僕は、担当編集の絵空さんにゼロ距離で組み伏せられていた。後ろ手に腕を取られ、うつぶせになった状態で上から押さえつけられている。


 なお、成人男性を押さえつける絵空さんが特別豪腕とかそういうことはなく、単純に成人男性であるはずの僕の腕力がゼロに等しいというだけだ。この前握力を計ったら2だった。なんだ2って。


「僕は行かなくちゃいけないんだ!!! 離してくれ鬼ヶ原さん!」


「絵空です。というか先生、これ本気で抵抗してますか?」


「大マジだよ!!!」


「えぇ…」


 僕のあまりの非力さに戸惑う絵空さん。後から聞いたことだが絵空さん曰く、『まだ実家のうさぎの方が力が強かった』らしい。

 そんなうさぎ以下のむなしい抵抗を行う僕の目の前では、組み伏せられた時に落ちた紙切れがひらひらと舞っていた。なにを隠そう、それは僕が推しに推しているアイドルグループのライブチケットである。しかもはじめての武道館ライブ。控えめにいって至宝である。


 僕はライブのために、仕事をほっぽり出して逃走しようとしていたが、あえなく絵空さんに捕まったのだ。


「頼むーーー! はじめての武道館なんだーーーーーッ!!!」


「まったく、あきらめの悪い…。先生、失礼します」


「んぎゅ」


 その華麗な絵空さんの手刀によって、僕はあえなく気絶する。

 なお、絵空さんは編集部で特別な訓練を受けているから可能なのであって、普通の人はまねしてはいけない。


「よいしょっと…」


 絵空さんは気絶した僕をずるずると引きずって行く。もちろん仕事部屋へ、と。

 気のせいだろうか。日に日に扱いが雑になっている気がする。


 ごちん、とドアの敷居に頭をぶつけて完全に意識がブラックアウトする。


 ◆


「ん…」


 目を覚ますと、僕は鎖でがんじがらめに縛られて作業用の椅子に繋がれていた。絵面としては完全にアウトなのだが、毎度のことなので最近はさすがに慣れてきてしまった。


 かくいう僕は小田原パンダ、しがない恋愛漫画家である。


「おはようございます、先生」


「おはよう、絵空さん」


 目の前には怒っているのか呆れているのかわからない、いつも通り無表情な絵空さんがいた。パンツスーツできっちり決めて、仕事モード全開だ。

 そして、彼女の手には僕の大事なチケットが握られている。


「時に先生。お聞きしたいことがあるのですが」


「はい、なんでしょうか」


「こほん」


 なぜか一息置いて、なにかを思い出すようにうーんと考える様子の絵空さん。そして、その口からはなんとも絵空さんらしくない台詞が飛び出てきた。


「どうして先生は、絵空を置いて他の女のもとへ行こうとするのですか?」


「!?」


「ねえ、どうしてですか?」


 急に愛が重い方々のようなことを言い出す絵空さんに戸惑う僕。しかし、絵空さんはこちらの目をじっと見て離さない。無表情で。一体どうしたのだ、絵空さん。


「い、いや、内容的にはその通りなんだけど、その言い方はまずくないかな…?」


「絵空はこんなにも先生に尽くしているというのにー。先生はあっちへふらふらこっちへふらふら、あげくの果てには仕事と絵空をほっぱりだして、北海道やら武道館へ…ここで一呼吸置く」


「一呼吸置く、ってなに!?」


 さらには「よよよ」と泣き真似まで始める絵空さん。ちなみにその表情は一ミリも動かずに無表情のままだ。…様子を見るに、どうやらなにかの寸劇がはじまっているらしい。


「あ、あの…?」


 よく見れば絵空さんの手元にはチケットとは別の紙があった。どうやらカンペのようだ。そして、そのカンペには『編集長より』の文字が見える。あいつめ、変なことを絵空さんに仕込むんじゃない。


「で、次は、っと……なるほど。『先生は仕事とアイドルどっちが大事なの!』…らしいです」


「そこは絵空さんかアイドルか、じゃないんだ?」


「…む、違いましたか」


 にこりともせず、小首を傾げる絵空さん。不思議そうにカンペを見返している。大方、またあの編集長に「逃げようとしたらこの台詞で脅せ」とか言われたんだろう。


「編集長に、逃げようとしたらこの台詞で脅せ、と言われまして」


「いや、その通りかい!」


「まあ、冗談というやつです」


 ててーん、と謎の効果音を口にする絵空さん。ネタばらしのつもりらしい。

 …編集長、あんたは人選と選ぶネタを間違っている。


「あはは…いや、でもびっくりしたなあ」


「なお、こちらは冗談ではありません」


 と言い、絵空さんは僕の大切なライブチケットを破ろうと手をかける。重ねていうが、はじめての武道館なのだ。


「うおーーーーーはじめての武道館ーーーー!!!」


「びりびりー、などという風に破られたくなければ仕事をしてくださいね、先生」


 口でびりびりーと言っただけで、まだチケットは無傷で絵空さんの手にあった。ちょきで挟んでチケットを弄ぶ絵空さん。絵空さんは無表情でクールに見えるが、人をからかうのが結構好きなのだ。


「人質なんて…見損なったぞ、鬼ヶ原さん!! 鬼!!」


「絵空です、先生。だれが鬼ですか」


 そう言って絵空さんはスーツのポッケにチケットをしまい込む。やめてくれ、絵空さん。そんなところに仕舞ったら大切なチケットがくちゃくちゃになってしまう。


「それに、予定通りに仕事をしない先生が悪いと、絵空は思います」


「くっ…!!」


 それはそうだ。だが、僕は鎖に縛られたまま、精一杯の抵抗の言葉を探す。たとえ0:10でこっちが悪いとしてもここで抵抗しないようでは、男が廃るというものだ。道理は曲げるものだと数年前に蒸発した父から学んだ。


「よく聞け、絵空さんッ!」


「はい」


「ぐうの音も、ありませんッ!!!」


「? いえ…それはわかっていますが」


 さすがにきょとん、とした表情になる絵空さん。

 なるほど。僕の『男』は廃って久しいのを忘れていた。検索してみたが、僕の辞書には抵抗の『て』の字も見当たらなかった。


「とにかく、仕事をしましょう、先生。がんばればライブに間に合うかもしれません」


「はい」


 僕はおとなしく机に向かうことにした。



 ◆


 それから数時間後。


「お、終わった…!」


「がんばりましたね、先生。流石です」


 ぱちぱちと無表情で拍手をしてくれる絵空さん。

 ちなみにあの後、数度の逃亡未遂を繰り返したので、今の僕は鎖と荒縄でぐるぐる巻きだ。最終的にはキッチンのラップまで巻かれてしまっている。今度逃げたら脳にGPSを埋め込むと脅された。


「なんとかライブにも間に合いそう! いやー、やってみるもんだね!」


「はい。先生、仕事は出来る方ですから」


「ほめられちゃったよ」


「仕事『は』ですよ」


 …? なにが違うのかよくわからない。


 絵空さんは原稿をチェックし、仕舞っていたライブのチケットを手渡してくれる。

 …が、なぜかなかなか離してくれない。


「どうしたの?」


「えっと…先生…その、もし、よろしければ、なのですが」


「うん?」


「そのライブ…、わたしも一緒に行ってはだめ…でしょうか?」


 珍しく表情に変化を見せて、あからさまに赤面している絵空さん。


「ち、違いますよ。先生が仕事を放り出してまで入れ込む方々をわたしも一度、見てみたいというか」


「また、編集長の仕込みだったり?」


「い、いえ。これは、その…冗談、ではないやつです」


 照れているのか目線を逸らす絵空さん。端から見ればラップでぐるぐる巻きの男を前に君はなにをいっとるんだとツッコミが入りそうだが、彼女は特に気にしていない様子だった。


「…それで、どうでしょうか」


 僕を見つめてくる絵空さん。いつものクールな感じとは違う、(こう言ってはなんだが)恋する乙女のような表情に戸惑う僕。あの冷静な絵空さんが一体どうしたというのだ。


「……」


 だけど、僕の答えは決まっている。


「絵空さん」


「は、はい」


 期待の視線、紅潮した頬の絵空さんに、僕は答えた。



「あ、ごめん、このチケット一枚で一人までなんだ」



 僕の手にはチケットが一枚だけ。

 算数すら必要なく、ライブに行ける人数は導き出される。


「……」


「……」


 無言で見つめ合う二人。そして耐えきれず「えへへ」と照れ笑いした僕の横っ面に、強烈な手刀が飛んできた。ただ、こればっかりは僕は悪くないんじゃないかなと思った。


 なお後日、絵空さんと一緒にライブの映像を見た。


 始終無表情で画面を見ていた絵空さんだったが、無事にその魅力にはまったらしく、今度のライブは二人で行くことにした。

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