鬼ヶ原さんからは逃れられない

四辻達海

第1話:鬼ヶ原さんからは、逃れられない


 この世の中には人権が無視され、拘束されても仕方がない存在が二つある。

 それは罪を犯した犯罪者と──締め切りを守れない漫画家だ。


 もちろん、僕は後者である。

 玄関のノブには黄色と黒の虎ロープがぐるぐると巻かれ、さらに内側から解錠できないようにわざわざ南京錠が新しく取りつけられている。それも見たことがないくらいゴツくてデカいのが。


「先生、これからあなたを拘束します」


 若き鬼の編集者、鬼ヶ原絵空 おにがはら えそらは無表情にそう告げた。


 これは、締め切りを守れない漫画家、小田原パンダ(ペンネーム)とその編集者、鬼ヶ原絵空のお話。


 ◆


 鬼ヶ原絵空さんは最近僕の担当になった編集さん。

 あまり感情を表情に出さないクールな人だけど、仕事の出来るとっても優秀な人だ。


 なのだが。


「さて、先生。進捗を聞きましょうか」


「進捗だめです…」


 荒縄で縛られ床に転がされた僕は、担当編集、鬼ヶ原さんに仁王立ちでにらまれている。

 たぶん。おそらく。だって、恐ろしくて鬼ヶ原さんの顔が直視できないのだ。


「だめ、ですか」


 頭上からのお声に、蛇ににらまれたハムスターのようにぷるぷると震える僕。

 鬼ヶ原さんのその声に感情はないが、それが逆に恐怖をあおる。


「なるほど。先生、ちなみに締め切りは覚えていますか?」


「は、はい…えっと、僭越ながら明日…だったかと」


「そうですね、厳密に言うとあと12時間です」


 リビングの時計はお昼の12時を指している。日付が変わるまでに原稿を上げないと、次の連載に間に合わなくなってしまうのだ。


「ほ、ほら、でも大枠は出来てるから」


「はあ…先生は本当にその台詞がお好きですね」


 言われて思い出す。

 先週も同じことを言った後、白紙のページが見つかってしまい、鬼ヶ原さんにこっぴどく叱られたのだ。最後に「いい大人なんですから」というとどめの一撃まで頂いた。その台詞はみっともない大人によく効く。


「ぐうの音も出ませぬ」


「まったく。…さあ、いつまで床に転がっているのですか。時間がもったいないのでそろそろ作業に入りましょう、先生」


 そう言って僕の側に屈み、縄をほどいてくれる鬼ヶ原さん。しかし強く縛り過ぎたのか、思いの外手こずっているようだ。その間に少し質問してみる。


「あの、鬼ヶ原さん」


「前にも言いましたが鬼ヶ原、という名字はこわいので嫌いです。呼ぶなら絵空と」


「あ、ごめん。えっと、絵空さん」


「はい。なんでしょうか、先生」


「僕が悪いのは重々承知してるんだけど、そのー、なにも縛らなくても…いいような?」


「ん…解けました」


 絵空さんは僕を縛っていた縄をするすると手繰り、手際よくまとめていく。優秀な編集者は漫画家を縛る縄の処理にも手慣れているのだ。これは業界の常識である。


「お忘れですか」


 そう言って、こちらに冷ややかな目線を送ってくる絵空さん。

 …そうなのだ。絵空さんがこんな風に僕を拘束し、荒縄でぐるぐる巻きにするようになったのには理由がある。それは語るも涙、聞くも涙の──


「先生が前回の締め切りをぶっちして、『ちょっとコンビニ行ってくる』の一言を残し、北海道までアイドルのライブを観に行ったからでしょう」


「………」


 絵空さんのクールでかっこいいアーモンド型の目から非難の目線が飛ぶ。気の弱い漫画家なら卒倒していただろう。もちろん僕も気の弱い漫画家だったが、慣れているので大丈夫だった。


「いや、あの、ほんとあのライブだけはみたくて…、その、ね?」


「なお、編集長からは『どんな手を使ってもいいから、二度とあのバカを逃がすな』と仰せつかっています」


「えっと…うん。…作業しようか。絵空さん」


「それが賢明かと」


 絵空さんは荒縄を両手で引っ張って、ビシッと音を鳴らした。

 なぜだかちょっと楽しそうだった。


 ◆


 とっぷりと日の暮れた深夜帯。

 時計の針がてっぺんに到達するすこし前に、やっと原稿を書き終わった。


「で、できました…」


 僕は作業机からでろんと流れるようにして床へとへたり込む。


「おつかれさまです、先生。早速、拝見しますね」


 長い時間待っていてくれた絵空さんは疲れた素振りも見せずに原稿の確認に取りかかる。小柄な体のどこにこんなスタミナがあるのだろうかと不思議に思う(まあ毎度負担をかけている原因は自分なのだが)。


 と、一仕事終えて安心したのか、思い出したかのように僕の腹が鳴る。そういえば昼からなにも食べてなかった。


「絵空さん、原稿見てもらってる間にちょっとコンビニ行ってきてもいいかな」


「ちょっとコンビニ…ですか?」


「うん、僕もうお腹空いちゃって」


「なるほど」


 そう言いながら僕は財布を探す。

 最近は、やれキャッシュレスだなんだと言うが、僕はどうにも機械音痴で尻込みしてしまっている。使えば便利なんだろうけど。まあそんなだから原稿だって未だにアナログだ。


「絵空さんの分も買ってくるよ、なにが──」


 と振り返った瞬間、そこにはじゃらりと鎖を構えた絵空さんがいた。


「えっと…鬼ヶ原さん?」


「絵空です」


 絵空さんは無表情に、けれど、律儀に呼び名を訂正する。

 ただ、聞きたいのはそこではなく。


「あの…どうして鎖を構えていらっしゃるのでしょうか…?」


「どうしてもなにも、先生が絵空から逃げようとなさるので」


 きょとん、と小首を傾げる絵空さん。仕草はとても可愛らしいのだが、手元で旧時代のヤンキーが持っていたようなゴッツい鎖がこれでもかと存在感を発揮していて、残念ながら現在の絵空さんの総合評価は「かわいい世紀末」だ。


「いやいや、ちょっとコンビニ行くだけだよ!?」


「冗談は休み休みでお願いします。そう言ったあと先生は一人で北海道へ行ってしまいました」


「それはほんとにごめんなさい!」


「しかも、絵空を置いて…一人で……」


「置いていかれたのを怒ってるの!?」


 絵空さんは机の上の原稿を指し示す。


「それに、まだこれはチェック中です。ここでわたしがミスや調整すべきところを見つけても、先生がいなくては直せません。原稿は完成しないのですよ」


「いや、それはそうなんだけど…ほ、ほら、今回はほんとにコンビニ行くだけだから、ね…?」


 僕の主張に、絵空さんの「かわいい世紀末」顔がただの「世紀末」に変わる。


「先生」


「はい」


「何事も仕上げが肝心です。ここで万が一にでも先生のばっくれを許してしまった場合、絵空は編集長と読者のみなさんに顔向けが出来ません」


「鎖で縛るぞって迫ってる時点で、もう結構な人に顔向け出来ないと思うんだけど!?」


 無言でにらまれる僕。


「…ちなみに万が一と言いましたが、先生の逃亡は確率的にはほぼ確実…所謂『ほぼ確』と思っています」


「ほぼ確…」


「すみません、前科が前科ですので。なお編集長には『失神までならおっけーだよ』と言われております」


「おっそろしいなあの人!!」


 その後、前科については弁明の余地もなかったので、おとなしく鎖に縛られて絵空さんのチェックを待った。手持ちぶさたに部屋の隅で転がっていたら、この前無くしたイヤホンのあのくにくにした部分を見つけたのでちょっと得した気分だった。あとで拾っておこう。


「先生、確認終わりました」


 しばらくすると絵空さんから声がかかる。


「どうだった…?」


 聞いてみると絵空さんは少し考える。自分の意見を整理しているらしい。

 関係ないが、結構な美人が真剣な顔をして考えている前で、鎖に縛られたまぬけな成人男性が転がっている絵面は、改めて考えてもアブノーマル以外の何ものでもない。


「…そうですね、面白いと思います。特にここのシーンの、主人公の表情と台詞がいいですね。ストレートに相手に好意を伝えていて、好感がもてます」


「ほんと? よかったー、ちょっとくさいかな?と思ってたんだけど」


 ちなみに僕が書いているのは恋愛漫画。所謂ラブコメである。


「そんなことはないかと。好きという気持ちはともすれば独りよがりになりがちですが、先生のお話は『好き』という気持ちへの筋道が立っているので、感情移入ができます。なので、今回のお話もわたしはとてもよいと思います」


「へえ…」


 なんだか恋愛について語る絵空さんが珍しくて、まじまじと彼女のことを見てしまう。


「どうかしましたか?」


「あ、いや。恋愛漫画の編集さんなんだから当たり前なんだけど、絵空さんもこういうの好きなんだなって」


「……ふむ」


 怒らせてしまったかなと、思った。


 が、ふいに絵空さんは床に転がる僕の側に屈んでくる。息づかいまで聞こえそうな距離に戸惑っていると、彼女は、こっそり秘密を教えてくれる子どものようにささやいてくる。


「…実はそうでもありません」


「わたしは、先生の作品だから、すきなのです」


 思いもしない台詞と行動に動けない僕。それは縛られてるからではなかった。

 そして、絵空さんはなにごともなかったかのように立ち上がり、原稿を丁寧に封筒へ入れた。


「おつかれさまでした、先生。…さて、わたしは原稿をもって会社に戻りますね」


 そう言って絵空さんは原稿を抱えて、さっさと部屋を出て行った。玄関からは南京錠やらロープやらを外す音がしばらく聞こえていた。

 やっと解放されたというのに僕はなんだか、心まで縛られたような気持ちだった。


 ◆


 ちなみに。


 部屋で僕が鎖でがんじがらめになったままだと、絵空さんが気付いたのはそれから一時間が経ってからのことだった。


 いろんな意味で死ぬかと思った。

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