#08 Let’s go with me.

 ウールブへジンの砂を片付け終わったアパート。黒猫ソールは一度大きく伸びをすると、足音なく歩き、リビングのソファで丸くなる。

 チカゲは、ダイニングテーブルの白いティーキャンドルの隣に、水に葉を浮かべたグラスを置く。みずみずしい鮮やかな緑色の葉は、外から帰ってきたソールの体に付いていたものだ。

 そして一人分のコーヒーとチョコレートを用意した——フィーカだ。

 フィーカとは、所謂いわゆるコーヒーブレイクのようなもので、気分転換をする為に行う。

 まだ太陽は沈んでおらず、周りは明るいが、ティーキャンドルの小さな火を見つめながらコーヒーを飲むと、自然に体の力が抜けた。


「一人でフィーカするなんて三年ぶりかな」


 静かな空間と、コーヒー豆の香ばしい香りが記憶を刺激する。

 ヴェルザンディの笑顔が脳裏にちらつき、頬杖をついて、窓をぼんやりと眺めた。


「ヴェルと初めて会ったのも、もう三年前か」



   ■



 三年前のクリスマス・イブ。チカゲは、結婚の約束をしたヴィヴィと駅で待ち合わせをしていた。

 薄らと雪が積もる中央駅はクリスマス一色。イルミネーションの赤い光がとても幻想的だった。

 人が閑散かんさんとしている中、駅の白い壁を背にして、チカゲは彼女を待つ。

 黒い空から降る雪を見つめたあと、左手に持つコーヒーを一口飲み、赤いマフラーで口許まで覆う。腕時計で時刻を確認した。

 ——十八時……そろそろか。

 一つ、気になることがあった。

 スウェーデンでは、クリスマス前後は実家に帰って、家族と一緒に過ごす人が多い。

 チカゲたちも例外でなく、毎年実家に帰っていたのだが、今年は彼女の方から会おうと言ってきた。最初は断ったが、何度も頼み込んでくるので、今年は二人で会うことにした。


『チカゲ』


 遠くから名を呼ぶ声が聞こえた。

 その方向へ体を向けると、ヴィヴィは見知らぬ男と腕を組み、こちらに向かって歩いてくる。

 明るいブロンドヘアーの彼女はチカゲの前まで来た。まるで隣の男が恋人のように腕を組んだまま。


『こんな日に呼び出してごめんなさい』

『別にいいけど、どういうこと?』

『何となく、もう察してるとは思うけど……』


 ヴィヴィは隣の男を一瞥する。


『私、この人のことが好きになったから別れて』

『は?』


 突然の告白だった。

 好きになったという、暗いブロンドの髪色の男は『どうも』と短く挨拶するだけである。

 暫くの間、チカゲは考えるように黙る。


『わかった』


 その一言は、別れを決断した彼女の意思を尊重した結果だった。

 何年も同棲をして、特に気が合わないと思ったことはない。お互いに仕事をして、家事も分担して、それぞれ趣味を持ち、充実した生活を送った。

 そんな中で、新たに好きな人ができたことは残念だが、仕方がない。例え結婚前だったとしても。

 冷静な表情のチカゲを見たヴィヴィは、


『やっぱり』


 吐き捨てるように呟く。苦虫を噛み潰したような顔だった。

 そしておもむろにバッグを振り上げて、チカゲの体を叩き始めた。


『あなたはいつもそう! 私のやりたいようにやればいい! 好きなことをすればいい! そんなことばっかり言って、いつも私に反対しない! いつもいつもあなたは他人任せなんだから!』


 寒さで白くなった顔を真っ赤にして、怒りに任せて叩く。隣の男がバッグを取り上げようとするが、彼女は止まらなかった。


『そんなに私に興味ないの⁉︎』

『そういうわけじゃあ……相手を尊重するのは当たり前だろう?』


 腕で顔を覆いながら、チカゲは普段から思っていることを伝えた。決して間違っていない。心の底から思っていた。


『あなたは違うわ! 私を尊重してるんじゃない、興味がないだけ! 私なんてどうだっていいのよ!』

『もうやめるんだ、ヴィヴィ』


 隣の男がヴィヴィの両肩に手を置き、いさめる。

 やがてブランドのカバンを振るう手を止めるが、なかなか彼女の気持ちは落ち着かなかった。乱れた髪も直そうとしない。

 なぜ怒りを向けられたのか、チカゲは理解できないでいた。

 その顔がしゃくに障ったのか、ヴィヴィはいっそう睨む視線をきつくした。


『ずっと私が苦しんでいたことも知らないで……!』

『苦しんでた?』

『そうよ。愛してるの一言さえあれば、私は幸せだったのに』


 チカゲは目を見開いた。

 言われてみれば、いつから『愛してる』の一言を言っていなかっただろうか。

 一緒にいるということは互いを大切にしているからで、言葉にしなくてもと思っていた。


『私が言うまで、あなたは何一つ動いてくれない』


 ヴィヴィは体を掴む男の腕を振り払い、カバンをチカゲに投げつけた。

 そして——


『ヴィヴィ?』


 急に走り出す彼女の名前を、チカゲは呼んだ。

 ヴィヴィの様子は明らかにおかしかった。身を投げ出すように車道へ飛び出した。


『ヴィヴィ!』


 嫌な予感がする。

 持っていたコーヒーカップを置き、咄嗟にチカゲは走り出した。左手を伸ばし、走る彼女を引き止めようと名前を叫んだ。

 何度も何度も叫んだが、ヴィヴィは一度も振り返らない。自動車のライトに照らされて、やっと足を止めても、頑なにチカゲを見なかった。


 一台の黒い車が彼女をくまで、一度も顔を見せなかった。





 アパートに戻ったチカゲは、トイレの便器で嘔吐していた。目の前の事故は心を抉った。今でも悲惨な光景が瞼の裏に焼きついて消えない。

 ヴィヴィが車に轢かれてから、すぐに救急車を呼んだ。運ばれた病院で死亡が確認されたあと、彼女の両親と話をした。

 突然の死に頭は混乱し、どうやって帰ってきたのか、記憶はあやふやだ。

 彼女の隣にいた男も、いつの間にか姿を消しており、名前も連絡先も知らない。

 葬儀が行われるまでには心の整理をしなければならない。そしてこの部屋も。


『……何でこうなったんだ……!』


『クソッ!』壁を殴った。どうにもならない現実が感情を乱す。

 静かに壁に寄りかかった。

 ヴィヴィと一緒に買った壁画が視界に入る。赤い薔薇が描かれた油絵を選んだのは、確か彼女だった。


『何で薔薇を選んだんだっけ? ヴィヴィが薔薇が好きだったから? ……どうして思い出せないんだろな……』


 あざけるように笑った時——



『チカゲ』



 彼女の声がした。

 チカゲは顔を上げる。だが、誰もいない。いるはずがない。この部屋にいた、もう一人の住人はこの世にいないのだから。


『チカゲ』


 まただ。

 チカゲは声が聞こえた方へ歩いていく。真っ暗なリビングに来たが、誰もいない。


『チカゲ、ここよ』


 窓辺まで歩み寄り、窓を開ける。そこから声が聞こえた気がした。

 冷静に考えていたらわかるはずだ。死んだ人間はいない。だから声が聞こえるはずもない、と。

 それなのにはっきりと声が聞こえる。だから窓を開けずにはいられなかった。

 ここは四階。風が強く、癖のある黒髪が揺れた。


『チカゲ、私を抱きしめて。愛してると、言葉で示して』


 ——もし返事をしなかったら、君はまた怒るだろうか。

 どうして愛してると言ってくれないのかと。そこまで興味がないのかと。


『ヴィヴィ』


 両手を伸ばす。

 目に見えなくても、この手の先に君はいるんだと、そう思って。

 体がぐらりと傾く。


『愛してる』


 そっと黒い瞳を閉じた。

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