#07 Break the door

「いいかい。1+1=2という計算式も、命を持った生物の行き着く先が死であることも、ありとあらゆるもの全てが原典に書かれていることなんだ」


 余裕な様子で歩み、壁に刺さったレーヴァテインを引き抜く。風を切る高い音を鳴らしながら、チカゲに近づく敵を一掃。


「原典に書かれていることは、世界を構成する構成式で、その構成式に沿って世界は進んでいくのさ」


「それなら」切り出したチカゲは、真横にやって来たヴェルザンディの指を掴んだ。指を鳴らし続けた摩擦で、痛々しく腫れていた。


「俺がヴェルに会って、こうやって守られることも、原典に書かれていること?」

「それは書かれてないことだね。原典は全ての思考、行動をきっちりと書いてるわけではない」


「えいっえいっ」とロキはレーヴァテインを振ると、黄金の光がポンポンと生まれた。その光に触れたウールブヘジンの体は崩れていく。


神々の黄昏ラグナロク後、百年前に巻き戻されることが原典に書かれてる。巻き戻されたあとどうなるかっていうと、記憶を消された魂はシャッフルされて再配置されるんだ。役割、外見、性格、歴史、政治、国……だから、神々の黄昏ラグナロクによってリスタートしたとしても、その世界が前の世界と同じ歴史を歩むとは限らない」

「じゃあ、俺が俺として生まれる前は、同じ俺じゃない?」

「そーいうこと。人間だったからって、次も人間になれるとは限らない。そこらへんにいる虫かもしれないし、この汚い人形ウールブヘジンかもしれないし、ボクみたいに神になってるかもしれない」


 床から滲み出ようとするウールブヘジンの肉塊を、細い剣先が突き刺した。


「それが気に入らないんだよ、オージンは」


 憎しみを込めるように深く刺していく。ズブズブと。


「最高神っていうプライドがあるから、間違っても下等な生物になりたくないのさ。だから自分の都合が良い未来になるように、原典を書き換えたいんだよ。それを書き換える為のインクは、君の血じゃなきゃ駄目なわけ」

「だから俺のことをインクって呼ぶんですか。……安直」

「うるさい♡」


 ウールブヘジンの声が悲鳴へと変わる。大量の赤黒い霧状の光を口から吐くと、息絶えた。

 砂になったのを見届けて、やっとロキはレーヴァテインを抜く。その床には、刺した穴が見当たらなかった。


「チカゲ」


 ヴェルザンディはチカゲの指を握り、左手でそれを覆う。

 そして、彼の濡羽ぬれば色の眼を離すまいと捉えた。


「ワタシはチカゲのことが大好きだ」


 二人を取り巻く、数え切れないウールブヘジン。

 ロキがリビングのテーブルをひっくり返すと、青く光り輝くルーン文字の羅列——ウールブヘジンが召喚される扉があった。

 レーヴァテインでルーン魔術の扉を刺すと、瞬き一つでルーン文字が消える。

「ヴェルちゃん。もう出てこないから一気にやっちゃって」その声に、ヴェルザンディは頷いた。


「必ずチカゲを守る。絶対に誰にも殺させない。だから、つまらない未来を変える為にワタシに血を分けてくれ」


 よどみのない青い瞳。普段あまり見ることのない神妙な面持ちだった。

 その顔を見て不意に、チカゲはヴェルザンディに初めて会った日を思い出した。アパートから飛び降りようとしていた時、目の前の女神が助けてくれた。

 あの日も、こんな目をしていた。


「そんな堅苦しく言わなくてもいいよ。『羅生異端録らしょういたんろく・椿』を買って遊びたいとかでいいんじゃない? それに、俺はヴェルと結婚するって決めた時から覚悟はしてた」

「——ありがと」


 チカゲの朗らかな笑顔を見て、ヴェルザンディは不安を吐き出すように大きく呼吸をした。緩めた顔で、改めてチカゲと目を合わせる。

 左手を天井に掲げた。親指と中指を合わせ、指を鳴らした。


「《不憫な彼らに永遠の夢を》」


 一瞬だった。

 チカゲの首を掴もうとしていた手も、足に噛みつこうとしていた口も、何もかもが砂になって床に落ちた。

 扉が壊れた為、もうここにウールブヘジンが出現する気配はない。

 やっと安全の確保ができたとヴェルザンディは一息ついた。ロキもまたレーヴァテインを真珠のネックレスに戻す。

 暫くの間、部屋一面にある山盛りの砂を凝視したチカゲは、笑顔で口を開いた。


「俺、これの掃除するからさ、ヴェルとロキ様は買い物に行ってきてね」

「え?」

「え?」


 二人の声が重なった。

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