第二話 『黒竜の誓約』 その10
早朝、まだ空には星と夜の色が残る。うっすらと積もった雪を踏みながら、馬の鼻から出る白い息を浴びた。馬の瞳は怯えてはいない。ジギーの犬が馬小屋のなかで眠っていてくれたおかげで、狼を恐れることもなく十分に眠れたようだ。
指先を求めるように寄せて来た鼻先を撫でてやり、その背に飛び乗る。
「行こうか」
白い鼻息で応え、馬の脚が動き出した。ジギーの犬が見送りのために、馬と共に進む。森への入り口近くまで来ると、その重たげな腰を下ろしてしまったが尻尾は振ってくれていた。
「賢い犬だね」
「……準備は、万全かな?」
犬の飼い主の巨人族に首を縦に振る。
「しっかりと休めたよ。この子と同じように。いい戦いが、出来そうだ」
「凶竜ザードと、戦う……か」
「安心しろ。竜との戦い方も、竜騎士は心得ている」
「そうだろうな。理解しがたい世界にも、貴方はいるのだろう」
「ありがとう。料理と宿と……それに、朝食まで持たせてくれた」
「メイドに渡してある。馬の背で、食べるといい」
「……バロウの側に協力者として見抜かれないようにして欲しい」
「しばらく、森に身を隠しておく。あの山の上にある『竜灯台』に火を灯したあと、三日は隠れておくとしよう」
ガルーナにある伝統の一つだ。竜騎士に危機を告げるための灯台。本来は外敵の侵入を報せるために使われるものだが、今回はバロウ側の竜騎士をおびき寄せるために使う。少しでも、アレサ一行に敵が近づかないように、やれる手段の全てを講じるのだ。
「三日では、少ないかね?」
「いいや。三日もあれば、十分だ。バロウが、それまで王城にいることはない」
「頼もしい言葉だ。ご武運を。先に出発する」
「……ありがとう、ジギー。この恩は、忘れない。成すべきことをしたら、新しい翼と共に戻ってくるぞ」
「……ザードとかね?」
大きな目をしばたかせ、ジギーは彫刻のような無表情に悩みの色を浮かばせる。
「無法なことを、しないようになっているさ。そのころにはね」
「……期待するとしよう。うちの家畜を、喰われたくはないからな」
「いい子になるさ。あれは、フィーエンと同じように『グレート・ドラゴン』だ。本質は、再生のための破壊。手段は、目的を達成すれば、必要性を失う」
「敵対する竜を、滅ぼせば大人しくなるか」
「そうなるよ。竜を殺したいわけじゃないが、そうなる。竜騎士同士の共食いと、ザードの登場は一致していた。これは、運命だよ」
「……貴方に、全ての竜のご加護がありますように」
巨人族はその言葉に全ての祈りを込めた。微笑むティファ・ストラウスの姪を見たあとで、思い出に心を温められながら……ジギーは援護の工作のために先行して出発した。
馬小屋から、三頭の馬が出て来て、旅の準備がそろうよりも先に。
「もう行っちまったか」
「叔父上より年上なのに、素早い方だよ」
「働き者なんですね。とても、評価できます」
「悪いね、働き者じゃなくて。でも、今日はしっかりと働かせてもらうぞ」
「当然ですよ。一応、お姉さまの夫なんですから」
「機嫌がいいな……?」
「楽しい夜でしたので」
深く考えるまでもなく、中年男は真実を連想する。怒りがある夜は、愛情も比例するように強くなるものだ。初夜をメイドに寝取られた気持ちになるが、くやしさよりも別の感情が強い。興味深い、と考えてしまっていた。背徳を好める質は、年齢と共に深まった。
それに。
何であれ、過度な精神的な緊張が緩和されるのであれば問題はない。メリッサの嫉妬深さではなく―――アレサの炎のような怒りは、制御されている必要があった。
「ザードは、強いからね。冷静に動かなくちゃならない。いい仕事をしてくれたよ、メリッサくん」
「お詳しいんですね」
「ストラウスの血の気性の荒さは、知っているよ」
それは戦いに力を与えもするが、策謀に対しては弱含みもする。バロウは何かしら策を講じるだろう。卑劣な手も、許容するかもしれない。競ろうとは思っていない。勝利だけが目的だ。アレサを討とうとするし……ザードがアレサの竜となったと考えれば、他の竜騎士をたぶらかす口実にだってなる。
凶竜ザードは、『全ての弱体化した竜を一掃するために、竜の本能が産んだ怪物』なのだから。竜を守ろうとする竜騎士もいれば、自らの竜が『弱い』という烙印に耐えられず、勝利することで否定しようとする竜騎士も生まれる。
気性の荒さだけで、今後の戦いは乗り切れない。
メイドと何をしようと、どうでもいい。肝心なことは、怒りを御すこと。適切なときにだけ、解き放てばいい。ストラウスの宗家の血は、そういう器用さには誰もが欠いていた。
「さて、ついて来てくれ。ジギーが仕込んでくれた策を、有効に活用するぞ。竜の聖地へと向かおう。敵を掻い潜り……敵よりも怖い、大いなる竜の仔のもとに」
「道案内を頼んだぞ、叔父上」
「君の夫として、がんばるよ。いや……家族としてか。オレは、自分よりも先に、これ以上、自分よりも若い妻を死なせるなんて、まっぴらだから」
盾になろう。凶竜ザードの炎の盾にも。バロウの策謀の盾にも。生き残ってしまった英雄だ。悪神に右腕を喰われかけたとき、死んでいても良かった命。愛するティファに先立たれ、不用に思えていた命だ。
使い切るべきである。
このアレサ・ストラウスのために。新しい妻であり、妻の姪であり、自らの家族のために。死ぬ理由は、いつも生きる理由と同じものだ。古来より、その生き方をする者が英雄と呼ばれる。
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