第二話 『黒竜の誓約』 その11


 早朝の森、ジーン・ストラウスは馬を急がせた。記憶を頼りにして、暗がりの残る道を迷うことなく選ぶ。広い森だ。無数の分かれ道があるし、丘や山の影が森へと覆いかぶさることもあった。地上の追撃者がいたとしても、竜が空から探したとしても、そう易々とは見つけられはしない。


 この暗がりは、慣れた者にとっては加護となる。


 ジギーの息子たちと馬で遊んだこともあれば、作物を街まで馬車で運ぶ仕事をしたこともあった。物知りのジギーは、何だってやれる。ジーンの父親も彼の知恵を頼ることも多かったし、ジーンを労働力として提供することもよくあった。


 泥臭い人生もある。


 だが、その経験こそが力を発揮することもあった。今このときのように。若さを失いつつある体ではあるが、懐かしい森と……懐かしい戦いの緊張を経験することで、少しずつ戦士としての感覚を取り戻していた。


 長らく亡き妻の墓の前で詩作に耽っていたが、それだけの男でもない。元々は大きな冒険心を宿す男であり、数々の冒険を成し遂げられた理由は、集中力にもある。どんな役割であったとしても、すると決めたら迷いなく行動する人物だった。


 この英雄は、自分のことをようやく思い出しつつある。


「急ぐぞ。夜明けが来るよりも前に、もう20キロ進む!馬の体力を、使い潰すつもりで走れ!!どうせ、竜の聖地には入れないんだからな!!」


「これだけの馬を、捨てちゃう、わけですね……っ。もったいない」


「賢い馬だ!!道を辿って、ジギーの家にでも戻る!!竜のにおいの満ちた谷になど、長くいたくはないさ!!」


「いい判断だよ、叔父上」


「そうだろ!さあ、走らせろ!走らせろ!!……楽しく、なってきたよなあ!!」


「……不謹慎な冒険家さんだこと」


 メリッサ・ロウはため息を吐いた。末端ではあるが、ストラウス一族の血を引いている男だということだろうか。危険に近づくほど元気になるのは、彼女の敬愛するお姉さまと似た特徴である。血なのかもしれない。


 その血の流れないメリッサは、当然ながら緊張を強めている。


 凶竜ザード。


 あの偉大な白竜フィーエンと竜騎士姫のコンビと、引き分けた。いや、ガルーナ全体の竜と竜騎士が集まって、それと共闘して戦った結果なのだ。『引き分け』?……違う。凶竜ザードの力は、明らかにアレサ・ストラウスを上回っていたのだ。


 あれから、どれだけ両者の力量は変わったのだろう。


 アレサも成長している。竜騎士と竜の研究は、より完成へと近づいた。新しく作らせた竜太刀も、アレサの牙であり爪となっている。『竜の爪』の術も、獲た。強くなっている。強くなっているが―――凶竜ザードは、成長期にある仔竜だ。


 まだまだ、どこまでも強くなる。


 左眼を傷つけていることだけが、こちらの勝利の鍵となるはず。夜のあいだに教えてもらっている。そこを突くと。ザードは、才能と力しかない。したたかさに欠ける。『駆け引き』を使い、競り合い、勝利するのだと……。


 信じるほかにない。


 メリッサの祈りも、メリッサの強さも、竜という巨大なサイズには無力なのだ。


 何も、やれることはない。


 祈る。


 異教の神々も含め、知識のなかにあるすべての神々に祈る。


 お姉さまが、ザードの牙にかかり、歌になりませんように……。


 逸る英雄と、不安に黙し祈りを捧げるメイド。


 その両者のあいだで馬に乗る竜騎士姫は、落ち着き払っていた。考えるべきことは、多くあって然るべき状況ではあったが、集中力を発揮している対象は一つだけだ。


 動き。


 フィーエンと共に、ザードと戦ったあの夜の記憶の全てを辿っている。ザードが、どんな動きをしたか。どんな性格なのか。どんな力であったか。


 あらゆる動きを思い出していく。詳細にだ。フィーエンが教えてくれた竜の生態と照らし合わせながら、分析を深めていく。呼吸の動き、波打つうろこの動き、視線と首の動きを逆に使う……傍若無人な暴君である。動きから性格は読み取れた。ザードは、幼稚な暴君。圧倒的な力を持っているが、まだ……本当の戦いを知らない。


 全力を出し切っていないのだ。


 フィーエンとの勝負でさえ、全てを出せてはいなかった。


「……その出し方を、知らないからな」


 圧倒的な強者であるがゆえの、孤独がある。苦戦がなければ、競り合う経験がなければ、それを知らなければ……持ちうる全ての力を出し切れはしない。


 強者が弱者に劣る、数少ない傾向である。


 そこを突くしかない。弱さに隠れ、強さをいなす。正面からではなく、本能むき出しの竜の力に、うまく乗らなくては……。


 無数の、倒し方を想像する。


 どこをどう斬るか、どうやって何を回避するのか。


 想像の中では、完璧な動作となる。


 問題は、一つだけ。


 どうにも、殺す気にはなれない。殺しても、いけない。どうすべきだろうか。殺気という執着は、強さとなるのに……。


「……叔父上」


「何だ!?敵か!?」


「違うよ。経験豊富なあなたに、ただの質問さ」


「答えられることなら、何でも教えるぞ!!……現役を、離れてて、ちょっと鈍っていただろうが、少しは戻っているはずだしな!!」


「殺意以外に、それに勝るとも劣らない心の強さっていうものは、あるかな?」


「ある!!」


「教えてくれ」


「笑うなよ!!」


「笑わない」


「愛情だよ!!愛ほど、強くて深くて、おっかないものはない!!生死の境い目さえも、越えさせるような……とんでもない力があるんだ!!」


「……詩人だな」


「笑うなって!?」


「いいや。笑ってなどいない。いい答えだ。私も、それを使わせてもらおう」


 愛してやろう。


 全ての強い戦士へそうして来たように。敬意と愛を込めて、牙を使うのだ。どうせ、死にはしない。凶竜ザードは、あの偉大な力を持つ竜の歌は……きっと、この王国で最も長く歌われるに違いないのだから。


「竜騎士姫アレサに仕えた、竜としてな。愛しい、私のザードよ」


 二人の仲間には伝わらぬように、その小さな告白は白い息となって朝の空気に融けていく。全ての準備は、整ったのだ。戦い方も武器も、込めるべき感情も。愛しい者を欲して、全てを尽くす。それだけで、いいのだ。女には簡単なことだとアレサは理解していた。




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