六章

 あれから、春とは会っていない。

 春は迎えに来た父親に連れられて、どこかへと去ってしまった。

 いや、正確には無理矢理連れて行かれたのだろうか、アタシの元夫は顔を真っ赤に染めて春の服を掴んでいた。

 その時の状況は確かに良くなかったのだと思う。

 春の父親がアタシの部屋を訪ねた時、アタシは春と一緒に眠っていたのだから。高校生の、それも久しぶりに会った不謹慎な母親と、我が子が寝ていたのだ。それは怒っても仕方が無い、ちゃんとした理由があって、でもそれは傍から見ただけでは理解することなどできないもので、だけど春はいなくなってしまった。多分、だから春はいなくなってしまった。

 アタシの人生はそんなことばっかりにまみれていたような気もする。簡単に理解などできない状況に常に置かれていて、つまりそんな異常な状態がずっと続いていて、ある時常識のある他人からそれを咎められる。

 そんなこと。

1

 「常識なんて、気にしなくていいんだよ。」

 ずいぶん勝手なことを口走るなあ、と思いながらもアタシはただ頷く。しょうと別れて、一人になってアタシはパートに出ることにした。再就職は容易では無かったが、こういう時には人の縁にしか頼ることができないのだと切々と痛感していた。アタシは、しょうの両親から紹介されたスーパーで働くことになったのだ。

 そこは割と忙しい職場で、でもアタシもずっと会社でせこせこと働いていたのだから業務に慣れることは難しくはなかった。けれど人間関係はひどく荒んでいて、怒号が響くという様な現場だった。

 「でもさ、道端みちばたさん。まだ大学生じゃない。こんなおばさんの何が分かるのよって悪いけど笑っちゃうわ。」

 アタシは正直に思ったことを口にする。今目の前にいる道端さんの前では取り繕う、ということをいつもしない。しなくても彼女はなんら気にすることも無くいつも通りにぼんやりとしている。変わった子だなあ、とは思っていた。いや、アタシも随分しっかりと変な奴ではあるのだが、そういう種類とは異なるまた新しい変、なのである。

 ぼんやりしているように見えて、たまに鋭い言葉をスッと差し出す。彼女の言葉にはいつも、迷いがない。そこがとても気になって、気付けばいつも一緒に昼食をとっている。

 「分かりませんよ。でも分かるんです。想像になるのかもしれないけど、私からしたら草深さんはとても常識のある人なんだなって思うから。」

 「いやね、まあでもそう言ってくれるならありがとう。何か本当に悪いわ。道端さんみたいな若い子に、こんなに気を使わせてしまっただなんて。」

 「気なんか使ってません。私は、疲れることはしないって決めてるから。」

 「ホント道端さんって変ね。でもアタシは好きよ。」

 「やだな、照れます。」

 道端さんとはいつもこんなやり取りを繰り返している。

 そもそも道端さんがアタシをかばうようなことを言ってくれるのは、店長がひどい人だったからなのだ。店長はアタシの前科を見せ全員に知れ渡る様に言いふらし、アタシの立場をなくしていこうと画策している。

 でも、道端さんが、器用なこの子が取りなしてくれるからアタシは幸いこのスーパーでやっていけているのだ。

 こんなに若い子だけれど、アタシはとても感謝しているのだった。

2

 前科があると、生きることが非常に苦しい。そもそも罪なんて、だいたい追い詰められた際にしてしまうものでは無いのだろうか、追い詰めていた者たちは口を閉じ、ただアタシをその沈黙の眼で見つめている。一体、何の権利があって彼らはそんなことをしていいのだろうか、なぜ許されているのだろうか、なんて刑務所の中では考えてしまっていた。でも実際には犯罪者は怖いし、どう扱っていいのか分からないというのはアタシもそうだし、だから何かがおかしいなんていうことは特に思わない。

 アタシは、

 「草深さんいる?ちょっと来てよ。」

 考え込んでいる時にいつも店長は声をかけてくる。タイミングを見計らっているのではないかと疑いたくなる程だった。

 「はい、大丈夫ですよ。何かご用件でしょうか?」

 休憩中だというのにズカズカと踏み込んでくるところがこの人らしいなと笑ってしまった。

 「うん、ちょっとね。悪いけど聞いた?店の商品が万引きされたんだって。でも無くなったのが、商品棚じゃなくて倉庫なんだよ。だから、従業員の犯行なのかもしれない。それでね。」

 顔を見ていた。その顔は少し興奮しているようだった。人はなぜ興奮するのだろう、興奮している人間は傍から見ればすごく愚かしい。けれど、人は興奮を心から求めている。アタシはそれを、知っている。

 「…つまり、アタシが疑われているってことですか。」

 とても冷静な声が出た。もちろん身に覚えなんかなかったし、そんなことを言われる筋合いもない。だが、店長がアタシを疑うのは理解できる事実だったから、アタシはただすうっと言葉を放った。

 「そう思われるのは仕方ないけど、でも違います。」

 「うん…うん。まだはっきりとは分かっていないんだ。でも従業員の犯行となると扱いが難しくてね。ごめん、草深さんにいきなり訪ねたのは失礼だったのかも、早計だったよ。」

 そうか、この人は案外店長を名乗っているだけあって、いつも興奮しているような印象だったけれど、でも物事を上手く収めることに奔走しているだけなのかもしれない。アタシみたいにパートでいいや、なんていう無責任さは無く、彼の顔は真剣だった。

 「いや、アタシが疑われるのは仕方ないし、大変みたいだから何かわかったら連絡します。」

 「ああ、頼むよ。」

 そう言って少しやつれた顔のまま彼は休憩室を出た。

 

 「そう、それでね。やつれた顔をしていたの。」

 帰り道、今日は道端さんと一緒に帰ることになった。

 まだ事実は従業員の間に広がっているわけでは無く、ただいつも通りの退勤を済ませてきた。アタシの日常は、いつもこのようなものだった。

 「はい、私も知ってます。」

 そうだ、一部の従業員の間では、すでに周知の事実だったのだ。棚卸し作業の一環で、この事実を掘り出されたのだから、それも当然のことだった。

 「そう、道端さんも知ってたの。」

3

 驚いた。道端さんは商品の管理では無く、主にレジ打ちを主としているアルバイトの女の子だから、このことを知ってはいないだろうと踏んでいたのだ。

 「はい、聞いたんです。でも、今までやってきた中でこんなこと無かったし、店長もみんなも珍しいって訝しんでました。私も、なんかざわざわした空気が嫌で、あんまりみんなと話さないようにしていたんです。」

 「そうなの、でも道端さんが気にすること無いんじゃない?だってあなた、関係ないじゃない。関わりのある仕事もしないし、そんな、空気が悪いだなんてこと気にしなくても平気よ。」

 アタシは、努めて優しい笑顔で彼女にそう言ったのだと思う。だって、道端さんの顔はだんだん歪んでいって、泣いてしまったのだから。

 包容力がある、と言われたことがある。

 前の、夫だったかな。

 春の父親でどうしようもない奴だったけれど、まだ付き合い始めの頃、彼は笑いながらそう言った。そこが好きなんだって、言っていた。

 懐かしい、と思う。でも、戻りたい、とは思わない。アタシは、今のアタシがアタシなんだから。そうやって自分を保たせないと、多分すぐに崩れてしまうのだから。

 「…あの、だから私なんです。盗んだの、私なんです。店長に倉庫の鍵を借りて、初めて入ってみたら商品が詰まっていて、一つくらいいかなって思って、でもバレなかったから何個も、盗ってしまいました。悪いことだと分かってても止められなくて、私、なぜなんでしょう。」

 道端さんは顔を背けそう言った。

 彼女が犯人だとは思わなかったけれど、意外に繊細で弱い所があって、だからアタシみたいなヤバい女と一緒にいたんだと今思った。

 アタシは、この自分よりはるかに若い女の子を、放っておくことはできない。

 たとえ店長に嫌われてクビになっても、守ろう。この子の将来を、アタシが守るしかないのだろうから。

 「…分かった。自分からは言えないでしょ?アタシが、言ってあげる。それで穏便に収まる様に頑張るから、もう盗みなんてしないで。これはあなたのためなんだから。辛いんだったら、逃げればいいのよ。それだけは覚えておいて。絶対。」

 思いつく限りの言葉を彼女に向かって言い募った。

 少し真っ赤になりながら言い切っていた。そうしたら、道端さんは少し目を見張り、でも静かに頷き家へと帰って行った。

 アタシは、その夜あの子の将来が明るいものであるように、とお風呂の中で祈っていた。


 「おはようございます。」

 「…おはようざいます。」

 挨拶をすると、店長はやや疲れた声でそう答えた。

 道端さんは仕事を辞めた。辞めて勉強に専念するらしい。それはとてもいいことだなあ、と思った。だって、勉強をしていればあの子は救われるはずだし、まだ大学生なんだからそれが実れば将来につながる。

 本当に、だから良かった。

4

 「アタシは辞めなくてもいいんですか?」

 アタシは、店長にあの後強く掛け合った。道端さんが犯人であること、でも反省していてもうしないと言っているから許して欲しいということ、アタシの口から聞いたらきっと嫌な顔をして散々な暴言を吐くかも、と思っていたが予想とは反して店長はいたって冷静で、その冷静な顔のままアタシにこういった。

 「分かったよ。道端さんのことは俺が何とかしておくから。だから分かったってことにしておいて。道端さんには、今度俺が話をしてみるから。だからもう帰っていいよ。お疲れさまです。」

 意外だった、アタシが今までに認識していた店長に対するイメージとは違ったから。全然違った、この人はやっぱり店長を務めているだけあって、思ったよりもずっと深く物事を考えているようだった。

 だから、「何か、ごめんなさい。忙しいのに手間を取らせて、悪かったわ。」と言ったら、店長はため息を吐き薄く笑った。

 「沼越ぬまごしさん。ねえ、アタシ本当に辞めなくていいの?だってあなたアタシのこと嫌ってるじゃない。こういう出来事があったらアタシをクビにすることぐらい、出来るでしょ?」

 アタシはだから店長に、沼越俊好ぬまごしとしよしに詰め寄った。

 だって単純に理由が分からないから、なぜ道端さんの件で、アタシがあの子を強くかばっていたんだし、無理を言ってしまったんだから処分としてクビにしてもらっても構わなかった。それくらい、ちゃんと意気込んでいたつもりだった。

 「…あなた、馬鹿でしょ。」

 「え?」

 「深見さんは道端さんをかばっただけなのに、何でクビになるんだよ。そんなことでクビにしたら俺が怒られるよ。そうだな、個人的には俺あなたが嫌いだった。でも道端さんをかばっているところを知って、案外いい人なのかもしれないと気になった。だから…辞めさせる理由なんて無いんだ。」

 え?それって、どういうこと?

 アタシは何も分からなかった。ずっと関係が悪いと思っていた店長が、どうやらアタシのことを認めていてくれたのかもしれない。そして、それをつっけんどんな言い方でしか表現できないこの不器用な男は、今目の前で顔を赤らめている。

 馬鹿らしくて、何だか馬鹿らしくて、笑ってしまった。

 アタシの人生はいつも暗雲が漂っているような気持になっていたけれど、実際はそんなことは無くて、アタシは時を兼ねるたびに、色々な出会いを授かっているような気がする。そして、また。

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