五章
久々に春に会うことを許された。
あれからもう10年が経とうとしていた。
春と別れたのは30代の初めで、アタシはもう40代へと突入していた。
春は、思春期を迎えた高校生で、何の思い付きがあったのかは知らないが、アタシに会いたいと言っているらしい。父親が、アタシの元夫が、そして春の保護者がアタシをあの子と会うことから遠ざけていた。もちろんそれは構わなかったし、アタシはそもそも春に暴力を加えていて、もう顔を見ることすらしてはいけないことなのだと思っていた。
今でもそれは間違っていることだとは特段思わないし、むしろ正しいことなのだと思う。
でも、
「…久しぶり。深見広っていうの。春、アタシのこと覚えてる?」
目の前にいるまだ幼い小さい男の子にアタシは最大限優しい声音を使って話しかける。というか、この姿を見ると愛おしくなってしまって、優しくせざるを得ない。
どうか笑って欲しい、そんな些細な欲望が、アタシの胸を埋め尽くしていた。
「………。」
ところが春はずっと黙っていた。表情を読もうとしたけど俯いていてよく分からない。
どこで会おうかっていう話になって、じゃあファミレスにしようかとアタシが提案したらすんなりと受け入れてくれた。アタシは、アタシの元夫を通してでしか春に連絡を取ることができない。でもそれは当然だと分かっていて、だから取り立てて春に何かをしよう、などとは思わない。ただ春が望むのなら、アタシだって会いたいのだ。
「お母さん。」
短い一言だった。だけどアタシは聞き逃さなかった。
「なに?」
「あのさ、来てくれてありがとう。俺さ…話があって来たんだ。」
春は徐々に話すペースを掴む子供のようにたどたどしく話していた。アタシはそれがとても胸に刺さって、抜けそうもなかった。だから、
「なに?言ってみて。てか、お母さんって言っていいのかな…。まあ、とにかく来てくれてありがとう。アタシ、悪い人間なんだけど、春にあえてとてもうれしい。本当にありがとう。」
そう言ってみたら、春は少し恥ずかしそうに笑っていた。
「あのさ…。一緒に住んでくれない?…駄目?」
え?一緒に住むって、何?アタシとってこと?アタシは、春を虐待した女なんだよ?そんなの、いいわけないじゃない。
「駄目ってことは無いけど、何で?話してくれる?アタシ、聞くから。きっと事情があるんでしょ?アタシみたいな女と暮らすだなんて言ってしまう程の何かが、今春の身の回りにあるってことなんでしょ?」
そうだ、そのはずだ。
「…ごめん、まあそうなんだ。実は、お父さんがひどくて、元々暴力をふるうのはお父さんだったでしょ?お母さんはその反動で俺を殴ってた。小さい時の俺はでも、直接俺を殴る母さんを恨んでた。でも、今は父さんが憎い。父さんは、ひどい奴だ。」
激しい言葉だった。アタシは少し圧倒されてしまった。しばらく見なかった息子の顔には、昔の姿からは想像もできない程の強く深い憎しみの色が広がっていた。
1
あいつは、春の父親はどうしようもない男だった。暴力は振るうし、でも放っておくことなんてなおさらできないし、アタシはもう気付いている。アタシはこういう男に惹かれてしまうのだし、でもそれは間違っているってことを、きちんと理解している。
優しさに付け込む、という言葉があったとして、アタシは割と付け込まれてしまうのかもしれない。無条件な優しさなんて気取ったことは言えないけれど、他人に強く意見をすることができず、ズルズルと顔色を伺ってしまう。アタシはやっぱり、だから壊れているのだ。
「春、本当にいいの?」
ちょこんとリビングの椅子に座るこの小さな背中をアタシは眺める。もしかしたらずっと欲しかったものなのかもしれない。アタシは、こんなに満たされたことは今までになかったのだと思う。だから今、とても幸せだ、とはっきりと自覚できる。自分でも驚くほど、それは鮮明だった。
「…良いも悪いも、俺行くトコないから。やっと抜け出せたんだぜ?しかもあの親父が良く許してくれたよな。出張だからまあいいだろうって、どういう価値基準なんだよ。今まで俺をお母さんに合わせようとしなかったくせに、都合よくそんなこと言って、勝手だろ?」
春の言うことはよく分かる。
本当にアタシの元夫は何を考えているのだろう。でも、きっと深いことなんて何も考えていないのかもしれない。あの人は、そういう人だった。アタシと結婚する時だって、何かに追い立てられるように急いでいた。アタシもなぜかすごく辛くて、結婚をすれば全てが救われるのだと信じて疑ってすらいなかった。
この世の中の幸せは全て、そこにあるのだと、思っていた。
その結果がアタシは刑務所行きで、今夫は息子と離れて暮らすことになっている。つくづく人間って、分からないしめんどくさ過ぎるんじゃないかと呆れてしまう。
「そうだけど、アタシのことはさ、春は良いの?母親だけど、もう捨ててしまって構わないんだから。」
「何言ってんだよ。俺が捨てたらお母さんは?一人ぼっちじゃん。それに…俺も。」
春は少しためらっていた。アタシが一人かどうかなんて、そんなのどうでもいいことなのに、心配してくれたのだろうか、アタシは感情が飛び出そうだ。子供を、過去に殴ってしまったことが思い起こされる。アタシはその度、罪悪感で死のうと決意する。
腕には、リストカットの跡が残っている。
誰にも言わないけど、アタシはやっぱり壊れているんだ。
2
「痛々しくて見てられないよ。」
死んでしまったしょうがよく言っていたっけ。
まだアタシはしょうのことを思い返してしまう。あの、アタシにとっての家族だった人を考えてしまう。
「それ…お母さん何?」
ハッとした。見られているなんて思わなかったから、アタシと春はちょうどいい距離をお互いに確保していた。その距離が無いときっとアタシたちはうまくいかなかったのだろうと思う。それに今上手くいっているかのように見える関係が崩れてしまうことを想像すると、その距離がずいぶん離れていると考えても壊すことができない。
「これは…だから。ちょっと転んだ時に派手にすりむいて…。」
信じられないような嘘が口から出ていた。馬鹿だ、こんなの春は絶対何かあるって分かってしまうじゃないか。だって、一見してもそれはただののリストカットの跡でしか無かったのだから。
「だから…。」
アタシが口ごもると、春は言った。
「見たらわかるよ。リストカット、したんだろ?お母さん、そんなに辛かったの?ねえ、お母さん。」
春の方も動揺しているのだろうか、言葉が少し拙くなってきている。
アタシ達は沈黙を抱えている。でも、それでも平気だった。だって春はアタシを、アタシの手を握ってくれて、アタシはただ震えていた。
アタシって、弱いんだ。誰かにかまってもらわないと、本当はダメなんだ。でもそれじゃダメだから、ほんの少しの間だけ、神様、お願いします。
アタシが春と一緒にいることを許してください。
もしかしたら、ずっと春に依存してしまうのかもしれないという先行きの恐ろしさを想像しながら、アタシはでも眠りに落ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます