三章

 1

「久しぶり。」

 「え…久しぶり。しょうだよね?アタシ分かる。もうおばさんになっちゃったけど、分かるわ。」

 「…そうだよ。実は噂で聞いてさ、出所するって言うから迎えに来た。」

 夢って、あるんだと思った。その時は現実がひどく薄いもののように感じられた。親にも、大人になって作った家族にも、見放されたアタシ。

 誰が迎えに来てくれるのかなんて、最早想像もつかなかった。

 けれど誰かがやってくるということだけは分かっていて、ボランティアの人か何かだろうと決め込んでいた。

 でも。

 「何でしょうが来たの?」

 アタシは率直な疑問をぶつけた。

 出所祝いということでちょっと高い和食料理の店へと連れて行かれた。甘えていいのか判断がつかなかったが、出たてのアタシは思ったより感情を消費していることに気付き、あまり考えることも無く付いてきてしまった。

 「何でって、俺はずっと広のこと探してた。誰と付き合っても、やっぱり広のことを思い出していた。ああ、もうそういう存在なんだなって思うしかなかった。好きな人ができても、広に対する感情とは違う。それは脆くてすぐ崩れそうなものなのに、お前に対してはずっと同じ感情を抱いていられるんだ。不思議だろ?」

 そう言われても、それって昔なじみだからだし、恋人というより家族に近いのではないか、と言いたかったが、その前にしょうが言ったのだ。

 「これは俺の考え、嫌だったら断ってよ。とにかく、俺と付き合ってくれってこと。分かった?」

 「…分かった。」

 アタシは天ぷらをかじりながら俯く。そしてしょうの顔も見ずそう言った。だって、今のアタシは保護の対象なんだと思うから、どうしようもなく身寄りが無くて、どうしようもなく誰かに頼りたかったのだから。

 そんな馬鹿げたこと、あるって感じ。アタシの人生はいつも良いことよりも悪いことで満たされていたから、でもその頃のアタシを知っているしょう、だからしょうの存在はただ安心という他に無かった。

 アタシは、アタシの中に渦巻く疑念を少しずつ感じ取りながらも、もう全てを諦めてこの現実に託してしまおうと思っている。それで悪かったんなら、もういいや、とさえ思っていた。

 「広、言っておきたいことがある。」

 締めのデザートをほおばっていた。みっともない程がっついているような気がしたけれど、目の前にいるのはしょうだ。気にすることなど何も無い。気にする必要など何も無い、アタシは無意識に自分の裾を掴んでいた、それに気づいたけれどただ無視をした。

 「何よ言ってよ。まあなんかあるとは思ってたわ。だって急に現れるんだもの。アタシの居るところだって結構探さないと見つからなかったと思うし、言っていいわよ。気にすることなんかないもん。」

 「そうか、じゃあ言うよ。」

 「俺、もうじき死ぬから。もうじき死ぬって先週、医者に言われたんだ。ガンだってさ、もう治らないって。末期だって。」

 「…え?」

 現実感、というものが薄くなっていた。ずっと会っていなかったしょうは、アタシにとっては最早他人だったのだから、そんなに驚かなくても不思議じゃないけど、アタシは最初にしょうを見た時よりも遥かに現実感を失っていたように思う。

 「しょう、それって。だからアタシのこと探したの?じゃあ、アタシが刑務所にいるって分かったんなら、こんなめんどくさい女に最後の時間を奪わせるなんて、間違ってるわよ。アタシだって、良いことと悪いことの区別はつくのよ?だからアタシは刑務所にいたの。悪いって分かってるのに、やめられなかったから。」

 感情が高ぶっていることは分かっていた。けれどアタシはしょうの目をじっと見据え、心に深く刺さる様に研ぎ澄ました言葉を投げかけようと努めていた。

 「はは、だからだよ。俺はね、お前みたいに感情をむき出しにして、傷ついて、それを隠そうともしないで、だからずっと苦しくて。そんな女が好きなんだ。そんなお前が、やっぱり好きなんだって、思い出した。だから必死で探したんだ。これから、俺が死ぬまででいいから、一緒に居てくれよ。」

 「…そんなの、悲しいわ。アタシ、すごく悲しい。だって、何でしょうが死ぬの?息子にも、家族にも会えない、自業自得な私みたいな人間が本当は死ぬべきなのよ。分かってるの?ねえ、しょう。だから、死なないで。」

 無用の応酬とでもいうのだろうか、何の解決にもならないこの繰り返し。だけど、

 「じゃあ、広は俺のこと大事に思ってるってことだろ?心配してくれてるじゃないか、だったら、ただ居てくれよ。それでいいんだ。」

 そう言って笑った顔は、切実な何かを抱えているようだった。

 アタシは、とにかくしょうの元から離れることはできないのだと悟った。傍にいていいのか、なんていう問題よりももっと根深く、アタシはただしょうと一緒に居ようと誓っていた。

 運命に負け続けた人生だったのかと思っていたが、運命なんてポロっとどこかからやってくるのだということに気付いた。だから、アタシはただ一生懸命に生きてやろうと心に決めた。

 せめて、しょうが死ぬまでは。


2

 あれからしばらくが経ってしまった。

 しょうはまだ生きている。

 寝起きの暗さの中で、アタシは隣に眠るしょうを見つめる。

 刑務所では子供の顔が浮かんで消えなかった。春は、ずっと笑う子だったのに、もうアタシの前では何かを憎んでいるようなひどい目を向けていた。あの子は、アタシに似ないで物をはっきりと、黙ってややこしくなんかせず言い切る子になったのだなとぼんやり思う。

 小学一年生で、自分の母親を告発する。

 こんな残酷なことをアタシはあの子にさせてしまった。でも、アタシはアタシにしかなれないことをよく分かっているから、もどかしかった。

 アタシは、もう誰かと深くかかわることはやめよう。誰かを傷付けてまで幸せになれるだなんて、もう思えない。アタシはアタシ一人で立つ。それしか方法がないことをこの湿った刑務所の中でずっと考えていたのだから。

 「おはよう。」

 「おはよう。」

 やっと目覚めた。もう、しょうはこのまま眠ってしまったまま、二度と起きることは無いのではないか、と思うことが増えた。だってしょうの病気は深刻で、日に日にやせ細っていく様を、じっくりと感じているから。

 毎日一緒に居てもしょうの細り方は異様だった。

 病気になるということは、きっとこういうことなのだといつも感じるしか無かった。

 「何、不安そうな顔して。ごめん、もしかして心配かけてる?ごめん。」

 朝歯を磨きながらアタシたちは向かい合う。しょうが、これが良いんだと言っていた。母親が、昔こうやって面と向かい合って歯を磨くということをしてくれたと言っていた。

 「ああ、ううん。アタシ刑務所に入ってたから、眠りが少し浅いの。共同生活って大変なのよ。気を使うし、やっぱり眠れないわ。」

 「そうか…。」

 しょうは神妙に頷いてアタシの顔を触る。なぜ顔を触るのか、とは思ったが動物のじゃれ合いのようなもので、とくには意味は無いのだとだんだん分かってきていた。

 「今日、出かけるんでしょ?」

 「…うん。一応ね、親にさ、俺が死ぬってこと伝えないといけなくて。」

 「そうね。」

 しょうは、両親とあまり仲が良くないらしい、家族が皆強圧的で、居場所が無かったと笑いながら話していた。

 アタシは、知ってる。笑いながらでも、泣きながら言葉を紡ぐ人は傷ついてる人だって。誰にも知られたくないのに、知られてしまう。そして、自尊心のようなものがぽきりと折れる。

 だから、そんなしょうの姿がとても辛かった。だから、アタシはしょうを大丈夫だと言って撫でてやった。そうしたら、しょうはそのままぐっすりと眠ってしまった。一か月前、雨が降る夜のことだった。

 その日は雨が降っていた。

 ざあざあと止むことが無く、アタシは傘を持たずにこの店へと来てしまったから、非常に参っていた。しょうが新しい服が欲しいというので、アタシのセンスで選んで欲しいと言い張るから仕方なく町の中で一番しゃれているデパートを選んで足を運んだ。

 「お客様、この商品は旦那様への贈り物などでしょうか?」

 少し年を取っている30代はもう過ぎたような女性店員が、親切そうな笑顔を向けてアタシに笑いかける。

 「そうなんです、包んでいただけますか?」

 「分かりました。少しお待ちください。」

 そう言って女性店員は包装紙に手をかけ始めた。とてもきれいな色合いのそれを、私はじっと見つめながら選んだ。

 しょうには、ジャケットを買うことにした。革のジャケット、とてもきれいで美しかったのだ。そのシナっとした様を見ているとしょうに着て欲しい、という衝動のようなものを感じた。

 そんなことを思っていると、先ほどの店員が満足げな顔を携え、アタシの元へと小走りでかけてくる。

 「お客様、お待たせいたしました。お品物です。どうぞ。」

 「ありがとうございます。」

 彼女がにこやかにほほ笑むから、アタシは少しはにかんで笑い返した。

 アタシには、あんなに綺麗な顔で笑う自信がない。あんなに綺麗ではないし、そもそも笑顔という物を作ろうとすると、顔が引きつってしまう。

 デパートを出ると外は本降りの雨が降っていて、高揚していた気持ちが一気に冷めていくことをはっきりと感じた。

 はあ、こんなに幸せな気分だったのに、アタシはこんなにもたやすく不機嫌になってしまうのかと落胆のため息を漏らした。

 隣には同じようにどうしようとうろたえている男女がちらほらと動き回っている。

 アタシは、だから一緒にそのあたりで雨を待ってみようか、と考えた。

 そう思っていたのに、

 「広、雨降って来ただろ?急いできたんだ。迎えに行かないとと思って。」

 とてもビックリしてしまった。嫌嫌な気持ちで立っていたからしょうのあまりにも無邪気な笑顔に何かが吸われてしまいそうな心地になった。

 「何で来たの?今日病院でしょ?ちゃんと休んでよ。ちょっと動いただけでも疲れるし、養生してよ。」

 そう言ったらしょうは、少し悲しそうな顔でこう言った。

 「…それ、買ってくれたのか。ありがとう。あのさ、これからちょっと一緒に出歩かないか?」

 「別にいいけど、もう帰るだけだったし、じゃあ行こう。」

 それから、アタシたちは家へ帰った。

 本当はどこかホテルにでも行こうかという雰囲気だったけれど、しょうが咳き込み始め、どうしようもなくそうなったのだ。その時のしょうの顔は、とても辛いという言葉が一番当てはまっていたと思う。

 「ごめんな、プレゼント選んでくれたから、お返しがしたかったんだ。でも、出来なかった。もう俺には何もできない。ただ謝るしかないみたい。」

 「いいよ。病気なのに気にしないで。アタシは、別に誰かに何かをして欲しい、なんて望まないのよ。ただ、アタシはアタシがコントロールできなくなったときに怖くなるの。その時のアタシは紛れもなくアタシなのに、とても汚いの。嫌なの。悲しいのよ。」

 しょうといると、他人に対する境界線をいつも超えてしまうのだなあ、と感じている。それはどうやらしょうも一緒で、だからアタシ達は二人で一緒に居るのかもしれない。

 「………。」

 「急に黙らないでよ。何?もう遅いけど、しょうが今日は起きてようって言ったんじゃない。やっぱり辛いなら、寝ようよ。」

 「いや、違うんだ。俺今日これから、朝になったら親に病気のことを打ち明けに行くつもりだから、それで俺。」

 しょうにしては珍しく言葉が拙く、アタシは顔を覗き込む素振りをして見せた。

 「何だよ、お前にしては珍しいよな。顔、覗き込むなんて。広はいつも人と距離をとっているから、それ、俺だけなのかな。」

 笑った彼の顔が、少し楽しそうに苦し気だった。

 「そうだよ。しょうにだけ、嘘じゃない。昔からアタシ、しょう以外には近づけないの。しょうにだけ、こんなに近づくことができる。」

 「はは。」

 アタシ達はお互いにはにかんだ。

 そして、自分たちのことを語り合って、眠ることにした。

 しょうは時折、崩れてしまった。病気になって、今まで耐えられていたことが、どうやら耐えられなくなってしまったらしい。そんな辛いこと、アタシはただ見ることしかできなかった。それしかできることが思い当たらなかった。

 そして、ただ抱きしめ合って、深い底へと落ちて行った。

 それでもアタシは、しょうがきちんと生きているかを確認してしまう。こんな時でも、アタシはしょうの命がいつまで保つのか気になってしまい眠ることができない。

 「死なないで。」

 この酔った夜に、まぎれてアタシは呟いた。

 聞かれていないと思っていたのに、しょうはその直後にアタシの手を握り締めた。

 とても強く、汗ばんだ手の平だった。


3

 大人になるまでもう少し、そう思っていたのは短い夏のことだった。

 高校三年生の頃、アタシは地道に努力をしていた。今まで全く手を付けていなかった勉強に、ひどく励んでいた。

 別に大学を受けようっていう訳じゃない。けれど、アタシはとにかく就職をしたくて、先生に頼み込んで安定した会社を紹介してもらった。同級生の中でも割といい企業に就くことができたように思う。

 自慢ではないけど、アタシは自分に自信がある。

 そして、アタシは同時に誰よりも、自分に自信が無かった。

 コツコツと働いていく中で、手に入れたのは人生だった。こうやって一つ一つ何かを掴んでいく感覚は最早快感で、アタシはその魅力にはまり込んでいたように思う。

 新田賢三と出会ったのもそういう過程の中でだった。

 アタシが受付嬢として勤務している時、彼は営業の社員でよく接触する機会があったのだ。実際に、隣に座っていた女の子は新田の同僚と付き合い、寿退社を遂げた。

 女なんて、人間なんて、こんなにもあっさりと幸せをつかむのだなあ、とその時思ったことをはっきりと覚えている。

 アタシの人生には、幸せという存在がそもそもなかったのだろうと思う。幸せだと思ったものはだいたいすべてが壊れていき、アタシはただそれを受け入れることしかできなかった。

 「賢三。」

 アタシは静かに尋ねる。

 「ごめんね、アタシが馬鹿でごめんね。」

 アタシは毎日賢三に問いかける。そして賢三は、

 「…お前はさ、広はさ。いい奴なんだ、都合のいい奴とか、口がうまく回るやつとか、そんなんじゃない。お前は、ただ単純にいい奴なんだ。」

 「何それ、分からない。」

 この会話は、ひっそりと静まり返った夜に交わされたものだ。

 アタシ達は二人で酔い、そして二人で破滅へと向かい、そして一人でそれぞれの道を歩むしか無かったことに気付く。人は、一人でしか居られないということを、思い知る。だからアタシは、そのことを思い出し目を閉じる。少しこぼれる涙が、またアタシを現実から遠ざける。

 どこか遠い所、そんなところに行きたかったのだと思う。アタシたちは未熟で、幼くて、幼稚だった。アタシたちは、だから壊れてしまったのよね、賢三。

 古傷は痛む、32歳になった今も、アタシの体中に広がる傷は、たびたび痛みをぶり返す。そしてその度に心がズキリと痛む。その度に、アタシはまた酔うのだろう。

4

 「え、そうなの?広、昔付き合ってた男に会いたいの?」

 「別に…そうじゃないけど実はね。昔居た会社の同僚から連絡があってね、何でアタシなんかに連絡を寄こしたんだろうって思ってたけど、理由があったの。」

 そうだ、アタシは賢三に会いに行かなくてはならない。

 「どういうこと?広が会いたくないんなら行かない方が良いんじゃない?」

 「違うの。」

 しゅんは不安で疑問という顔をしていた。アタシはだから少し笑ってしまった。

 本当は、

 「その人、新田賢三っていうの。アタシと別れたのはね、浮気相手の女の子を刺したから。そいつ、アタシのことも殴ってたわ。」

 「何だよそれ…。」

 「それでね、あのね。同僚だった人が言うには、賢三がおかしくなったていうことなんだって。おかしくって…もともとちょっとやばい奴だったけど、どうやら引きこもっているらしい。すごく明るい人だったのに、可哀そうじゃない。家族も困ってて、その人に連絡が来てじゃあアタシに頼んでみるかっていう流れなの。」

 そう、でもだからってアタシとはもう縁が切れたはずなのだ。だけど、アタシは賢三のことを見捨てられない。あの人のどうしようもない部分を理解してしまったから、アタシは手放しで突き放すことができない。

 「そういうことなんだね。分かったよ。俺、広がこういう奴だって知ってるから。」

 無理に笑ったという様な顔で、アタシを見る。だからアタシはごめんと一言だけ呟いて身支度をし急いで家を出た。

 賢三の実家までは近いのだ。地区の中でも一軒家が林立する割と値段の高い住宅街の中にあり、そこは静かで、でも何かが潜んでいるような不気味さを感じさせた。アタシはこの物言わぬ空気が苦手で、あまりこういう場所に足を踏み入れることは無い。賢三は、こんな町で育ったのだ。こんな場所で、歪んでいったのだ。

 「ピンポーン。」

 妙にはっきりとしたインターホンの音が静かに響き渡る。アタシはその感覚に、緊張と共に体中が強張ることを感じていた。

 「はい、新田です。」

 少しの間があって女性がそう答えた。

 アタシがあまり害のなさそうな見た目をしているから、警戒心を少しほどいたのだと分かる。30代になり、アタシは途端に地味になったように思う。

 「…あ、あの。賢三さんの知り合いです。話があってきました。草深広と言います。お伝え出来ますでしょうか?」

 インターホン越しでも、その先にいる相手の顔が強張る様子がありありと見て取れた。そうか、この家の中では賢三のことはそういう扱いなのだ。タブー視というか、まああまり触れたくない、でも触って爆発しかねない何かだと。

5

 「分かりました。聞いてみますね。あなた、深見広さんとおっしゃるのね?賢三に聞いてみるわ。」

 賢三の母親なのだろう、いかにも主婦をしているといった言い方で、でもその柔らかみのある声に、アタシは自分の中に無い、でも掴みたくて仕方が無い何かを感じていた。

 こんな人に育てられたはずなのに、会社とか外ではあんなに人当りが良くて、そうだ、この人は好青年なんだと一瞬で判断させるあの強さをなぜずっと保つことができなかったのだろう。

 人を殴ったり、傷つけたり、刺したり。賢三の弱さは底が知れない、怖いとは思うけど、でもアタシは賢三を完全に嫌いになることができない。なぜなのかは、分からない。

 そんなことを思っていると、

 ガチャリ。とドアの開く音がした。

 「どうぞ入って。賢三があなたに会いたいって言ってる。多分知ってると思うけど、あの子今引きこもってるのよ、私たち夫婦もちょっと困っててね。仲が良いんなら様子を見て欲しいの。」

 母親はキレイな人だった。主婦をせず、キャリアウーマンとしてもきっとうまくやっていけるのだろう、そう思わせるような要領の良さを醸し出していた。けれど、一つだけとても目についてしまうことがあって、彼女の顔はずっと困った様に笑っていた。これは、何かをずっと、強く抑圧されてきた人の顔だ、とすぐ思った。アタシは、そういう人を見たことがいっぱいあるから。

 室内はいかにもな住宅で、小綺麗にそろえられた調度が平凡を強調しているように思う。しかし、二階へと続く階段を上がるたびに、空気が変わってきた。匂いが強く、鼻を衝く。空気の循環が少ないことがよく分かる。そうか、この先が賢三の部屋なのだ。

 「コンコンコン。賢三、いらっしゃったわよ。深見さんだって。………お父さんはいないわよ。」

 母親は、賢三にそう言っていた。最後に付け足したお父さんがいないという話、これは何を意味するのだろうか、そう思っても聞くことはできなかった。だって、彼女の顔は緊張していて、アタシも一緒にそうなって、部屋の中からは物音ひとつしない。これは本当に、どういうことなのだろう。アタシが楽観視しているだけで、賢三はかなりヤバい状態なのかもしれない、思ったよりも根深く、傷ついているのかもしれない。

 「じゃあ、私はこれでいったん下へ行くから。後はよろしくね。帰るときにはひと声かけてくれるとありがたいわ。」

 そう言って逃げる様に彼女は立ち去った。だからアタシはそれを反応を示すまでもなく呆然と見送るしかなかった。

6

 つまり分かっていたのだ。

 アタシと賢三の関係を、普通の友達などでは無いということを、勘の良い彼女は察している。

 そうだ、アタシと賢三はいわゆるただならぬ関係だともいえるのかもしれない。だって表向きにはあまり知られていないけれど、アタシと賢三は一時は駆け落ちまでした仲なのだ。

 落ちるところまで落ちてしまった関係だと言い切っても過言ではないのだろう。だが、あの母親にも誰も、このことはあまり知られてはいないはず。だからアタシはこうやって何食わぬ顔をして賢三の部屋の前に立っている。

 アタシがなぜここに立っているのか、今また少し分からなくなってしまった。この後に何が起こるのまた分からず、動悸が激しくなる。

 殴られていた、確かにそうだ。なのにまだアタシは賢三のことを心配している。本当に割に合わないし、おかしいのだとも思っている。

 けれど、

 「賢三、久しぶり。」

 ドアを開け、意を決して放った言葉は、虚しく宙を舞うだけだった。

 「…ああ、久しぶり。広だろ?」

 そこにいたのは、細り、弱ってしまった彼だった。彼はすっかり何かを抜かれてしまったかのように、ベッドに伏せっている。

 「何で来てくれたの?」

 一生懸命絞り出すように言葉を出しているのだろうか、賢三の体は少し震えていた。

 「何でって…聞いたのよ。あなたの同僚に、あなたが大変だってこと。一体どういうことなの?何でこんなにやつれてるのよ。アタシのこと裏切っておいて、こんなのないわ。幸せになっていてよ、そんなの、だって。ズルいじゃない。」

 アタシは思いつく限りの言葉を賢三に向かって投げかけた。アタシは必死に、そうやって賢三の何かを燃やしてみたかった。ごろりと転がる彼の体を、どうにかして動かしたくて、たまらなかったのだ。

 「はは、相変わらずきついな。でもそれが広の魅力だしね。てかさ、最近どうしてんの?お前の方こそ、何か大変だったらしいじゃん。刑務所、とか聞いたけどホントなのか?」

 「ホントよ。アタシはそういう人間なの。だから放っておいて。それよりもあなただわ。何ふざけてんのよ、起きなさいよ。ねえ。」

 感情が高ぶって言葉が次第に乱雑になっていく。その様子を興奮するアタシとは裏腹に、非常に冷静な何かがじいっと見つめている。

 「まあ、まあ。分かってるよ。俺だってさ、起きたい。でも、駄目なんだ。起きようと思うと色々なことが面倒くさくなって、力が入らない。毎日が地獄だった小学生の夏休み明けのような気分なんだ。正直、辛いよ…。」

 言いながら笑った。アタシは、笑うなと思った。笑ってごまかすな、笑ってなかったことになんかするな。間違っていても、賢三は賢三のままでいてくれればいいのよ。アタシはそれで、満足できるの。

7

 アタシはまたしょうのことを思い浮かべる。そうだ、ずっとそうだった。アタシは何か逃げ出したいことがあるとしょうのことを思い浮かべていた。衝動的に処理できない感情を抱えた時なんか、助けてと願ったことさえある。

 アタシはいつも誰かに救われていたいのだ。救われないと辛くて、どうしようもないから。

 「それで、どうだったの?その賢三さんって人、何か変わってくれた?」

 しょうは穏やかな口調でアタシの頭を撫でている。撫でられると猫になったような気持ちになり、でもどこか気恥ずかしくていたたまれないのだ。

 「…まあ、ね。ちょっとは外に出てみるって。アタシがわざわざ来てくれたんだから、頑張るって言ってた。」

 「そうか、良かったな。」

 心から安堵したという様な感じで、彼は言った。

 でも、だって。賢三はアタシの昔の恋人で、それなのに何の感情も抱かないなんて、そんな理不尽な考えが頭の中を過る。過り始めると止まらなくて、アタシは少し混乱する。

 そう思っていたら、しょうはまた重い咳を一つした。

 「ちょっとしょう、それ何?病院で診てもらったの?大丈夫なの?」

 母親が子供を叱るという状況があったとして、いつも母親はどこか興奮したような様子で対応するのだろう。多分それと一緒で、アタシは今とても興奮している。

 いなくなってしまったら、きっとアタシの中の何かが壊れてしまう。そう予感させるしょうは、ズルかった。先に逝ってしまうなんて、ズルい。アタシは最近、ずっとそんなことを思っている。

 今日はだから二人で眠ることにした。

 いつもは適度に離れているのに、今だけはしっかりとくっついていようとしょうが言ったのだ。アタシはいつも恥ずかしがっていて、どうやらしょうも同じような気持ちでいるらしく、アタシ達はこの距離感を保っている。

 違和感はない、あるのはただ、見えない現実だけだった。とても怖くて、恐ろしい。けれど本当に引っかかっているのは、はっきりと分かっている事実を直視することなのかもしれない。

 考えても考えても、辛くなる。だからもう、だからもう。そう思いながら眠りに落ちていた。

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