二章 

 欲しいものは手に入れた、と思っていた。

 けれどそんな季節はとうに過ぎていて、 アタシは30歳を迎えていた。

 30歳なんて想像もしていなかった。けれど鏡を見ると少し老けた私がそこにはいて、だからもう鏡なんて見ないようにしようと決めていた。

 「草深くさみさん。いらっしゃる?」

 「いますよ。呼んできましょうか。」

 「あら、悪いわね。いやね、草深さんに用があって来たのよ。ちょっとね、大変なの。」

 悪い予感は的中する。

 この声はアタシが勤める会社の取引先の社長のものだ。彼女は横柄で、でも賢い。アタシはその賢さにいつもからめとられそうになるから、そもそも関わらないように極力努めていた。

 でも一体何だろう?嫌に含みのある言い方で、またクレームだろうか。

 アタシはビジネス客相手に商材を売る、という仕事をこなしている。

 商材は土木関係で、ここはとにかく男性の職場だった。力仕事の得意では無いアタシでも、とにかく客を虜にするという理由で置いてもらっている。重いものは、その辺のぼんくらに持たせろ、というのは社長の口癖だった。社長はいかにもな成金男で、いかにもな男の遊びをたしなんでいる。ゴルフとか、キャバクラとか、酒とか。そういう所が本当に、気持ちが悪くて仕方が無かった。 

 「…こんにちわ。」

 「こんにちわ。」

 アタシは律儀に返事をし、女社長は含んだ笑いを崩さない。

 「何か御用でしょうか。心当たりがないのですが。」

 そういうつもりはなかったけれど、特に忖度もせず言葉を放つところがアタシの好まれるポイントらしい。別の取引先の男性が教えてくれた。

 自覚はしていなかったが、そういう融通の利かない所がこういう職場では重宝されているということを知って、アタシはただ驚いていた。

 もう勤めて12年になる所だった。最初はめんどくさい仕事ばかりで嫌だったが、その当時は受付嬢だったしまだ同じ年ごろの人たちと変わらない仕事をしていたのだと思う。けれどある事件があって、アタシの付き合っていた人が別の女と浮気をし、挙句の果てに刺すという衝撃的なものだった。

 一時は逃避行なんて考えていたのに、今ではただ酔っていただけのように感じられる。

 「あなたさ、昔事件を起こしたんだって?いや、違うわね。あなたが付き合っていた新田賢三という人の話でしょう?あなたは会社にもバレていないと思っているようだけど、私は知ってるの。だから来たのよ。」

 彼女はずいぶんと得意げな顔でアタシを見下ろす。けれど、アタシはそんなことはどうでも良かったのだ。

 「はい、そうです。でも一つだけ勘違いがあります。アタシのことは上司がきちんと把握しています。だから、アタシはその時やっていた受付嬢から今の営業の仕事へと回されたんです。」

 「な…。」

 アタシが得意気に語ると、彼女は目を丸くし顔を歪める。どこで聞いてきたのかは知らない。でもこういうことは昔から何度もあったのだ。こんな些細なことで、アタシは最早崩れることは無い。アタシは、もう前なんかよりずっと強いのだから。

 「どうされたんです?」

 そこへヘコヘコとした上司が現れた。彼はいつもよりさらに気味の悪い笑顔を作り、彼女の機嫌を取ろうとしている。

 そうしたら、ものすごい剣幕で彼女は言った。

 「深見さんがね、ロクな女じゃないって聞いたのよ。だからいっつも私のこと適当にあしらっているから、ちょっと言ってやりたかったのよ。」

 「そうですか。」

 上司は顔を一度たりとも崩さなかった。こんなことどうでもいい、とでも思っているようだった。けれど、それは間違いでは無いのだ。

 この人は今業績の悪い、そして再起の見込みの薄い会社の社長で、とても困窮している。そのはけ口として選んだのがアタシで、でもそのアタシが生意気で、いたたまれないのだろう。

 でも、だからこそアタシはこの女に忖度をする必要性を感じなかった。

 そして、そのまま彼女は泣き崩れ、別室へと連れて行かれた。

 アタシは弱い女が嫌いだ。

 弱い女なんて、自分の弱さを処理できない女なんて、ましてそれを他人にぶつけることでしか解消できない奴なんて、死ね、と思っていたから。

 きれいなもので着飾って、自分を装飾する。

 それはアタシの母親のことだ。アタシの母親はアタシが5歳の頃、浮気をした。真面目だった父はいつも酒を飲むようになり、アタシのことを目に入れないように背を向けていた。たいして友達もいないくせに、一日中家に引きこもってそうやってグダグダと過ごす。それがアタシにとっては日常だったけど、次第に耐えることができなくなっていた。

 「広ちゃんがね、友達に手を出したのよ。」

 同じ保育園に通う女の子の母親がある日突然家にやって来てそう言った。

 アタシは、間違いではないことは分かっていたけれど、どうすればいいのかが全く分からなくて応対した母の後ろに隠れていた。こういう時には、アタシはまだ母親に頼るしかなかった、いや、頼りたかったのだろう。

 スカートのすそを掴んで困った顔を作ってみた。そうしたら何だか世界が晴れたような気持になって、アタシの心は温かかった。

 「…知らないわよ。聞いて無いもの、広が殴ったっていうの?そうだとしても私は保育園の人たちから何も聞かされていないわ。」

 母はそう言った。そして、その女の子の母親は少しひるんだ。

 アタシは、当然だ、と思った。

 その子は、アタシが一人で遊んでいたぬいぐるみを横取りして、挙句の果てに散々罵り上げた。それでもアタシが無視を貫き通しているから、泣きじゃくった。それで、こうなってしまった。

 「ふざけんな。」

 アタシはアタシの中に眠る暴力性をこの時はじめて自覚した。

 だって、殴った瞬間はとても爽快だったんだもの。

 その時以来だろうか、アタシは自分を綺麗なものだとは思わなくなった。汚くて当たり前、そう自覚した。積極的に人を殴らなくても、アタシはただ一人その衝動を飼い慣らすしかなかった。

 30歳の今、アタシはその衝動を存分に解き放っている。

 20代のうちに男から殴られていたから、そして子供の時には親から殴られていたから、アタシは今になって最悪の行動をしている。

 アタシは、アタシは自分の息子を毎日殴っている。

 しゅんは、だから鬼のような目で、アタシを睨みつける。そして、その目がアタシをさらに興奮させ、また再び殴る。

 いつも最悪で、そう思うのにやめられない。アタシは春を手放せない。アタシはだって、たった一人だから。捨てる勇気なんて無い、できない。

 それに、言ってしまえばアタシも殴られている。誰に?それは、夫に。

 つくづく逃れられないのだなあ、と思う。アタシはこの暴力の連鎖からいつまでたっても抜け出せない。どうやっても、それは無理なことらしい。

 この広いはずの世界で、アタシにできることは少なく、アタシはアタシの運命を全うしている。もうそう思って考えることなど止めた。考えなければ苦しくない、そのことをしみじみと分かっているから。

 「ママ、今度言っといたから。」

 「何を?」

 ある日突然、息子の春がアタシに向かってそう言った。

 春はもう小学生になっていた。まだ一年生で、学校に入ったばかり。目に映るものすべてが新鮮で、美しく感じられるのだろう。だから何か、きっと些細などうでもいいことをアタシに話しかけているのだと思った。

 数日後、彼らはやってきた。

 「あなたが野田春君のお母さんですね。実は虐待の疑いがあります。署までご同行ください。」

 その時春は友達の家へ遊びに行っているはずだった。でも、多分どこかで保護されていたのだろう。それ以来アタシは春とはもう会っていない。春はアタシを選ばなかった。アタシを殴っていた男を選んだ、と聞いた。

 理不尽だ、とは思ったけれど、よくよく聞いてみればアタシはもう加減という物を分かっていない、暴れ馬のような暴力を春に浴びせていたらしい。

 青ざめる気持ちを誤魔化すことができない。刑務所の中では、だからアタシはずっと歯の根が合わなかったのだ。

 もちろん会社はクビになり、アタシが刑務所を出たのはその二年後だった。

 刑務所に入る程の罪だけど、アタシも殴られていたという事実が勘案されることも無く、でもアタシが精神的に参っていたということが情状酌量ということになり、割と早く出所することができた。

 これから、どうしよう。でも、もうどうにでもなれという気持ちしか起きなかった。だって、きっとアタシは運が悪いのだ、そう思うしか他に方法が見つからなかったのだから。

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