アタシ

@rabbit090

一章

 どうせ、どうせアタシなんて下らないのよ。

 そう吐き捨てるのは簡単だった。でも、

 「ひろ、何してんの?それめっちゃでかいじゃん。怖…。」

 彼の名前は結城ゆうきしょうという。アタシの同じ学校の、ただの同級生だった。

 「知らない。いう必要無いから。」

 アタシは淡々と答える。他の人の前ではいつもアタシは強がっている。アタシは誰よりも強くなければ、きっとすぐに崩れてしまうから。

 結城しょうはでもそんなアタシのことを面白がっている。

 だからあたしもコイツの前ではたまに素が出てしまう。そしてその姿をさらすと結城は、顔を歪めて笑っている。

 

 「なあ、広。さっき何いじってたんだよ。でかい虫…よく触れるよな。」

 学校帰りに一人で歩いていると、たまに帰り道が重なる結城が声をかけてくる。

 「…何って、見ればわかるじゃん。カブトムシ。クラスで飼ってたやつ。今はアタシが世話をしてるの。何でって、アタシは生物係だし、みんなはもうあの子には無関心だから。アタシが世話しないと死んじゃうんだから!」

 でも本当は結城の前でだけはいつもより強がれる。強がっても、コイツはただ面白がってまた声をかけてくるだけだから。

 クラスメイトから避けられているのは分かっている。アタシだって、アタシみたいな子がいたらきっと避ける、そう理解している。

 「はあ、広。お前ってホントおかしいよな。いつも思ってるよ。でもそういう所が気になっちゃって。自分でも困惑してる…、だって普段だったらお前みたいなやつに俺構わないもん。でもさ、違うんだよな。自分でも分からないんだ、つまり。これって恋なのかな。」

 結城はいきなりそう言った。訳が分からなかったけど、ただ。

 「何言ってんのよ。アタシは一生誰とも結婚も、だから恋愛もしないって決めてるの。知ってるでしょ?学校中の人が知ってるわ。アタシの家族が壊れてるってこと。」

 「…チっ。」

 舌打ちされたことについては何も思わない。アタシと結城の関係はそういう物だと分かっているから、アタシは結城がどれだけ崩れても多分嫌わない、そして結城もアタシがどれ程壊れても、きっと許容しているのだろう。

 不可思議な関係だ。けれど、アタシにとってはそれが救いだったのだと今は思う。

 小4のことだった。

 高校に入るまではずっと一緒で、でもそこで離ればなれになってそれからはもう会っていない。たまに会いたいとふと思う時があるが、でもそんなことは起こらなくて、25歳になった今、アタシは恋に落ちている。

 「広。」

 渋い声、アタシはこの言葉を聞くと胸がいたくなる。恋をしているからそうなるのか、それとも違うのか。

 「………。」

 体に走る衝撃、殴られたのだと気付くまでには時間がかかった。痛いと思うことはもうあまり無くて、この人はアタシを殺すことは絶対になくて、それが分かっているからアタシは妙に落ち着き払っていた。

 「痛いって…。」

 初めは本当に驚いた。けれど、次第にどうでも良くなってきて、ただ時間の経過を祈っていた。こうやっている間に、私はただとても暇だった。大好きだったはずのこの人に、殴られている自分が惨めで、でもそれを感じたくないからきっと心を鈍麻にして、アタシはそうやって生きている。

 「…ごめん。」

 「…いいよ。いつもの発作なんでしょ?分かってるから、大丈夫だから。」

 「うん。」

 アタシは強く彼の背中をさすってあげる。そうすると彼は子供の様に落ち着き払って眠りへと落ちる。

 アタシは、虐待を受けていた。

 親からは殴られたし、散々傷付けられた。しかし、殺されることは無かった。彼らは、アタシにそこまでの関心と執着をどうやら持っていなかったようで、とっととアタシを捨ててどこかへと行ってしまったのだ。

 どこへだって行けばいい。アタシには何一つ関係がない、アタシはただアタシとして生きるしかないのだから、それをよく分かってるんだから。

 なのに、アタシはアタシの呪縛から逃れることはできなかった。

 アタシはまた、この暴力と精神的支配、この世界へと足を踏み入れてしまった。でも仕方が無い、彼は、賢三けんぞうは可哀そうな奴だから。アタシを殴ることでしか呼吸をすることができない、アホらしいと分かっているのに拒絶することなどできない。

 アタシたちはきっとみんな、馬鹿なのだ。

 

 多田賢三と知り合ったのは同じ会社で勤めているからだった。

 賢三は時折笑いを含んだ表情を見せるようなひょうきんな男で、女性社員から慕われていた。 

 アタシも彼のことは嫌いじゃなかった。だから、ホテルに誘われたときは特に迷うことも無く付いて行ったのだ。けれど、会社の中で作っている、とその時知ったのだが、ひょうきんな彼の顔はそこには無かった。

 困ったような顔でアタシの顔も見ず、ただ強く絡みついていた。その様子がなぜだかツボにはまって、アタシは彼と付き合うことになったのだ。

 「広はさ、会社ではすごくいい子だよね。受付嬢とかこなせるの、すごいと思うよ。」

 会社の中でアタシよりはるかにひょうきんな彼がなぜアタシにそんなことを言うのかは分からなかったのだが、アタシはアタシが自覚しているより男性社員に人気があって、受付嬢としてもレベルが高いということになっているようだった。

 アタシの、あの噓の愛想笑いを心に響かせて、ご機嫌になっているだなんてアホくさい。

 アタシはそうやって心の中で人を見下している。そうやって、アタシはアタシを保っている。至極、最低な奴だなとは昔から思っていたことだった。

 でも、そんなアタシのことを大好きだと抱きついてくる賢三は本当に好きだった。好きで好きで仕方が無かった、それは今でも変わらない。

 ただ、殴られるようになってから、気持ちのどこかが彼から離れていて、どこか白けた様子で俯瞰している。そうすると途端に全てが無意味なような気持ちになって、嫌に苦しいのだ。

 「広…。」

 だからある日、神妙な面持ちで語りかけられたときはドキリとした。もう暴力の中で生きている私にとって、やけに切羽詰まった賢三の言葉が胸に響いていた。

 「何よ、そんなに悲しい声を出さないで。アタシもすごく辛くなるじゃない。」

 「…あのな。俺考えたんだ。俺分かってるよ、ちゃんと正気なんだよ。お前のこと殴ってる俺は、正気なんだ。」

 「どっちでもいいよ。アタシは賢三のことが好きなんだから、愛してるよ。そう思うもの。」

 「………。」

 アタシはこの空気が何か嫌で、それなのにこの沈黙が場を支配していることが嫌で仕方なかった。やけに静かで、答えが無い。何が待ち受けているのか分からない、そういうことが一番嫌いだから。

 「俺。」

 急に静かな声が響き渡る。ドキリ、とした。胸が、痛かった。

 「人を殺した。」

 その言葉はずるりと彼の口から吐き出された。しかし、アタシが驚くことは無かった。毎日殴られていると、最近、賢三の理性が壊れてきているということが分かっていたからだ。アタシに対しては寸前で踏みとどまれるのに、何だか生活の様々なことで踏ん張りがきかなくなっていることを感じていた。

 例えば、それは満員電車の中で人とぶつかった時、舌打ちにとどまらず殴りかかるとか、本当にそんなこと、そんなことをしでかしてしまうようになっていた。

 だけど、

 「そう。」

 アタシは賢三を責めない。分かっているもの、彼の中には手のつけようのない化け物が潜んでいるということを。

 そしてそれは、たぶん似たような物であって、アタシの中にもひっそりと、でも確かに息づいているということを。知っている、アタシはちゃんと、理解している。


 それからアタシたちは世間から遠ざかることに熱心になった。

 もちろん、一緒に勤めていた会社は辞めた。

 住民票も移さず、逃げることを決心した。

 「…ごめんな、お前のこと巻き込んで。」

 「いいよ、どうせアタシも逃げたかったんだもの。」

 その頃から賢三の暴力は激しさを増していた。けれど、アタシのことを殺すことは無い。だから、平気。

 平気、アタシは本当に逃げたかったのだし、辛かったのだし、普通を装うことが難しくて、やっぱり苦しかったのだから。

 どこへ行こう、賢三に問いかけても彼の目はうつろだった。それはそうだ、彼は本当に人を殺してしまったのだろう。詳しい事情を聞こうと思ったけれど、それを許す雰囲気はもう彼の中には存在しない。

 「賢三…ずっとこのままでいようよ。」

 「ああ、そうだな。」

 不安な様子を隠すことも無く、アタシたちは寄り添った。

 でも、本当は。

 アタシはこんな大変な時に、いつもアイツにすがっている。

 しょう、どうしよう。アタシはどうすればいいのかな、もう分からないのよ。

 ふり絞ってもそれは声にはならない。声にしてしまえば何らかの形を持ってしまうことになり、それがきっと今のアタシを苦しめることになる。だから、まじないとして、ただ心の中で呟く。それだけでアタシは一人、救われるのだ。


 鳥の声が反響する。

 こんな田舎へやってきたのは久しぶりだった。

 昔、アタシはこんなど田舎で暮らしていた。車でしかどこへでも行くことができず、それが裕福なことなのか大変なことなのか、よく分からなかった。けれど、その頃の両親はまだ余裕があって、アタシのことを殴ってなどいなかった。

 アタシには、味方がいた。

 その人はそんなど田舎にある小さな宗教施設の長で、よく一人で遊んでいたアタシを世話してくれた。

 もちろん、殴られてなどいなかったが、まともな食事はとってはいなかった。自分たちが朝軽く摂るバナナやヨーグルトなんかを、常温のまま置いておいて食べようが食べまいが、腐っていようがいまいがお構いなしだった。

 アタシはそれらの放つ醗酵したようなにおいが苦手で、食べなかった。

 発酵食品をさらに醗酵させていたのだから、仕方が無いだろう、とは思ったけれど、アタシはそれがばれると家から追い出された。

 食べ物を粗末にするなと、真っ当な顔をして怒られた。

 「おいで、何も食べてないんだろ?」

 だからそうやって一人ぶらりと外を歩いていると、彼女が声をかけてきた。彼女は、町の中で外れ者だった。そりゃそうだ、こんな閉塞的な田舎でよくわからん宗教施設なんて築いてるんだから、当然のことだとさえ思う。

 でも、町の人はアタシのそんな状況を知りもしなかったのに、彼女は眉をひそめてアタシに食べ物を与えてくれた。

 「…ありがとうございます。」

 最初は照れて何も言えなかったけれど、次第に心を開くように言葉が出てくるようになった。

 「喋れるんじゃない。良かったわ、アナタ、ずっと気にかかってたのよ。」

 いつもよりうれしそうな顔でアタシのことを見つめている。その顔がとても真剣で、こっちが少し恥ずかしかった。

 それから、ずっとそうやってアタシたちはひそやかな交流を続けていた。

 しかし、彼女はある日、消えた。

 事情は分からなかった。けれど、死んだのではないということだけは知っている。それは、いなくなる前にさよならを言いに来てくれたからだ。

 「ごめんね、一人にしてしまうの。行かなくちゃいけない所があって、これ、少ないけれど、ちゃんと持っていて。私があなたにできることの全部だから。」

 そう言って手渡された封筒の中身を確認するより、その時のアタシは彼女と離れたくないという思いでいっぱいだった。だから泣きながら、行かないでと言い募った。けれど、彼女は言ってしまった。もう戻らないということは、その姿を見たらよくわかる。彼女は真剣な人だった、だから誠実に力を費やし、そんな人だからもう会えないという決意を体全身から放っていた。

 アタシは、沈み込むしかなかった。

 けれどしばらくして、もらった封筒の中に100万円の大金が入っていることに気付き、アタシはそれを大人になるまで慎重に管理しながら生きるために必要な支出にだけ使っていった。

 その時の記憶を探り出して、今日眠るための糧とする。

 幸せだった頃の思い出に一人耽るだけで、私は救われた。

 「アタシ、どうしよう…。」

 不安定な生活の中で、人を殺したという男との逃亡道中の渦中で、アタシは心底参っていたらしい。

 だからそれが無意識に寝言に出てしまったらしく、聞いた賢三がある日言った。

 「いいんだ。嫌ならいいんだ。巻き込むつもりなんてなかった。でも離れたくなかった。それだけだから、それだけだから…。」

 「どうしたの?急にそんなこと言わないでよ。びっくりするし、不安になるわ。大丈夫だから、アタシはあなたが好き。それだけ。それだけなの。」

 突然不安を口にした賢三をなだめようと思いついた安いセリフを口にした。

 自分でもみっともないなあ、なんて思ってしまう程、昔ドラマの中で聞いたような言葉だったから、賢三は苦笑いを隠すことさえしなかった。

 「そうか、そうだな。まあ、今日は寝よう。」

 話はそこで終わってしまって、アタシはホッとした半面、アタシに対する執着とでもいうのだろうか、アタシへの暴力が今日は無かった。もちろん、無い方が良い、だけど。なぜだか胸はざわついた。今日の賢三は、だからいつもの賢三では無かった。


 目覚めると、賢三はいなかった。

 アタシはなんだか最初から分かっていたような気持になって、ぼんやりとベッドの上でまどろんでいた。

 ホテルの一室で二人で寝ていたはずだ。けれど隣にはもう、愛していたはずの男はいなかった。

 いなくなって見ると、安心している自分に気付いた。申し訳ない程、ほっとしている自分がいて、アタシはそのまま元の日常へと戻る決心を下した。

 会社へ行くと、賢三のことが話題になっていた。

 「ああ、あのな。矢田賢三君がな、同僚の女の子を刺したんだって。その子は賢三君と恋仲のような状態で、でも関係がこじれてカッとして、そう供述しているらしいよ。」

 「へえ…。」

 アタシの空白は特に問題もなく処理されていたらしい。真面目な態度でしっかりと勤務しているから、という理由で上司が便宜を図っていてくれたらしい。

 しかし賢三は、あの後自ら自主をして、逮捕されたということだった。

 殺したと言っていたけれど、その子は無事で、でも賢三にはもう会いたくないと怯えているらしい。

 可哀そうな賢三、でもアタシは今、自由を謳歌している。

 勝手な奴だ、とは我ながら強く思う。でもアタシは、元来そういうやつなのかもしれない。ひどくすっきりとしてよく眠れる。

 今日はどこに行こうかしら。

 浮足立つ気持ちを抑えることなどもうできない、アタシには昔もらった100万円があって、ほとんど使うことは無かった。私を助けてくれたあの人に、いつか返せれば、と思っていた。

 けれど、この全てから解放された気分に呑まれて、アタシは間違いを起こす。

 「そう、それを下さい。」

 もう何軒目だか分からない、ずっと心の奥底にしまってきたはずの欲望、それを解放させることに何の抵抗すら感じることは無かった。

 「ああ、スッキリする。よく眠れる気がする。」

 ここは都心のホテルのスイートルームだ。最上階から眺める景色は、輝いていた。ずっと貯金をすることで生きてきた。そうしていれば、安心できるから。でも、そんなものは必要なかった。アタシは、今とても生きているという心地を実感している。

 アタシは、今とても幸せだ。

 

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