『月桜 秘したり園の神楽舞』
隊とはぐれた剣士は、兜を脱いで、渓谷の川の水をすくった。
今日は、一日中モンスターと戦って、水を飲む時間さえなかったのだ。
すっかり日は落ち、雲間に月が見え隠れした。
兜の水を飲み干して、辺りを見回した。
悪くない場所だ。襲われにくそうな予感がする。
今日はここで野営をするか。
ここら辺に現れるモンスターなら、自分の剣で追い払うことが可能だ。レベルの低い妖魔の
焚き木に使う小枝を集めようとしたとき、川に誰かが入る音がした。
リザードマンか? 川トカゲの類なら楽勝で勝てる。
奴らの皮は、高額で取引される。手ぶらで帰るよりも、一つ、皮を剥いで帰った方が、仲間から、迷子の誹りを受けずにも済むかもしれない。
腰を低くして警戒しながら、剣士は様子を窺った。自然と剣に手が伸びた。
雲が流れ、月の光が川岸を照らした。
音がした辺りを見ると、真っ白な肌の少女が、静かに水浴びをしていた。
近くに民家でもあるのかと剣にかけた手を外しかけたが、違和感に再び剣を握った。
こんな夜更けに少女が一人で水浴びするなど、あり得ない。
もしや、妖魔の類か?
しかも少女の形をした妖魔とは珍しい。
こいつは、生け捕りにすれば、隊の奴らに自慢できるかもしれない。
「おい」
剣士は少女に声をかけた。
はっとして、少女は初めて剣士の存在に気付くと、水音を立てながら慌てて岸をあがり、草むらから薄いピンクの服を拾い上げた。
「まて。動けば斬るぞ」
その言葉に少女はビクリとして、体をすくめた。
白い背中を見せ、服を胸に当てたまま、着替えることもせずに震えていた。
年は、十五かそこらか。
若いが艶のある体をしていた。
背中はまだ水に濡れている。
しゃがんではいるものの、尻まで丸見えだ。
ひょっとしたら、やはり人か?
この距離で攻撃をしてこない。
やけに怯えて震えている。
妖魔であれば、既に食われているか、少なくとも攻撃するか、魔法の詠唱をしている筈だろう。
「驚かせて、すまなかった。俺は、道に迷った冒険者だ。こっちを向いてくれ」
声をかけ、近隣の村の娘なら、村まで案内させようとしたのだ。
正直に言えば、振り向いたときに、一瞬でいいから、その背中からもはみ出しているのが分かる、豊かな乳房を、一目拝もうという邪心があった。
だが、見えたのは、その豊かな胸よりも、何か小さく囁く、少女の口元だった。
しくじった。
剣士が最後に聞いたのは、強力な魅了呪文の詠唱だった。小声でされたその呪文から、剣士は逃れる術を知らなかった。
少女は完全に剣士を支配していた。
剣士は定まらぬ瞳のまま、裸の少女を肩に担ぎ、一本の桜の木の下まで優しく彼女を運んだ。
降ろされた少女が人差し指を横に引くと、剣士は剣を抜いて、自分の首を落とした。
飛び散った血は、桜の木の根にかかり、鎧の音を立てながら、剣士の体は根元に崩れ落ちた。
その桜の根元には、錆びた鎧と白骨化した死体がいくつも転がっていた。
その渓谷には、昔から立派な桜があると噂されている。
その桜は『死者の桜』と呼ばれ、生きた人間は見る事すらできないという。
毎年、川の上流から流れてくる桜の花びらの量に、余程の美しさを想像する事しかできない。
死体をうっとりと見ていた少女は、ふと満開の桜の木を見上げた。
優しい風が吹いた。
淡いピンクの桜の花は、ハラハラと散って、いずこかに飛ばされていった。
少女の姿はもうなかった。
『月桜 秘したり園の神楽舞』
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