憎しみを映し出す鏡

 大型トラックと黒塗りの乗用車の一団がブルックリンとマンハッタンを繋ぐつり橋、マンハッタン橋へと差し掛かる。イースト川を通じて流れる寒風は遮るものなき橋へ強烈な冷気を届け、排気ガスの熱すらも下流へと送り出す。

 同一機種の乗用車を九台も引き連れて先を急ぐ大型トラックの一団など、橋を駆ける一般人からすれば奇異の目を注ぐのも当然。上層と下層に分かれた車道の上層側に集中しているのも異質な様子を強調する。

 運転中にも関わらず二度見する者。

 わざとらしく視線を逸らし、車線変更でなるべく関わり合いにならないようにする者

 指を差して無邪気に問いかける後部座席の子供へ、言葉を濁して誤魔化す者もいる。

 彼らは皆が一様に接点を持つことを嫌い、許されるのであらば今すぐ反転してブルックリンへ帰還してでも別の道を探して奔放していただろう。


「フンフフンフン、フンフフンフン~」


 運転手の一人、ワンは上機嫌に鼻歌を口づさみ、空いた左手でハンドルを叩いてリズムを取る。

 助手席に座るアランは相方の悪癖に頭を抱えるも、真の問題は鼻歌自体ではない。


「おいワン……鼻歌を止めるのは大前提だが、とりあえずスピーカーを止めろ。他の連中に迷惑だ」


 あろうことか、ワンは連絡用の共通周波数をオンにして鼻歌に興じていた。

 意味するところは、ワンのヘタクソな歌がスピーカーを通じて同業者の車内に反響しているということ。幸いにも渋滞とは無縁な状況でこそあるが、それでも不快感は甚大なようで。


『ワンッ。今すぐにその騒音を止めやがれッ。止めねぇんだったら美術館の塗装に赤を足してやるッ!』

「おいおいおい、カルシウム足りてるか?

 ワン様のオールナイトアメリカン。せっかくだから愉しんでこいよ」

『ざけんなッ!』


 大音量の怒号もどこ吹く風、ラジオ番組の進行役気取りの男はどこまでも自分本位に言葉を手綱る。


「そもそもこうでもしなきゃ退屈じゃねぇかよ、こんな運び仕事」

「いや、その理屈はどうかと思うぞ。ワン……」


 助手席に座る男の指摘に顔を顰めるも、どこかわざとらしい仕草は円滑なコミュニケーションを築くためのオーバーリアクションだとアランには理解できた。

 それに対して更なる冗談をワンが口にする、寸前。


「ッ?!」

「なんだッ?」


 弛緩していた空気を引き締める突然の衝撃。

 トラックが激しく上下し、浮かび上がった際にシートベルトが胸元に食い込む。それでもトラックの制動は極端に狂わず、精々車体をワイヤーで擦る程度に収めたのは運転手の技量が成せる技か。

 それでも急な調子の変化や表面を擦る音と火花が、一団の空気を一変させる。


「敵襲かッ?」

「こっちのトラックは無事だッ。そっちは?」

「問題ない。サイドミラーで確認しても誰もいないッ」

「右に同じ。護衛の方も問題ないみたいだ」

「じゃあなんだ、舗装の問題か?」


 舗装の問題。あり得ない話ではない。

 マンハッタン橋は開通から一世紀の時を超えた古参であり、参考にして作られたつり橋も指の数では足りない程。その上、二十世紀末には不合理な設計と不十分な維持管理から一部を封鎖していた時期も存在する。

 二度あることは三度あるではないが、過去に類似した事例がある以上は決して無視できない事象であろう。

 生物とは恐怖を退けるために生を紡ぐ。

 他の生物種と比して圧倒的な知性と潤沢な意思伝達手段を有する人間ともなれば、未知に対して拭いされぬ恐怖を抱くというもの。そして未知を己が理解可能な範囲に貶めて恐怖を和らげる行為は、時として可能であったはずの対処を無に帰す。


「チッ、なんだよ……せっかく上機嫌だったってのによ」


 誰が言い出したでもなく、舗装の責任にして安堵したワンは水を刺されたことで舌を打つ。

 喉を鳴らし、目を固く瞑り、一拍の合間を置いて開く。

 そうして中断したラジオを再開しようとした、直後。


「は……?」


 視界を埋め尽くす真紅が、運転席の強化ガラスを障子紙同然に叩き割られた。

 突然の事態に思考が固まり、状況から置き去りにされる。真紅に並び立つガラス片がヘッドライトや橋を照らす外灯の光を吸収し、瞬間瞬間に色味を変える瞬きの乱反射がワンの視界に万華鏡さながらの光景と明滅を与える。

 その残酷なまでに美しい視界に、何を思ったのか。

 コンマ数秒と経たずに上半身を圧壊させ、内より血飛沫を噴き出させた今となっては永遠の謎である。

 運転手による制御下から離れ、しかして死の寸前に圧力をかけられたことで押し込まれたアクセルが暴走。トラックが車線を揺れ動き、幾度か鋼製ワイヤーと火花を散らした末に限界を迎え、物々しい音を立てて弾けた先へ車体が突破。ビルに換算して凡そ三〇階に相当する高度から落下すれば、たとえ到達点が川であろうとも衝撃で車体は崩壊する。

 運転席の頭上から突き立てられた一メートル近いキャンディ諸共に。

 思わず別車両の運転席から反対側を覗いた男も、直後に走った衝撃に背筋を凍らせる。

 頭上だ。車体の上だ。先程までワンのトラックにタダ乗りしていたナニカが、今自らが運転するトラックに跳び乗っている。


「後は二車」


 トラックの上を見上げる勇気を持たぬ男など意にも介さずナニカ──アヤメは漆黒のセーラー服とショートボブの髪を揺らして立ち尽くす。

 そして先程と同様に右腕を掲げた直後、僅かに身体を後方へ揺らした。

 揺れた髪に穴を穿つ一射は、車体の上をめがけて遮二無二に放たれた弾丸。

 身を屈めつつ視線を右手へ落とせば、黒塗りの車両から二丁の拳銃が火を吹いている。それも一両分ではなく、二両三両と続いている。

 周囲へ視線を配ってみても、死角は見当たらない。


「三両は前方の護衛かな……それにしても腕はヘタクソ」


 狙う側に狙われる側、双方が移動している不安定な状況とあっては回避も容易。己が身を屈めるだけで降りかかる弾雨も無為と化す。

 これで射手がガーナであれば話も変わるのだろうが、それに劣る技量の持ち主とあっては弾の無駄遣い。

 アヤメは両腕を交差させ、指の間に一本、計六本のキャンディを生成。

 色取り取り、見る者の目を楽しませるカラフルな得物が振るわれた腕に従って宙を舞い、離れる直前に巨大化。人一人を潰すに容易い凶器が道路に影を差す。

 地響きを掻き鳴らし、射線を確保せんと乗用車を近づけていた三両が半身や上部を失い、逆流した電力からエンジン部への引火で大輪の華を咲かす。直撃を免れた内の一両も後部タイヤ一輪を欠かせて制動を無くし、ワイヤーが擦れた末に断線。イースト川へのダイブを敢行する。

 爆発音に紛れて衝突音や急ブレーキ、怒号に悲鳴が鳴り響く中。

 アヤメは今度こそと右腕を掲げてキャンディを生成、渾身の力で振り下ろして運転席を破砕する。耐弾性に秀でた強化ガラスも鋼材とアルミニウム合金材の混成ボディも、少女のキャンディを砕きこそすれども主を守るまでには至らない。

 徐々に速度を無くしていくトラックを尻目に、アヤメは多少の助走をつけて跳躍。

 目分量で五メートル前後。届かぬ間合いではない。彼女の目測が正確であることを証明するかのように、宙を跳ぶ少女の肉体は確実に荷台との距離を詰める。

 誤算が起きるとすれば、荷台側。


「ん?」


 後部扉が鉄を引っ掻く不快な音を立てて開く。

 幾つかの美術品の奥、漆黒に包まれた荷台の内よりアヤメを見つめる視線が突き刺さる。ねめつける、粘り気のある殺意を乗せて。

 続いて轟くは乾いた、そして薬莢にあるまじき安っぽい五つの銃声。

 玩具が脳裏を掠める音に疑問を浮かべるも、素直に直撃する程お人好しでもない。

 アヤメは右手を翳すと逆手にペロペロキャンディを形成。少女を覆い隠すマーブル模様の盾に阻まれ、弾丸達は肉体にまでは及ばない。

 はずであった。


「な……?!」


 驚愕の声も当然。

 キャンディに隠れて姿を見せることさえないはずの弾丸が軌道を大きく曲げ、左右から襲いかかってきたのだから。

 身体を鈍く打ちつける苦痛に歯を食い縛り、勢いを失い遠のく車両を睥睨する。

 とはいえ今回は麻薬も目標物、一つたりとも逃がすつもりはない。

 アヤメは足元を一瞥し、確実に着地の姿勢を取る。

 刹那、更なる衝撃が彼女の背より襲いかかった。


「がッ……!」

「う、うわぁッ?!」


 背後よりつんざくは若い男性の悲鳴。

 前方で鳴り響いていた混乱を気にも止めなかったのか、平常時の速度で走る鋼鉄の車体に押し込まれ、アヤメは口の端から血を滴らせる。

 背中に激痛が伝わるものの、トラックに追いつく手段は必要である以上は好都合。

 にも関わらず、人を轢いた事実に混乱した男性がブレーキを踏み込み、速度を低下させていく。


「止め、るなッ……!」

「え?」

「アクセルを踏め……!」

「は、はいぃ……!」


 血反吐を吐く思いで顔を逸らし、運転席の男性を恫喝。直後に身体へ圧し掛かる圧力が増大する。

 内臓に負荷がかかる音を心中で聞きつつも、アヤメは足で反動をつけて体勢を変更。リアのウイングへとしがみつく。そこからは膂力で身体を持ち上げ、天井へと移動する。


『……い、おいッ。返事をしろ、アヤメッ……!』

「うるさい、ガーナ……少し撃たれて、轢かれただけ」

『かなりの重傷だろうが、それは……!』


 アヤメが天井へと移動するまでに随分と叫んでいたのか、ガーナは咳を繰り返しつつも少女の身を案じる言葉を繰り返す。

 目まぐるしく視界が移り変わる中、アヤメは弾丸に撃たれた部位に手を当て、そして異変に気づく。


「……痛く、ない?」

『あ? 遂に痛覚がぶっ壊れたか?』

「いや……というか、轢かれた分は流石に痛いけど……撃たれた方は……」


 脇腹や左腕に触ってみるも、銃弾に穿たれた感覚はない。ぬめついた血の熱も伝わらず、代わりに存在を主張するのは鈍い痛覚とやや硬質化した肉の感触。

 妙な軌道を描いたとはいえ、銃弾に撃たれたのは事実にも関わらず、である。


「……火薬の匂いもない」


 麻薬探知犬の如く鼻腔を震わせて嗅覚を機能させるも、火薬の燃焼した匂いは絶無。

 先の銃声といい、普段から慣れている拳銃の放つそれから印象が大きく乖離している。


『匂い? 風で飛んだだけだろ』

「そうだとしてもおかしい。さっきの音といい、何か変」


 アヤメが違和感を覚える中、安っぽい銃声が続き深淵より弾丸が吐き出される。

 山なりの軌道を描く三つの射線は、仮にアヤメが回避しても足場の乗用車を直撃、運転手を再起不能と化すだろう。このタイミングで移動手段を失えば、どの道麻薬入りトラックを追跡する手段を喪失する。

 手早くキャンディを生成すると、小ぶりな軌跡で一閃。飛沫がバックランプに照らされ幾筋にも光を発する中、弾丸をアスファルトへ沈める。

 しかして、弾丸を捌く間にもトラックとの距離は広がる一方。

 柄で天井を叩き、足元の運転手へ一喝する。


「もっと飛ばせ」

「は、はいぃ……!」


 少女の怒気に情けない声を上げつつも、男はアクセルを踏み抜き加速。離されつつあったトラックとの距離を縮める。

 一定の感覚を持って放たれる弾丸は、通常ではあり得ない山なり軌道を経てアヤメへ接近。意図的にリズムをも崩して飛来する連弾をキャンディで撃ち落とすにも限度がある。


「グッ……こ、の……!」


 右肩への衝撃に姿勢が揺らぎ、駆け抜ける痛苦に歯を食い縛る。

 背後の異変にようやく順応したのか、先陣を切っていた黒塗りの乗用車も速度を落として少女を射程に捉えた。更なる追撃が増えるのであらば、アヤメとてそう長くは持たない。

 自身も気づいているのか、アヤメは左右に視線を動かして状況把握。

 二車線のマンハッタン橋上層では、車の通る道筋にも限りがある。


「癪だが……!」


 両手を後方へ大きく振り被り、身を捩る。そして生成。

 瞬間、自重に天井が凹み、足元から悲鳴が聞こえる。アヤメ自身も一瞬、両手が持っていかれたかと錯覚する超重量に骨が軋みを上げた。

 半径二メートル。直系四メートルもの超大型キャンディ。

 舌で舐めようものなら数時間どころではない時間消費を強いられる代物は、無論のこと鈍器としては超一流。


「……!」

「い、けぇッ……!」


 腰を捻り、ワイヤーでキャンディを擦りながら全身で振り抜けば、孤を描く巨躯がトラックへと迫る。

 さしもの深遠の先に潜む何かも動揺したのか、安っぽい銃声が絶え間なく聞こえる。その全てがキャンディへ注がれ、巨躯の破砕作業に従事する。

 それこそが好機。

 アヤメは天井を蹴り上げて跳躍、中空で風を浴びて斜め前方の乗用車へと飛び移る。


「おい、ジューゴッ。飴殺しがフリーだぞッ!」


 いったい誰が発した怒号であったか。

 深淵の主がキャンディ迎撃に精を出している間を埋めるべく、周囲の黒塗りが代替の撃鉄を叩き、漆黒の殺意を幾つも解き放つ。

 目標地点はアヤメの着地点。次なる車両。

 しかし黒塗りの乗用車が向ける拳銃の射線は、アヤメも充分把握している。

 右手をアスファルトへ向け、キャンディを生成。

 アスファルトを破砕する音を響かせ、少女の体躯が柄に押し出される。本来の着地点には、虚空を通過する弾丸を残して。


「な、に……?」


 月明かりを背景とした少女に敵が目を奪われるも一瞬、アヤメは身を捻り左にキャンディを掴む。

 言葉を失ったのは、少女の体躯に匹敵する直径の飴玉を目撃したがためか。あるいは、月光を覆う影が自身に接近しているが故か。

 振り抜かれる一撃が助手席を砕き、衝撃で変質した車体が乗用車を橋上から弾き出す。

 破片が周囲に滞在する内に素早く右手をアスファルトへ向け、キャンディ生成。反動で再び肉体を中空へと浮かせる。

 着地先は次こそトラックの荷台。

 邪魔する黒塗りは空中を飛び回る少女を捉えられず。アヤメを妨害しようにも射線は護衛対象たるトラックに遮られている。

 結果、アヤメの肉体は多少天井を滑って着地に成功。

 更に素早くキャンディを投擲し、質量爆弾として黒塗りを攻撃。


「如何に変な銃を使うとしても」


 肝心のトラックを破壊してしまえば、巻き添えで運命を共にする。

 それを理解しているがために、アヤメは右手に握るキャンディを振り上げて運転部へ迫る。

 美術館での仕事は残っているものの、妙な軌道を描く銃使いの無力化に比べれば長距離移動など苦にはならない。

 故に振り下ろす一閃に躊躇いはなく──


「ッ……!」


 背後から飛来する殺気で咄嗟に身を左へ寄せる。

 刹那、弾丸が頬を掠め、一筋の血を滴らせた。

 振り返れば、天井の端──後部扉の部分から微かな肌色が窺えた。

 肌色はぶら下がるかのように僅かな上下運動を繰り返すと、腕の力と反動で身を浮かべて、荷台へ着地。


「ひっさしぶり……今は飴殺し、って言うんだっけ?」


 半身で振り返ったのは、やせ衰えた少年であった。

 目深に被った紺のノースリーブパーカーで目元の判断こそつかないものの、乱雑な白髪に骨が浮かぶ頬は窺える。蛇が枝に纏わりつくかの如き細腕には血管が浮かび、迷彩模様のカーゴパンツ。体躯は、アヤメよりも少々大きい程度か。

 ニタニタした嫌らしい笑みは黒ずみ空白を点在させた歯を剥き出しにし、やせ細った首にも意識を注がせる。


「…………誰?」


 既知の間柄を思わせる態度に記憶を探ってみるが、アヤメには見覚えがない。目深のパーカーを外せばどうにか、と逡巡するも白髪の知人自体に覚えがないのだから無意味。

 首を傾げる仕草に不服な態度を示すのは先の少年。口を尖らせて反論を述べる。


「酷いなぁ、施設で一緒だったじゃん。ほら、AEー一五。覚えてない?」

「……うん」


 宣告された番号を思い返すも、アヤメの中で意味を持つ関連付けは不可能。

 大袈裟に肩を落とし、残念がる少年を見るとさしものアヤメも極めて僅かな罪悪感を覚えてしまう。


「あー……私って、施設だと大体ぼーっとしてたから。

 キャンディ舐めてずっとガラスの先を眺めてて、さ?」

「そういえばそうだっけな……うん、そうだな。言われてみればそう。

 じゃあさ、改めて自己紹介といこうよ。俺は今はジューゴって呼ばれてんだ」

「……アヤメ、ただのアヤメ」


 相手の要求に応じて名を述べつつ、ジューゴの一挙手一投足に神経を尖らせる。

 先程まで続いた曲射の域を超越した弾丸の軌道の絡繰りも、同じ施設出身とあらば幾つかの予想もつくというもの。そしてそれらは、例外なくアヤメにとっては厄介極まりない代物。

 ジューゴのゾンビの真似を彷彿とさせる、力なく持ち上げられた両腕が互いの得物が交差する瞬間が刻一刻と近づいているのだと主張した。


「だったらさ、これも知らないよね」


 生成されるは強化プラスチックで全身を構築し、灰と黒のフレームを持つ殺意の模造品。火薬を用いず、発条とガスで球状プラスチック弾を射出する玩具にして児戯の象徴。遊技としての射撃戦武装。

 モデルガン。

 それが両手に握られ、更にジューゴの背後に三丁が浮遊する。

 五つの殺意に睨まれ、さしものアヤメも肝を冷やす。漆黒の銃口が威力こそ実物に及ばずとも、自身の肉体を打ちのめすには充分な火力を誇るのだから無理もない。

 右手に己が得物たるキャンディを、モーニングスター染みたサイズで生成して一定の距離を保つ。


「何それ、私知らないんだけど……?」


 まだ交戦の時ではない、故にアヤメは言葉を手綱る。

 どこかみすぼらしく、端々に汚れが目立つ服装。人との会話そのものを楽しむ口調。差し歯もなく空白のままな歯並び。

 相手が正常な一構成員として扱われているとは思い難く、だからこそ話しかければ応じるだろうと確信する。


「そりゃ知らないだろうさ、アヤメは」


 事実、ジューゴは応じた。

 続けて紡ぐ内容は、情報漏洩という単語を知らぬが如し。


「空想弾丸、だったかな? 俺らがやれることってイメージが大事らしいよ。俺はモデルガンには弾が絶対いるって思ってるし、俺なら五丁同時に操ることだってできると思ってる。

 だから弾も操るし、五丁同時に扱える……こんな風にねッ!」


 音を連なり放たれる致死の銃声。

 如何に模造品といえども、二〇メートルの距離を詰めるに時間はかからず。

 尤も銃口の向きから弾丸の軌道を予測、事前に射線上から身体を回避することは容易い。先程までとは異なり、自身を狙う拳銃は見えているのだから。

 不安があるとすれば。


「途中のッ、軌道ッ!」


 脇を抉る二発の曲射を柄で受け止め、素直な直線を描いた残り三発をしゃがんで回避。黒髪を穿つ一発が穴を作るも、意識を傾ける必要さえない。

 更に力強く踏み込み、アヤメは瞬間的に距離を詰める。

 間合いは拳銃ではなく、キャンディ。

 振り上げ、顎を潰す。

 荷台を擦って得物を振る寸前。


「……ざーんねん」

「かッ……!?」


 ジューゴが頬を吊り上げて喜色を現し、直後に背中を起点に全身へ伝わる衝撃。

 後方に数歩たたらを踏み、荷台を踏み外す数歩手前で足取りを戻す。それでもふらつく分を柄で地面を叩くことで強引に安定化。

 視覚外からの軌道変更。


「結構、融通が効くんだね……!」

「柔軟性が大事だって先生が言ってたよ」

「……教鞭、どうも」


 口端に血を滴らせ、アヤメは一層視線を鋭く研ぎ澄ます。

 一際大きな揺れがトラックに伝わり、マンハッタン橋からイースト川を見通す風景にネオン街の色味が加わった。



 ハーレムの一角。周囲が暗く寝静まり、人々が翌日に向けた準備を進める中でも一定の光量を確保して搬入作業の準備を進める美術館。

 その名、チャールズ&リビルド美術館。

 館長であるチャールズ・レデルの名を冠した施設で作業に従事している従業員は現在、一様に緊張状態となっていた。

 身に纏う黒衣のスーツの襟元を神経質に触れ、ネクタイを執拗に調整し、携帯端末の液晶を荒々しくタップする。時計を何度確認しても、既に指定時刻を大幅に超過していることは明白。

 にも拘らず、遅延に対する連絡もなければ予定変更の一報も皆無。

 密輸班に何かあったのではないか。

 そう考える者が現れるのも自然な話である。


「おい、護衛からの緊急連絡だ」


 黒服の誰が受け取ったのか。

 彼らの間で広まるに連れ、情報源が誰であったのかなど形骸化していく。情報の出自を意識する暇があれば、もっと別の部分に意識を傾けるべきだと理解しているが故か。


「飴殺しの襲撃を受けた、応援を求めるとのことだ。しかも既に二両やられて、今はアレが応戦しているとのこと」


 最初に発された言葉を切欠に、黒服は次々と付近の黒塗りの乗用車へと乗り込み、エンジンを吹かして美術館を後にしていく。

 一台、また一台と寝静まった街からネオンの煌めく輝かしき舞台へと旅立つ。


「……どうした、次々いなくなったぞ?」


 二両落とされたという情報が必要以上に彼らを逸らせたのか、美術館に残るべき護衛すらも車両に乗り込み、警戒が極度に疎かとなる。

 結果、裏手の石柱に身を隠していたジニーが顔を覗かせていることにも気づかない。


『アヤメが輸送車を襲撃した……既に二両落としている以上、残りを守るのに必死なんだろうよ……』


 少年の零した疑問に答えるは擦れた声の持ち主、ガーナ。最新の通信機を用いているとは本人の弁だが、時代の先端を行く技術の大部分が彼個人に由来する問題の解決へ尽力しているのは奇妙な感覚を覚える。

 最後の一両が正門を抜け、十字路を右折。

 これで彼らがジニーの動向を把握するには、美術館に残された護衛の報告が欠かせなくなった。侵入するには実に都合がいい。

 少年は裏手に設置された扉へ自前の鍵を差し込むと、容易く捻って開錠。扉を手元へ引き込む。


『随分と、侵入に慣れてんだな……』

「ここが家のようなもんだからな」


 勝手知ったる自宅、と呼ぶのは大袈裟としても、ジニーからすれば十数年に渡って足を運び続けた既知の施設。職員だけが知っている搬入口や休館日や開館前に使用する扉なども当然網羅している。

 扉の先は通行時の苦労など知らぬとばかり暗黒。

 周囲の明かりに乏しかった外界も月光や星明かりが光源の役目を果たしていた。が、天井に覆われた室内ではそれも不可能。

 目的も目的であり、現段階でチャールズに知られる訳にはいかない。

 幸いにも大まかな経路と設置物は一通り暗記済み。走るならばいざ知らず、歩きならば難なく踏破が叶う。

 やがて職員用の搬入口から一般向けの展示コーナーへ到達し、足元にうっすらとした光が灯される。見栄えを重視した赤絨毯に従って道を歩むと、一筋の影が差し込む。


「だぁッ、クッソッ……なんで計画に重なる形であんな奴がッ……ふざけるなよ、クソがッ」


 荒ぶる口調に噴火の如き怒気を乗せ、壁を叩く拳は赤く腫れ上がる。血の赤が滲む右手すらも、悪戯と呼ぶには悪質に過ぎる神の気紛れへの激情を抑える理由足り得ない。

 ジニーは付近の柱に身を隠すと、激情の主をつぶさに観察した。

 黒の燕尾服を着用し、黒の手袋で両手を覆った老け顔の男性。苦労の程が垣間見える皺を顔に刻み、塗装の一部が剥げた眼鏡を装着した表情は温和には程遠い悪鬼の形相。

 だが、如何に日常から乖離した表情といっても、ジニーにとっては見慣れた顔立ち。

 見間違えるはずがない。


「おじさん……チャールズおじさん」

「あ゛ぁ゛? ……コホッ。なんでここにいるんだ、ジニー……」


 反射で声を荒げたものの、すぐに咳払いをするとチャールズは普段の口調に努めて声の方角へ振り返る。

 それで取り繕えたというのなら、馬鹿にするにも限度がある。


「おじさん、質問に答えてよ」

「今は忙し……私は今忙しいんだ、後にしてくれないかい」


 誤魔化しだ。欺瞞の言葉だ。真実を覆い隠すためだけに用いられる、はぐらかしの文面だ。

 それを理解しているがために、チャールズの言葉など関係ないとジニーは言葉を続ける。


「なんで電話の一つもかけなかった?」

「今はそれどころじゃない」

「なんで行方不明の届けを出さなかった?」

「そんなことは後から話す」

「大事にしなくなくても、ハンクさんへ個人的に頼めばよかっただろ?」

「聞こえてるのか」

「……なんで、麻薬に手を出した?」


 再三に渡る無視。

 一方通行な言葉の応酬にチャールズは奥歯を噛み締めると、力を溜めたかのように怒声を吐き出す。

 それこそが本性の一端だと雄弁に物語る声音と声量で。


「だぁかぁら、今はんなこたぁどうでもいいっつってんだろうがッ。ボケがッッッ!!!」


 荒々しき叫びに呼応し、懐から取り出したるは鈍色の殺意。強化プラスチックを用いたプリマ―フレームを採用して軽量化を実現した最古の拳銃、グロック一七。

 ジニーの胴体へと注がれた深淵が、追及を是とする何よりも雄弁な証拠。

 諦観を胸に秘め、少年もまた懐から拳銃、ガーナから借り受けたモーゼルを構える。


「て……めぇ、育ててやった恩を忘れたかッ。おいッ!」

「父さんは麻薬に殺されたッ。それを下すような奴は、いくらおじさんでも許せねぇッ!」

「許されるつもりなんざねぇよッ。それを決めるのは俺と! 手元に残った金だッ!」


 左手を振るい、ジニーの主張を払い除けるチャールズ。

 その姿に貧困層のため低価格で美術館を開放する男は微塵もなく、死を招く白紛をばら撒き死神から対価の金を頂戴する亡者こそが相応しい。

 目を血走らせ、年甲斐もなくチャールズは言葉を続ける。


「そんなに気になるなら教えてやるよ。そもそも麻薬に手を出した、ってのが間違いなんだよッ。

 逆だ逆。元々麻薬を取り扱う隠れ蓑として美術館を始めたんだよ。

 デカいトラックを自然に扱えて政界進出のための資金調達とパイプ作り、そして貧乏人共への美談作りに使えるエピソードと都合がよかったんだよッ。美術館ってヤツは」


 どういう言動をすれば人に好かれるのか。人付き合いに於いて比重の大きい要素をチャールズは幼少期から天性の感覚で掴んでいた。

 学業で好成績を残せたわけではないが、その分課題をそつなくこなし、善人の皮を必死に被った。皮を厚くすればする程に周囲の人間からの信用度は増していき、多少の悪事もまさか彼が、という偏見の眼鏡で霞ませる。

 麻薬カルテルである白十字カルテルとの関係構築も、ハンクやジニーを含む大勢の人間を欺きながら作り上げたものだ。


「ぎゃく……逆?」

「そうだよッ」

「つッ……ぁ!」


 動揺するジニーの間隙を突き、チャールズは拳銃の撃鉄を叩く。

 銃身を走って加熱した弾頭が少年の右脇腹を掠め、ツナギにも傷と同程度の穴を穿つ。

 灼熱の激痛に脇腹を抑え、つい膝から崩れ落ちる。一方でチャールズも使い慣れた者ではあり得ない程に跳ね上がった拳銃が、反動を殺し切れたわけではないと主張する。

 尤も、額に脂汗を浮かべるジニーを見れば、素人の戦果としては充分だが。


「は、はは……ハハハハハッ。全く、親子共々馬鹿だなッ。お前らはッ!」


 父親の死にまで唾を吐き、チャールズは普段の顔を大きく歪めて狂笑。展示コーナー中に響き渡る笑いが不気味なまでに木霊する。


「美術館の輸送経路を使って麻薬の密輸を行う者がいる、ってまで気づいておきながら、犯人が俺だとは露ほどにも思わなかったんだからなッ。

 大方、友人の俺がそうだとは信じたくなかったんだろうが、そのせいで対処が遅れて挙句に薬中の手で射殺だッ。これが馬鹿じゃなくてなんなんだッ?!」

「テ、メェ……この、クズが……!」

「そしてガキまで宣伝に使われる始末だッ。俺に尽くすにしても露骨過ぎるってもんだッ」

「ッ、チャールズゥ!!!」


 瞬間、ジニーの頭で脳内物質が過剰分泌。脇腹に走る激痛が跡形もなく霧散し、革靴で廊下を叩くチャールズへあらん限りの暴言をぶつける。

 はずだった。


「な、なんだッ?!」


 地響きが美術館全体に鳴り響き、地面が揺れたのかと錯覚する程の轟音が駆け抜ける。

 突然の事態に動揺したチャールズは視線をジニーから展示コーナーの先、出入口へと注ぐ。視線だけで室外の様子を認識する術を持たぬ身なれども、現在に至るまでの状況証拠が一つの確信を抱かせる。


「まさか、飴殺し……?」


 想定し得る中で最も悪い方向の事態に、仇名を呟くチャールズの顔色は血の気を失い蒼白に染まる。

 護衛の一つもない今、美術館にまで来られては逃げる手段も撃退する手段もない。ただ粛々と死の運命を受け入れるか、最後の最期に無駄な足掻きを行うかのみ。

 そしてそのどちらも否定したチャールズは自身を売り払った親不孝者へと振り返り、殺意に滲んだ目つきで睨みつけた。



 マンハッタン橋からハーレムまでは約一一マイル。安全運転に心がけて三〇分近い時間を有する。

 ならば、安全など微塵も考慮せずにアクセルをベタ踏みし、最高速度を維持して駆け抜けたトラックだとどうなるか。

 積載限界まで荷物を満載にし、ナニカに追われるかの如く焦燥に駆られて加速し続けた鉄の馬の一団となれば、いったいどれ程の状況となり得るか。

 その惨状の一幕が、チャールズ&リビルド美術館までの道程には散見していた。

 護衛対象に追随すべく運転手の反射神経を超越した速度を維持した結果、曲がり角を曲がり切れず通りの店舗に直撃して大破炎上した車体。

 頭上より降り注ぐナニカに運転席と助手席を踏み潰され、急停止に浮き上がった下半身もまたひしゃげさせた車体。

 反対車線から法律など知ったことかと割り込む増援に飲み込まれ、平時ではあり得ぬ想定をせぬ罰とばかりに道路へ散らばる肉片、人間だったもの達。

 さながら怪獣が通過したのかと錯覚する惨状が、道路上に形成されていた。

 そして災害を撒き散らしたトラック自身も、外的要因によって制御を失った結果、運転席を美術館の正面入り口付近の壁に密着させて燃え盛っている。階段を登るに適さないタイヤは大理石を蹂躙しつつも交換必須の損耗をし、ひしゃげた衝撃で漏洩したガソリンはトラックを自主的に火葬する。

 赤黒い焔が夜空への抵抗を試みる中、黒煙が不自然に膨張。やがて内包物を排出するかのように一方向へ破裂した。


「クッ……!」


 それは、少女。

 時間外れのセーラー服を煤と血潮で汚し、表情を苦悶に歪めるも即座に得物を握る握力へと変換する天性の殺し屋──アヤメ。

 アヤメは着地点とその周辺を一瞥し、半瞬後には左手を含む三点で着地。殺し切れぬ反動で滑る中、更に柄を地面へと突き立て静止する。

 狂騒の中に悲鳴が混じっていたためか、異常事態と呼ぶに相応しい状況を一目しようとする野次馬は皆無。尤も、自宅のカーテンを捲る程度の視線は合ってもおかしくないし、通報の手は各所へ及んでいると仮定した方が自然であろうが。

 余計な思慮を追い出すべく頭を振ると、黒煙より排出された猟犬へと視線を向ける。


「三つ」


 夜空を目指して加速する三匹は急な方向転換を挟み、地上へと落下。自らの速度に重力をかけ合わせた更なる加速を以ってアヤメへと降り注ぐ。

 柄で地面を抉り、初速を確保。

 半歩遅れて猟犬の一匹、BB弾が地面を貫く。

 更に疾走するアヤメのすぐ背後へ突き刺さる弾雨は、脅威でこそあれども彼女を正確に捉えた上での誘導ではないと確信を深めさせる。大方、黒煙や彼女の跳躍角度から大雑把な位置を予想して射撃を敢行しているのだろう。


「チッ。まーた外れか……」


 揺れる焔の内より、熱でシルエットを揺らして影が現れる。

 着色されるシルエットは目深のパーカー、カーゴパンツ。そして両手と浮遊するモデルガン、計五丁。

 苛ついているのか。パーカー越しに頭を掻くも、すぐに口元へ喜色を形成。銃口越しに階段を隔てて弧を描くアヤメを睥睨。


「っよ!」


 吐き出された殺意の一団は少女の速度を予測し、到達点へ置く形で接近。それを軌道と銃口の向きから予想し、アヤメも急制動をかけて方向転換。連なる一団を回避する。

 しかして彼女の姿はジューゴの視界内。

 通過したはずの弾丸は残らずカーブを描き、再度アヤメの肉を抉らんと軌道を修正した。


「やっぱり曲がった……」


 予想通りとはいえ面倒な事態へ忌々しげに呟き、アヤメは奥歯を噛む。

 トラック上での交戦から、彼女はジューゴの空想弾丸と名乗った能力に幾つかの仮定を組み立てていた。

 一つ。誘導弾は原則してジューゴ自身の手で制御されており、彼の視覚内でこそ本領を発揮する。視界に収めてなくても放つこと自体は可能であるが、それは単なる予測射撃の延長線。

 そしてもう一つへの確信を深めるべく、アヤメは左手に通常サイズのキャンディを複数生成。意図的に速度を落とすことで弾丸を引きつける。

 一メートルを割った距離でキャンディを手放し、地面を踏みつける足へ一層の力を込めた。


「あっ」


 ミサイルの誘導を切るチャフを彷彿とさせる所作に対処が遅れたのか。弾丸の尽くがキャンディを穿ち、飛沫を散乱させながらも飛来。

 しかし、アヤメの予想通りというべきか。彼女がジューゴとの距離を詰めるために軌道を素直なものへと変えても、弾丸の一団は追随せずに本来の軌道に準じた。


「その動揺、こっちも予想通りみたい」


 誘導が起きなかったこと、そしてジューゴの態度にアヤメはもう一つの仮定にも確信を深める。

 それは弾丸の誘導はモデルガンから直接射出されたもの限定、即ち何らかの物質を掠めでもすれば操作性は失われるというもの。

 柔軟性が大事といったのはジューゴ自身であったが、どうやら彼の柔軟性を以ってしても一度何かを穿った弾丸は力を失うという点は無視できなかったらしい。


「これだけ分かれば……充分」


 アヤメは右手のキャンディを一端手放すと再生成、一メートル近い球体の柄を両手で掴む。振り下ろす先は、真下の地面。


「ゲッ。止めようよ、そういうの!」


 破砕の衝撃で舞い上がる土煙は黒煙には遠く及ばずとも、ジューゴの視覚を遮るには充分な役割を果たす。

 視界に大きな制限が加わったことで背後にトラックを背負う利点よりも階段を踏破される欠点を重視したのか、ジューゴもまた射線を確保すべく方向転換して直進。数秒の間を置いて背後から物々しい破砕音が響き渡る。


「そこッ」

「はっ」


 振り向くことなく浮遊するモデルガンを反転させて一斉射。

 敵を捉えた手応えはなく、甲高い音を木霊させる。そして更なる爆発を誘発。黒煙が一気に戦場たる美術館正面入り口近辺を飲み込む。

 ジューゴは身を低く屈め、素早く入口付近を目指す。

 視界に大きな制約がかかって全方位から狙える状況で近接戦に秀でた手合いを相手取るのは、愚策の境地。せめてトラックの代替として背中に美術館の壁を背負うことで視界内への集中力を深められるようにしなければ、自身の能力も十全には作用しない。

 故に、アヤメのものと思われる音へ浮遊モデルガンからの応射こそすれど、彼自身は最短距離での移動に努める。

 だからこそ、彼女には軌道が読みやすい。


「ッッッ!!!」


 殺気、とでも呼ぶべきか。

 濃密な、人が放てるものなのかも怪しい喉元に噛みつく獰猛な気配。

 ひりつく肌感覚と生存本能に準じ、ジューゴは咄嗟に足を止めて反転。右後方へと五丁のモデルガンで一斉射撃。木霊するは削岩するかのような激しい跳弾音。


「ッ……消えろッ。消えろ消えろ消えろォォォ!!!」


 喉を枯らし、銃身が過度の連射で焼きつくのも厭わず引金を引き続ける。

 土煙の先に立つ円形のシルエットが無数の弾雨で削られ、砕かれ、形を無くす。

 違和感、と呼ぶのも烏滸がましい、極々微量の謎。

 皮膚にこびりついた恐怖を振り払うべく、遮二無二に連射するジューゴの脳では、答えはおろか疑問を抱くことさえも不可能な謎。

 アヤメの空想弾丸はキャンディ生成。なれば円状の得物を盾にしている以上、穴を穿てば支える当人の姿が認められるはず。スカート端や揺れ動くセーラー服の一つでも見せてこそ自然な状況下にあって、何故彼女のシルエットは一向に顔を出さない。

 一瞬。中空に浮かぶモデルガンの内一丁が、微かに揺れる。

 射撃の反動、などではなく。まるで握り手の恐怖が伝播するかのように。

 ジューゴは咄嗟に視線を斜め後方へ注ぎ、右手の拳銃を構え。

 そして遮られる。


「遅い」

「ッ、あ。あぁ……!」


 冥府の底より響く声の主が、その手に握る真紅の槍を以ってモデルガンごと右手を貫いたがために。

 激痛が中枢を刺激してモデルガン制御を妨げる中、ジューゴは浮遊する得物に主への迎撃を指示。一拍の後に斉射される弾丸が、柄から手放して地面を滑る主を追う。

 左手を軸に身を翻して滑るアヤメは、ジューゴの正面に立つと右手にキャンディを生成。

 薙ぎ払う一閃の直前、ジューゴの見開かれた両目が驚愕の程を物語っていた。


「ぐッ、ぎ、いぃ……!」


 生々しい骨の砕ける音、肉の裂ける感触、人の死ぬ感覚。

 違和感を覚えながらも確かな手応えを柄越しに掴み、少女はキャンディを振り抜く。ピンボールさながらに飛ぶジューゴの肉体が地面を数度バウンスし、滑る最中にパーカーの一部を欠損する。


「ふぅ」


 動きを止めつつも胸元を上下させるジューゴを、アヤメは右手で土煙を裂くことで一瞥。

 体内に蓄積した熱を吐き出すべく、大きく息を吐いて肺へ新鮮な空気を送り込む余剰を確保。

 キャンディを消滅させると、アヤメは数瞬前まで柄を掴んでいた右掌を見つめる。

 圧迫によって鬱血し、所々が赤く変色した右手に走った感触は確かに幾度となく感じた代物であった。だが、どこか違和感を拭うことが叶わない。


「何これ、気持ち悪い……」


 違和感の正体を掴むべく、アヤメは階段を下りる。

 足元に走る一筋の出血は、ジューゴの右手を貫いた雄弁なる証人。

 バレる前提で接敵し、事前に生成した大型キャンディとそれを支えるもう一つのキャンディをデコイに撃たせる。折を見て三つ目のキャンディを弾雨に晒して鋭角化させつつ夢中となっている隙に大回りし、後は一突き。

 相手が極度の興奮状態に陥っているからこその策は見事的中したが、流石に戦闘が長引き過ぎた。


「あぁ、お腹すいた……」


 そもトラック襲撃段階からどれだけのキャンディを、それも戦闘に耐え得る規格のものを生成したか。

 アヤメは左手を頭に当て、力なさげに背中を曲げる。

 本音を言えば歩くことさえも億劫であったが、少女は不安要素を抱えたままで案件を進める程の楽観主義者ではない。

 とはいえ、目的は死体確認。何かあるにしても虫の息程度であろうが。

 ふらつく足取りで距離を詰める。ガーナから執拗に銃の扱いを覚えるように催促されたものの、なんだかんだと言い訳して無視してきたことを思い出す。

 過去を穿り返してもしょうがないとはいえ、後悔の念が皆無かといえばそれも否。

 面倒そうにキャンディを生成し、地面を引きずる。

 当然、それに伴って音を立てるのは自然であり。


「来た、な」

「なッ──!」


 見開かれた眼光がジューゴの生存を、仕留め損ねた事実を如実に物語る。

 同時にアヤメを睨み、宙へ浮かぶは三丁のモデルガン。

 誘導性など皆無、ただ相手を殺める最短速度を求めて連続する弾丸が少女へ殺到する。

 素早くキャンディを手放し、アヤメは後方へと跳躍。しかして弾丸の斉射は数秒と経たずにキャンディを喰らい尽くして、射線上に待つ少女を間食にせんと迫る。

 無論、アヤメもそれを許す訳がなく防壁としてキャンディを生成する、が。


「遅……い、ぁあぁぁぁぁああぁぁぁぁあ!!!」


 突き出された右手を飲み込む暴雨が黒衣のセーラー服を蹂躙し、奥に潜む柔肌を抉り貪る。

 一拍遅れて生成されたキャンディが暴雨からアヤメを遮断するも、既に手遅れ。

 防壁を背にしゃがみ込むと、アヤメは荒い息で右腕の惨状へ目を通す。


「はぁ、はぁ……はぁ……はぁ……!」


 黒衣の裾はおろか肉も抉られ、初雪の如き柔肌を多くの弾丸が土足で踏み荒らす。力を抜いて地面に手を置いているものの、後から後から垂れ流される血が湖を形成。無論、それは彼女のロングスカートにも赤を付着させた。

 キャンディ越しに背中から伝わる採掘音は、ジューゴが絶え間なく銃撃を繰り広げている証左。右手が潰れた状況で正面から対処するのは困難を極める。


「追加で、仮定……モデルガンは相手の周囲をあまり離れられない……そして何かの原因があれば、減る……」


 モデルガンを自在に空中を飛び回らせれるなら、キャンディの側面を突く軌道で容易に射線を確保できる。そして数を三丁から増やさないのが、何らかの破損が原因だと仮定を重なればアヤメには心当たりが浮かぶ。

 ジューゴの隙を突き、右手ごとモデルガンを貫き更に追撃を加えた瞬間。


「あそこでキャンディとの間に、モデルガンを挟んで衝撃を減らしたなら……今出してる銃の数と、一致する……違う?!」

「ん、どうしたのさ。急に会話?」


 独り言、ではない。

 ジューゴの耳にまで届くように喉を張り、アヤメは大口で語る。

 銃撃を止めようとはしないものの、急に会話へ応じる方向転換を見せれば、訝しむのもまた必然。

 それでも彼が口を開いたのは勝利を目前とした慢心か。或いは、滅多にない会話の機会故か。いずれにせよ、ジューゴが頬を吊り上げた喜色で答えた。


「ま、いいや。冥土の土産ってヤツでしょ。

 だ~いせ~かい。いやぁ、危なかったよ。殆んど反射でモデルガンを出したしさ……マジでギリギリだったよ。もう生存本能、的な?」

「咄嗟に消して、すぐ別の場所に生成なんて……随分と、使い慣れてる」

「マジで? そんなの組織の奴にも言われたことねぇよ。ありがとう」

「はっ……余裕なことで」


 アヤメは顔をしかめて右手を握り、拳を作る。

 力はあまり込められない。ならばと、むしろ力よりも別のナニカを拳の内へと伝播させるのが目的であるかのように。流れる血すらも練り込み内へ。


「柔軟性、だったっけ……凄いよね、弾丸を曲げるとか」

「やっぱりそうだよな。そこんところ、他の奴には言っても分からねぇんだよなぁ」

「私も少し考えてみたけど、別にキャンディって柔らかくないし……硬くて、舐めないと味も碌に確かめられない……」

「……何が言いたいのさ?」


 少女の物言いに不審なものを覚えたのか、ジューゴは語気を僅かに強める。

 銃撃の手を緩めることはなくとも、警戒の域を一段階引き上げるには充分。

 相手の思惑など関係ないと、アヤメはなおも言葉を続ける。一方的に、押しつけるように。


「だからさ、温めないと……キャンディは食べられたものじゃない……そして、誰かから何かを貰うと……暖かい気持ちになれる……」


 だから何が言いたいのか。

 そう問い詰めようとジューゴが足を踏み入れる、刹那。

 不意に、足元からざらついた感触が途絶える。僅かコンマ数ミリ程度の差であれども、今までに蓄積した経験値が第六感の形を以って警鐘を鳴らす。

 距離を取ろうと足を上げ、視界の端に血液以上に粘度の高い液体が付着していた。

 それが、合図。


「君には、ある?」


 アヤメの問いに呼応するかの如く、液状化したキャンディが一斉に牙を剥く。


「ッッッ?!?!?!??!!!!」


 美術館入口付近を。アヤメとジューゴが矛を交えた地域一帯を。アヤメが生成したキャンディの破片が散らばった周辺を。

 剣山が空白を埋め尽くす。人一人を容易く穿つに足る鋭利さの、体躯を貫通するに足る刀身の、人を殺めるには過ぎた物量と殺意を以って。

 何が起きたのかを理解する間もなく、四肢と胴体を穿たれ宙に浮かぶジューゴの姿。剣山に鮮血を滴らせる様は、彼の串刺し公がオスマン帝国の侵攻を食い止めるべく、自国周辺に晒し者にして串刺し刑に処した捕虜達を彷彿とさせる。

 最初は健気に主へ追随していたモデルガンも、徐々に音を鳴らして揺れ動き、やがて端々から霧散していく。

 そして間断なく続いた銃声も止み、トラックより燃え上がる炎のみが音源として機能する。


「終わ、った……」


 キャンディの奥から顔を覗かせ、背後の剣山を確認する。

 マトモに戦うのは不可能と判断し、キャンディの欠片を利用できないかと賭けに出たのが功を奏したか。

 空想弾丸、とやらを語る際にアヤメの能力でそうであると示唆する物言いをしたこと。ジューゴの親しげな態度が同一施設出身者が故であること。

 根拠は幾つかあったが、それが実証できるかの保証は乏しかった。

 尤も。


「つッ……! この、程度なら今更……かな」


 右手の甲を貫くキャンディの欠片に歯を噛み締める。

 温めて形を変えるイメージが浮かばなかった以上は仕方ないとはいえ、実際に右手と流血を使って温めることで感覚を掴むプロセスを挟む必要が生まれてしまった。

 結果、制御も何もできない攻撃は自身の拳をも貫く事態にまで発展した。


「頭が、痛い……」


 頭に重く圧し掛かる感覚にアヤメは左手を当てる。

 それを合図に剣山が液状化し、波打つ音を立てて血を含有した水飴が周囲に散らばる。

 これも無理をした代償だろうか。

 まだ本命であるチャールズ・レデルが残っているにも関わらず、最早戦闘に適した質量を有するキャンディを生成できるかも怪しい状態。ジニーの説得が上手くいっているなら問題ないが、保険を備えられなかったというのは不安が残る。

 背のキャンディを掴み、持ち上げる形で身体を起こす。

 呼吸を整えるべく大きく息を吸い、肺より二酸化炭素を吐き出す。熱の籠った身体を冷やすには、夜のマンハッタンは実に適していた。


「……」


 視線の先には、今も地面にうつ伏せのまま微動だにしないジューゴの姿。今も赤い湖は彼を中心にして拡大を続け、主の熱を奪い去る。

 虚ろに何かを見つめる瞳も、近い内に輝きを無くす運命にある。


「わざわざ手を下す、必要はない……かな」


 アヤメも動く度に右腕から血が漏れ出る状態、無駄な労力を避けれるに越したことはない。

 唇を微かに上下させる少年を無視して、歩みを進める。

 だが、不意に足が止まる。


「……」


 首を回せば、やはり動くことはない少年。もしくは物になりつつある人。

 振り切ろうにも振り切れないナニカが、少女の視線を楔の如く縫い付ける。

 同情の念、など抱く訳もない。そも、己が手で生命を絶っておいてそれを抱くのは傲慢に過ぎるだろう。

 ならば、これは。


「…………上げる」


 一瞬顔をしかめ、アヤメは左手にキャンディを生成すると投擲。

 弧を描く鮮やかなスカイブルーは、綺麗にジューゴの口へと着地する。


「柔軟性とか、教えてくれた礼……あの世に行くまでの間だけでも楽しんでて」


 自身の内に湧き上がった衝動に強引な決着をつけると、アヤメは踵を返して大理石の階段を上る。

 再度振り返ることは、なかった。


「……」


 一方、一人残されたジューゴは痛みすら感じない、五感がこそぎ落とされる中で新たに渡された味覚を味わっていた。

 海の波を思わせる味わいは彼にとって未知の代物であり、甘いという情動もまた久しく喪失した感想であった。最後に菓子類を口にしたこと自体、施設でのおやつが最後だったのではないか。

 脳裏に過る走馬灯の数々。


「あ……」


 そこに、異物が混ざる。

 蝉の鳴き声が喧しい、夏の朝。

 顔にモザイクがかかった誰かに手渡された、子供用のチャチなモデルガン。

 乾いた銃声に遅れ、一〇メートルも離れているか怪しい的を倒す音。


「ほん、とう、だ……」


 胸の内より湧き上がる、熱を失いつつ身体を温める感覚。運動や返り血では決して味わえない、芯に心地いい熱がゆっくりと伝播する感覚。

 何故忘れていたのか分からない、ジューゴがジューゴである前から抱えていたはずの大事なもの。


「あたた、か……い……」


 瞳より光が消える直前、どこか硬かった頬が柔らかく口端を持ち上げ、笑みを浮かべた。



 美術館内部はトラックから引火した分で警報が作動したのか、辺り一帯で火災を告げるサイレンが鳴り響いていた。所々が水分に弱い展示物の性質に考慮してか、二酸化炭素を用いて窒息効果を狙った消火器が天井から白煙を吐き出させている。


「ジニーは……?」


 アヤメは右腕を力なく垂らし、時折壁に寄りかかるようにして足を進める。額に浮かぶ脂汗を拭う余地すらも、今の彼女には惜しかった。


『……加減、反応しろ……アヤメッ!』


 突然、鼓膜が破れたかと錯覚する怒鳴り声が耳元の通信機から鳴り響く。

 思わず身体を逸らしたアヤメが、苦虫を噛み潰した表情で応じる。返事は、最新の通信機器らしくすぐに訪れた。


「ッ……いきなり、怒鳴らないで。ガーナ」

『テメェが、いつまでも無視してた……から、だろうが……!』


 余程呼びかけ続けていたのか、通信先のガーナも声は絶え絶え、咳き込む声も割り込んでくる。


『あの餓鬼なら……絵画の展示コーナー、付近に反応がある。だが気をつけろよ……

 随分と前から、反応が……動いてねぇ』

「──」


 一拍置いてガーナが口にした言葉が、全身を貫く稲妻の如き衝撃を以ってアヤメの身体を震わす。

 そこからの足取りは曖昧であった。

 夢を見ているような、自身の身体を一歩引いた場所から傍観しているような、自分が行ったという自覚に乏しい感覚。

 夢見心地とも違う、ひたすらに実感を欠いた状況。


「クソガキがッ。育ててやった恩を忘れやがってよぉッ!」


 気づけば、打撲音とその元凶を視界の中心に捉えていた。

 黒の燕尾服に大量の血痕を残し、両の手袋も自身のものか相手か分からぬ血の軌跡を中空に刻む。老けた顔立ちを悪鬼もかくやに歪め、目には怒気と憎悪と殺意を綯い交ぜにした昏い光を灯す男。

 そして壁にもたれかかり、されるがままに暴力へ屈している少年。

 両の頬を赤く腫らし、ツナギ服にも原形を思い出せぬ程に穴を穿たれ赤を差し込む。

 それはまだいい、まだ妥協できる。

 だが、一瞬視界に映った右腕。ジニーの利き手。

 それは、それだけは。

 気づけばアヤメは足を進め、男の背後に立っていた。


「なんだ、今は取り込みちゅ……!」


 男の言葉は最後まで紡がれず、アヤメの左拳が遮った。

 身長にかなりの差はあったものの、所詮は老人。最前線で得物を振るうアヤメの膂力ならば造作もなく宙を飛ぶ。


「貴様、私を誰だとッ……!」


 邪魔な男がいなくなったことで、改めて一縷の希望に縋ってアヤメは少年の右腕を見つめる。


「タダ、ノ……?」


 壁に無数の血染華を咲かせる土壌は、幾度となく穿り回され大量の穴が栄養を逃がす。衣服も破れ、剥き出しの素肌は元の色が思い出せない程に赤く変色し、場所によっては白が差し色の役目を果たしていた。

 そして右手の指は、指は。ゆびは。


「さん、ほん……?」


 一本、二本、三本。

 視界の異常か、欠けている。人差し指と中指の姿が見つからず、親指と薬指の間に不自然に広い空白が浮かんでしまっている。


「貴様ぁ、人の話を──!」


 男の言葉は、再度振るわれるアヤメの鉄拳に遮られる。

 遮られる。

 遮られる。

 遮られる。

 力などどこから湧かせればいいのか、数分前までは少なからず疑問視していた問題が男の顔を見るたびに解決していく。感情の発露が、激情の噴火が無限とも言える動力をアヤメに付与する。

 効率も何もなく出鱈目に利き手とは違う拳を振るう、正にヒステリーを起こした女子供のそれが男の存在を封殺していく。

 掴む。握る。床に叩きつける。叩きつける。叩きつける。

 殺すのではなく壊すための所作に、アヤメは目を血走らせて没頭した。


「止め、て……くれ、タダ、ノ……」

「ッ……」


 声が聞こえたのは幾度目であろうか。擦れた、ともすれば幻聴の類を疑うか細い声が、過集中に陥っていたアヤメの動きを静止させた。

 首を回し、声の先で倒れている少年を一瞥。


「なんで」


 無機質な、感情の一切が喪失したのかと錯覚する声。


「そこに倒れてるのは、俺のおじだ……」

「違う。君の右手を奪った男。元々殺すように言われてた男」

「だからだ」


 確かな声音で、警報器や焼け落ちる音の雑音にも勝る確かな質感を以ってアヤメの鼓膜を揺さぶる。

 内包する意味が伝わったのか、否か。

 どちらなのかは、分からない。ただ端的な事実としてアヤメは握力を緩めると男の頭を手放し、馬乗りの姿勢から立ち上がった。

 同時に、自由を得た男──チャールズ・レデルは身体を這わせてジニーとの距離を詰めた。


「流石は、俺の子……いや、アイツの子だ。ありがとう、ジニー……!」


 涙を流すのに顔の神経が麻痺したかと錯覚する激痛は好都合であった。目薬もなく、勝手に止め処なく涙が流れるというもの。

 馬鹿な餓鬼。滑稽な、内心画家の夢を絶たれることを望んでいたのかと思案する程の、度し難く愚かな餓鬼。

 心中でどれだけ扱き下ろそうとも、顔や態度に出さなければ伝わることはない。それは長年に渡っての成功体験で蓄積した、チャールズなりの処世術であった。

 誤算があるとすれば。


「あぁ、アンタは俺のおじさんだ……ずっと」

「え」


 ジニーが付近の拳銃を拾い上げ、左手で照準を合わせていたこと。

 漆黒の闇がチャールズの眉間を捉え、視線をも釘付けにする。


「な、にを……する気、だ?」

「養父の不手際を、養子が清算する……ケジメってヤツだよ……」

「ば、馬鹿なことを考えるのは──!」


 最期の瞬間まで言葉を言い切ることは出来ず、眉間を貫かれた男はその身体を大きく仰け反らせて地面へと倒れ伏した。遅れて、赤黒い液体が床に広がっていく。


「好きだったよ、チャールズおじさん……」


 一言呟くのを最後に、ジニーは口を閉ざす。アヤメはそも口を挟むつもりはない。

 残った生者は互いに口を開くこともなく、燃え広がる音とサイレンが様々な雑音を率いて天然の鎮魂歌を奏でる。屍の数を思えば質素なのかもしれないが、ジニーの心を癒すには充分であった。

 とはいえ、全身が疲労を訴えてストライキを起こすのもまた必定。

 チャールズ射殺で張り詰めた糸が千切れたのか、急速に意識が闇の底へと落ちていき、倒れ込む寸前でアヤメが左腕を掴む。


「はぁ……締まらない……」


 アヤメは嘆息すると、首を左右に振る。

 既に救急車が現場へ急行している最中、今意識を失えば互いに現行犯で逮捕されるのを待つのみ。同様に現場へ急いでいるパトカーを例に出すまでもなく、彼らの不真面目な勤務態度に希望を見出すのは愚策極まりない。

 アヤメは首元の通信機へと声を投げかける。

 一日の終わりを示すには、凶悪な意味を含ませる言葉を。


「ガーナ……チャールズはジニーが殺した。どこか外で合流しよう」

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