幕が上がれば演り切る終わりまで
微睡みの中。自他の境界が曖昧となり、正体不明の暖かさが全身を包み込む。
浮いているのか、あるいは地面に足をつけれているのか。それさえも定かではない空間にジニーはいた。
「ここ、は……?」
辺りを見回しても風景と言えるものはなく、ただ暗色とは異なる彩りという不確かな事実のみを認識する。根拠はない。
あまりにも不確かな空間を、ジニーが夢と結論づけるのにそう時間はかからなかった。もしくは夢に気づいた、という設定が付与されたのだろうか。
視界の端に、ジニーではない誰かが入り込む。
「──」
衝撃が、ジニーの全身を貫く。
いる訳がない、という拒絶は幻想の中でのみ存在を許容される空間が否定する。
脳内の記憶を頼りに形成される世界に於いて、不可能とは自身の脳内に前提が存在しない事象を指し示す。なればこそ、記憶にのみ生存を許されている彼が姿を見せるのはまた必然でもある。
一歩、足が前を踏み込む。
二歩、遅れた足も続く。
三歩目からは、衝動に駆られて全速力で足を回転させ始めた。
疲労はない。そも、認識をより深めれば息が上がる感覚すらも皆無と思えるだろう。
それでも、走る。
息を切らせる真似をして、全速力のポーズを取って、幻想の存在に必死さをアピールして。
声を出そうと振り絞るも、何かが喉に詰まったかの如く無音。
彼我の距離がゆっくり、しかし確実に縮んでいく。
接近に伴い、朧気な輪郭に詳細情報が付与される。
苦労が垣間見える頬の皺。穏やかな表情。水色のワイシャツの上から羽織るノースリーブのベスト。紺のズボンに絵具の汚れが散見するのは、在りし日にぶつけてしまった時のものか。
懐かしさが胸に込み上げ、言葉をかけたくて口を開く。
「……!」
無音、無音、無音。
何ら意味を持った出力を成さず、大気は絶えず風を凪ぐ。
やがて輪郭の端々が白紛へと変換され、姿を無くす。形を持った人間が、人としてのあり方を失う。
「……! ッ……!」
声を張り上げ、喉を枯らして、肺の底から息を吐き出して。
ジニーはひたすらに無を出力する。
そうしている間にも眼前の人間は白紛へと変換され、最早その残滓すらも認識できない。
故に、必死に腕を伸ばし。
「父さんッ!!!」
「父、さん……」
微睡みより浮上した声が口から零れる。
付随してジニーの肉体も覚醒を果たし、鉛の如き目蓋もゆっくりとだが開く。
幾度か瞬きつつも露わとなった眼が映したのは、何かを掴まんと伸ばされた右手と木造の天井。辛うじて木目を数える程度の光度を保ってはいるものの、窓から入り込む日差しを唯一の光源とした部屋は生活にはやや暗い。
徐々に血液が送られ始動した脳は、視界が捉えた情報を元に記憶を探るも該当する地形に心当たりはない。
ジニーは首を左右に振り、部屋の間取を確認。
自身が寝ているベッド以外には、右手に設置された木製のサイドテーブル。上部は不自然なまでに綺麗で何かに用いた痕跡さえ皆無。おそらくだが、中身も同様だろうと予想立てるのは推理小説に目を通したこともないジニーにも容易であった。
他には何も置かれていない殺風景な部屋。光源たる窓も大部分は遮光カーテンで覆われている。まるで、不自然に思われない程度に外界から遮断するかのように。
「どこだよ、ここ……!」
呟いた直後、腹部に走る鈍い痛み。
苦悶に歯を食い縛る中、忘却の彼方より昨夜の出来事が蘇る。
チャールズからチャイナタウンの倉庫へ荷物を運ぶよう、頼まれたこと。倉庫に待ち人はいなかったこと。そして、モーニングスターを思わせるサイズのキャンディを担いだ少女。
「そうだ……確か、倉庫でタダノに会ったんだ……!
でも、なんでこんな部屋に……?」
昨夜の記憶通りならば、ジニーは倉庫の一角なり、その後に通報されたとして病院のベッドの上で目を覚ますのが道理のはず。
連続性を失った記憶に疑問を抱き、ジニーは暖かな布団から身体を起こす。
ひとまずは部屋を出て、外の様子を確かめる。
そう判断し、ベッドから降りて歩くものの──
「ッ!」
不意に左足を引っ張られる感覚につんのめり、ジニーは木目と豪快な接吻を交わした。
声にならない悲鳴を上げ、力のかかった先へ視線を向ければ足首に足枷がされているではないか。
足枷は伸び切った鎖と繋がり、反対側はベッドの足に繋げられている。意識せずに動けば、数十キロあるベッドに引っ張られるのが道理というものか。
音に感づいたのか、扉の向こうから微かな足音が鼓膜を揺さぶる。
「だから……」
「……許せる訳が……」
扉の先では口論しているのか、互いの声が微かに届く。
今更動いてベッドまで間に合う気もせず、それ以上に全身を走る痛苦がスムーズな移動を妨げる。
故に、ジニーは努めて呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。
心臓の高鳴りを抑えられず決して高くない、むしろ暖房が切れているが故に低いまである室内で汗が滴る。
取っ手が捻られ、扉が内側に引っ張られた。
「別にいいでしょ。あの子を飼っても」
一人は少女。
黒のセーラー服に身を纏い、黒髪をショートボブで切り揃えた人物。横に立つ者と口論している様は、精々口数の少ない程度で年相応の印象を受ける。
「餓鬼を飼うだの……ふざけたことを抜かすな」
一人は男性。
少女よりも一回り以上大柄な体躯を黒のダッフルコートで覆い隠し、左手で杖を突いて歩く男。力なく下げられた右手や顔の右半分を火傷で醜く歪め、特に顔は衝撃で引き寄せられたのか、年齢を判断する根拠となり得ぬまでに激しい皺が刻まれている。
死を、根源たる戦場を否応にも連想させる男性の姿にジニーは思わず言葉を失う。
僅かな悲鳴も漏らさなかったのは、己の許容範囲を大幅に超過した恐怖に叫ぶ猶予さえもなかっただけの話。
とはいえ、ジニーが声を出そうとしたのを感じ取ったのか、異形の男は苦々しい顔をして少女を睨む。
「これを本当に飼うのか、アヤメ……本当にただの餓鬼じゃねぇか」
喉もやられているのか、擦れた声音が少女へ向けられる。
「ただのガキなら私達の足を引っ張りもしないでしょ、ガーナ。毎日ご飯も出すから、ね?」
人一人の処遇に関するものから乖離した単語にジニーは疑問符を浮かべ、ガーナと呼ばれた男は嘆息する。
もしくは露骨かつ慣れてないことが明白な猫撫で声に辟易しているのか。どちらにせよ、ガーナが反対していることは明らか。
額に手を当て、スキンヘッドの男が振り返る。
「最初に飼ってた犬の、ワンワンがどうなったかは……覚えてるか?」
「ワンワンは、飴を喉に詰まらせた……でも人ならそんなこと起きないし」
「二代目は……カナリアのカナカナ、だったか。そいつは?」
「鳥籠を開けたら、その隙に逃げ出して……だから足枷してるし」
「じゃあ、三代目の……金魚のキンキン」
「飽きて……それで、水槽が濁って……」
全く以ってどうしようもないペット経歴。もしもペットショップの店員だったならば、飼育そのものをお勧めしない程の、惨憺たる有様である。
その上、アヤメは問題の大部分を相手が自身と同じ思考域の人間だから大丈夫などと押しつけるにも等しい解決を図ろうとしているときた。人権などといった諸問題よりも初歩に、致命的問題が浮上している。
ジニーは文句を言おうとしたが、それよりも先にガーナが口を挟む。
「そもそも、ただ飯を食わせるつもりはねぇ……テメェで食い扶持も稼げねぇ、餓鬼は野垂れ死ねばいい……」
「その理屈だったら、私の稼ぎで暮らしてるガーナはどうなるの」
「お前は俺の所有物だろうが、口ばかりが達者になりやがって……」
掠れた言葉に苛立ちが混ざり、冷淡な口調に熱が籠る。
ヒートアップしていく両者に対し、一人蚊帳の外なジニーは口を挟むべきタイミングを推し量る。
自身の所有権などという異常事態に対し、当人の意識を無視して飼う飼わないの論争を進めるとは、実にふざけた話ではないか。
「おい、俺のことを無視して話進め……!」
「黙れよ」
「ッ……!」
ジニーの主張は焼け爛れた眼光一つで黙殺される。
思わず息を呑み、それだけで言葉を続ける気力を失う。
額に手を当て、ガーナは天を仰ぎ見る。深い溜め息が室内に広まり、指の隙間から覗ける目が未だ床に這い蹲る少年を見下ろした。
値踏みするような、価値を最大限に引き出す運用法を想定するような。
少なくとも只人が平時に他者へ注ぐものではないと断言できる。
「そうだな……なら、今日の仕事で囮役をしてもらう。
そこでの働き次第で……飼うかどうかを、決めてやる」
上からの、高圧的かつ傲慢な物言い。
「乗った。後から文句をいうのは無しだからね」
相対するアヤメもまた、口角を僅かに吊り上げて応じる。
間に入り込む好機を失ったジニーだけが、額だけでなく背筋にも冷たいものを走らせていた。
仕事の仕込みがあるからとガーナが退出し、室内にはアヤメとジニーが残される。
少年はベッドの上に座り、少女もまた背を向ける形で腰を下す。
「……」
「……」
互いに無言なれど、音無き理由に関しては対極。
ジニーは昨夜の出来事も重なり、距離を図りかねているが故の無言。背に壁を置くのも、万が一にもセーラー服の少女が背後に位置する事態を妨げるために。
他方でアヤメは表情こそ無表情のままであるが、足を振る仕草に合わせて上半身を揺らす。鼻歌の一つでも奏でれば、背を眺める少年にも上機嫌さが伝わるであろうか。
小柄な体躯も相まって、今ジニーの前にいるアヤメは紛うことなき少女のそれ。
しかし、騙されるなとノイズの如く割り込む光景はどうしても昨夜の倉庫。人を撲殺するに足る質量のキャンディを引きずった、凡そ一般からかけ離れた姿。
「タ……」
声をかけようと口を開くも、小骨のように喉元に引っかかる。
忌避感か、或いは恐怖心。
単語などどうでもいい。
ただ、眼前の少女に対して恐れを抱いているという点にかけて、正鵠を射ている。
ともすれば、今すぐにでも部屋を飛び出して逃げ出したくなる衝動を抱える程に。そんな暴挙を働けば、少女は今見せている上機嫌さを一転させて襲いかかるということ。
それさえも投げ出したくなるまでの、心臓を激しく打ち鳴らす感覚。
「タ……タダノは、いったい……何者なんだ……?」
間を置き、問い質すように、ジニーはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ん、私は殺し屋だけど」
軽く、世間話でも語るかのように。
己が身分を口にする少女は、さながら互いの価値観の断絶を象徴するかの如く。
言葉の調子とは裏腹にジニーの級友が同じ語句を言ったとして、同一の印象を持つことは不可能と断ずるに足るナニカが、少女の背中からは感じられた。
知らず腕が背後の壁に当たり、音を鳴らす。
「じゃあ、なんで俺を生かした……?」
未成年を手にかけた経験がない、などという希望的観測を立てるつもりはない。
真紅に染まった両の腕。今更そこに新たな色が加わった所で、抵抗を持つ手合いとは考え難い。
アヤメもまた、少年の問いに答えるべく黒髪を揺らして向き合う。
「君が絵を描いてくれたから」
「え」
殺し屋を称する者にはあるまじき質素な理由に、ジニーは動揺の声を漏らす。
真紅の瞳が正面から少年を捉える。
「私さ、昔の記憶が曖昧なんだ。
少しだけ残ってる中でも誰かから貰ったのは、これだけ」
言い、掲げた右手には薄い赤と白のマーブル模様を描くキャンディ。瑞々しい色味は見る者の食欲をそそり、口内に涎を噴き出させる。
「誰から貰ったのかも覚えてない。ゴツゴツした手の気はするけど、確証もない。
それ以外だと貰ったって経験は〇。
たまにガーナから貰うことはあっても、それは先に私が依頼を達成したからの祝い。ギブアンドテイク、私が上げてからガーナが返しただけの話」
当たり前の経験の欠如。これが、アヤメが自身を倉庫の染みにしなかった理由とでもいうのか。
返す言葉を失ったジニーとは対照的に、少女は表情筋を動かさないままに口を開く。
ありがとう、と。
感謝を口にして気分が晴れたのか、アヤメはキャンディを持つ手を振るう。
するとマーブル模様の楕円が姿を消し、代替としてやや平べったい円形のキャンディへと形を変えていた。鮮やかな二色の模様も、人血を連想させる瑞々しい赤へと変貌を遂げている。
口に加え、味わうアヤメの様子を眺め、ジニーは当然の疑問を零した。
「手品……じゃ、ないよな……?」
声を震えさせた少年に少女は顎に指を当て、思い出したように回答。
「ん? あぁ、そういえばそういう設定で通してたっけ」
本職が殺し屋という時点で予想のついた話だが、彼女の行為は手品のそれではなかった。
かといって素人が行える技術かといえば、それもまた否。
質問から望む回答を逆算したのか、アヤメは言葉を続ける。
「ごめん。手品ってのは嘘。
口にキャンディを含んだまま、器用に紡がれた言葉。
証明するかのように腕を振るえば、左手にはキャンディが握られていた。再度振るえば数瞬前の光景など嘘であったかのように手は自由。掌を回転させてみても、タネも仕掛けもありはしない。
未知の単語に疑問符を浮かべるジニーに呼応して、アヤメは肩を竦めた。
「名付けたのは白衣を着たダレカ。多分だけど、今の私にとっての原点とも言える人達の一人。
七年くらい前かな。硝子張りの部屋越しに、私と同じくらいの子供達を集めて観察して、能力開花に向けたよく分からない苦いのを投与されてた」
質素な病院着を一様に纏い、純白の部屋に置かれた幾つかの玩具と共に過ごしていた日々。白衣のダレカもあくまで観察対象であるためか、極端に劣悪な対応をすることもなく、何も知らなければ裕福な扱いとすら思える、そんな実験動物の境遇。
「キャンディを生み出せるようになって以来、私はただボーっとして硝子張りの向こうを眺めながら舐め続ける日々を送っていたかな」
日々に終わりを告げたのは、当時はまだ若さを残していた火傷男。
「白衣のダレカと会話を交わして、その中で私を指差しているのが印象に残ってる。そして扉の一つが開いたかと思えば、私を連れ出してその男……ガーナと会わせてくれたの」
『ケッ……直に顔を見ても、覇気がねぇ。いくら格安だって言ってもな……』
ぼんやりした幼子を一瞥し、ガーナが吐き出した言葉には毒が満ち溢れ、白衣のダレカの口からは決して聞くことの叶わない代物。
今にして思えば、ガーナの態度こそが自らが商品として製造されていたことの証左だったのだろう。尤も、それを理解するには数年の歳月が必要だったのだが。
「アヤメって名前も、帰り道で偶然見つけた華の名前から取ったって。ガーナが言ってた。そっちは赤じゃなくて青だけど」
アヤメ。菖蒲。綾目。
響きから受ける可憐な印象とは裏腹に花の名は短命を連想させるために人名としては不吉、という迷信が存在する。が、こと殺し屋に限定すれば不吉な名前もまた一興というものか。
自身の頬を指で吊り上げ、口角を僅かに上げる少女は慣れないことをしている自覚があるのか、肩と頬を微かに上下させていた。
そこからは語るも退屈な訓練の日々、と纏めるとアヤメは左手にキャンディを生み出してジニーの眼前へと突き出した。アヤメの花弁を彷彿とさせる青の色目は、ブルーベリー味を予想させる。
「昔話にはキャンディが付き物、って聞いたけど。順番、逆だったかな」
「……」
小首を傾げ、どこか不安げに問う少女にジニーは暫し唖然とし。
「フッ」
次いで、肩を揺らして笑みを零した。
一度緊張の糸が切れてしまえば、後はなし崩し的に笑いが続く。
不安は微塵も拭えることなく。されどもアヤメという少女に限定すれば、多少は信用できるのではないかと希望を抱く。だからか、殺し屋が眼前にいるという状況下にあって、なおも顔を綻ばせることが叶うのは。
「ハハハハ……!」
「何か可笑しい?」
「いやいや、ごめんごめん……そういう訳じゃないけど……!」
拗ねて口を尖らせたアヤメの姿が面白く、ジニーは更に頬を綻ばせるばかり。
腹を抱えて背で壁を叩く様は、部屋を出たガーナが喧しさを訴えて戻ってくる可能性など微塵も考慮しないまでに。
「ハハハ、ハハ、ハ……!」
一しきり笑い、脱力して壁に背中を預けたジニーは改めてアヤメを正面から見遣る。
散々爆笑の対象となったことで辟易したのか、漸く笑い飽きたかと怜悧な眼光を注ぐ。それでも左手にブルーベリー味のキャンディが握られたままなのは、律儀とでもいうべきか。
冷たい視線を覚えながら、ジニーはアヤメへ質問を投げかけた。
彼女を信頼するための、最後の質問を。
「なんでさ、さっきの話を俺に話したの?」
アヤメ自身の過去、それも決して聞いてて気持ちいい類のものでもない代物を。
昨日今日会った間柄の人物に話す程、安いものでもないだろう。そも、ジニーの生殺与奪は彼女が握っているにも等しい。わざわざ一歩づつ歩み寄る迂遠な工程を経る必要などないはずなのだ。
質問を受け、アヤメは視線を落として思考に耽る。
一秒、二秒、三秒。なおも悩む。
先程までとは一転して沈黙が室内を支配する。そこに声を挟む余地など、質問者たるジニーには存在しなかった。
深い理由もなかったのか。
少年が安易に質問したことを後悔する寸前、顔を上げた少女は口を開く。
「別に隠す程のものじゃなかったし、それにこうして気安く話せる相手が欲しかったからペットが飼いたかったのもあるし」
ガーナじゃ軽い話はしづらいし、と続く彼女の言葉に、嘘は感じられなかった。
「そう……あ、さっきのキャンディ頂戴」
「遅いなんてもんじゃないけど、それで良ければ」
差し出された甘味を受け取り、ジニーは暫し半透明な外見を天井にかざす。
木目を数えられる程の透明感はなく、かといって全く見えないのかと言われればそれもまた否。それが自身の将来にも重なり。
ジニーは暫くの間、キャンディを見つめ続けていた。
「あの餓鬼連れて応接室に来い」
ジニーのいる部屋へガーナが訪れたのは、茜色の光が部屋に差し込みつつあるタイミング。正確な時刻の確認こそ叶わないが、既に五時は回っていると想定できた。
火傷痕の目立つ手が鍵をアヤメへ手渡し、それで左足の戒めを開錠。
自由になった足を持ち上げてみれば、開錠以前とは軽さが雲泥の差である。
足が自由であることが当たり前であるが故に気づかぬ感覚に、ジニーは目尻に薄い水滴を浮かべた。
「さっさと行くよ、ジニー。ガーナは待つのが嫌いなの」
「へいへい」
扉の前に立つ少女に促され、ジニーは背中に追随する。
取っ手を捻った先は、老朽化が進んだモーテルといった風貌の廊下。一歩足を進める度に木造の床が軋みを上げ、くすんだ白の壁は隙間風を亀裂から走らせる。
冬のマンハッタンともなれば、それだけでジニーは肩を震わせて身を丸める理由となる。
「ん……」
アヤメに案内される途中、風に吹かれて開けられた扉の先から、呻き声が鼓膜を揺さぶった。
第六感が警鐘を鳴らす。危険を訴えて心臓が早鐘を打つ。異常を訴えるべく喉が過剰なまでに水分を希求する。
開けられた扉はジニーの数メートル先、歩けば自然と目に入る位置。猫を殺す覚悟さえあれば、ナニがどうなっているのかを目撃しうる状態。
「だから急いでって」
足を止めたことに気づいたのか、アヤメが苛立ち混じりの声で促す。
少女の声で正気に戻ると、開けてはならぬ禁忌の光景から意識的に目を逸らし、ジニーは好奇心を猫の餌にして先を急いだ。
決して広くはない廊下。突き当たりを右に渡れば、一様に閉じられた部屋とは異なる一室が目に入った。
寝室と比較して倍以上はあろう面積。遮光カーテンの上から幾つもの紙を張りつけ、天井の電灯も他の部屋とは異なって最大の光量で来客を歓迎する。真下には木製の安っぽいテーブルと両手を置いて覗き込む火傷男の姿が照らされていた。
アヤメが部屋へ踏み込むと、ガーナも呼応して振り返る。
「遅かったな……」
苛立ちと舌打ち。
随分と荒っぽい歓迎を無言で受け入れ、アヤメは電灯の下に姿を晒す。後ろに続くのは、ジニーの姿。
テーブルの上に広がっている光景は赤線と多数の注釈や地名、人名が書き込まれた地図。マンハッタン島全体を捉えたものを下敷きに、一部地域へ密度を高めたものが置かれる。
「それじゃあ、作戦会議を始める……」
ガーナが口を開くと、テーブルの端に設置された紙を二人にも見えるよう動かす。
そこには履歴書を彷彿とさせる資料と、小太りの黒人を写した写真が添付されていた。
「今回の殺害対象は、ドレッキング・ロウ。個人の麻薬売人で……頼まれた翌日には麻薬が仕上がっている、仕事の早さからスピード・ロウ、なんて仇名で呼ばれているらしい」
「ッ……!」
愉快げに喉を鳴らすガーナとは対照的に、麻薬と聞いた途端ジニーは表情を強張らせる。
「今日はハーレムで、奴主催のレイブパーティーが行われる。会場も自費で建てる……ような自己顕示欲の塊だ、ついでにそこで、薬も売れば一石二鳥ってな」
「自分で会場を建てるって、随分と儲けてるのね」
「そりゃ、上手く捌けりゃ……一週間で一〇〇〇万ドルは、硬いからな」
歯茎を見せた笑みは、右半分に及ぶ火傷痕と相まって醜悪な印象を他者へと与える。付き合いの長いアヤメならばまだしも、ジニーが視線を向けていれば声の一つでも漏らしていた程に。
そこで、とガーナが懐から一枚の紙を取り出す。
「ロウが主催するパーティは、入場時に合言葉を言う必要がある。ってのまでは掴めていたが……昨夜の倉庫番から丁寧に聞いた所、どうにか……合言葉を教えてもらうことが、叶った」
無駄に丁寧な言葉遣いに喉を鳴らす嗜虐的な笑み。
先程垣間見た一室の様子を例に出すまでもなく、丁寧に聞いたが碌な意味を指さないことは明らか。
「本当なら、二人とっ捕まえて互いに質問してやるのが、情報の信頼性に繋がるんだがな……ところが実際はどうだ」
「……も、文句でもあるのかよ」
怜悧な眼光がジニーへと注がれ、待ち構えるは並々ならぬ敵意の感情。
反論の声音は小さく、ともすれば掻き消えてしまう程に。それでも視線を逸らさなかったのは、理不尽な目にあっているという自覚から湧き上がる怒りか。
歯軋りを一つ。
生意気な餓鬼を相手に、ガーナは懐へと手を伸ばす。
「ガーナ、ジニーは飼うんだよ」
「……チッ」
一瞥するアヤメにも舌打ちを飛ばすと、手を引き抜く。
「そもそもだ……あの倉庫にお前がいたせいで、計画が狂ってんだ。
あそこで二人攫って、両者に情報を聞くだけで済む話だったのによ……」
「仕方ねぇだろ、俺はただあそこに荷物を……?」
ここまで口にして、漸くジニーは一つの疑問を心中に抱く。
アヤメが荷物を粉砕した際にぶちまけられた粉末。本来ならその時点で思慮を回すべき案件だが、改めて口にするまで思い出す余裕もない程に立て続けに状況が推移していた。
だが時が立ち思考も冷静さを取り戻し、指摘されたことで遂に疑問を思い出したのだ。
「なんで、おじさんの荷物にあんなものが……?」
破砕された中身からぶちまけられた白紛。まだ慣れない時期にくしゃみをしてしまい、溶かす前の塗料が舞い散った時とは異なる質感は、中身が報告とは違う内容であると雄弁に物語る。
アヤメの呟いた言葉も、推測を肯定する代物であったと記憶している。
ならば、何故そのようなことに。
「そんなの決まってるだろ、そいつが──」
「荷物を間違えたんだと思う」
侮蔑の笑みを浮かべたガーナの言葉を遮るように、食い気味にアヤメは被せた。
被せられた男は怪訝な視線を向けるも、すぐ側に立つ少女は普段通りの表情を維持して真意を悟らせない。それが何を意味しているのかも理解しないまま、少年は影の広まりつつあった表情を朗らかにした。
念には念を押してか、黒髪を揺らしてジニーを見ると補足を加える。
「石膏? とかの、石像を造る用のを間違えたんじゃないかな」
「石像用か……そっちは俺も知らねぇからな。それならおかしくもないか」
顎に手を当て一人納得するジニー。首肯するアヤメも、彼の出した答えを肯定するように頬を僅かに綻ばせた。
一方、腰を折られた形のガーナは咳払いを一つ。集中力が離れつつある二人を机へと注がせる。
「話を戻すが……合言葉の信憑性が低い以上、いきなりアヤメに突入させる訳には……いかねぇ。正面から強引に行かせて、ロウに逃げられたら元も子もない。かといって合言葉が違えば、潰し合いは必須だろう。
だから、確認用の生贄が……必要だ」
「ガーナ、だからジニーは──」
「穀潰しを飼うつもりはねぇ」
次に言葉を被せたのは、額に手を当てたガーナ。
二度も同じことを言わせるな、と眉間に刻まれた皺が如実に語る。
「何も確実に死ぬ、って決まった訳じゃねぇ。親切に事実を教えてくれたのなら、一切問題なく会場入りできるはずだ。下手したら自家製麻薬の……手土産を渡してな」
苛立ちを吐き出すように、元来の擦れた声を震わせて語るガーナ。衝動的に叫び出すことこそないものの、何も知らぬ相手に不安を抱かせるには充分。
更に反論の言葉を返そうとしたアヤメを、ジニーは腕を伸ばして静止を促す。
麻薬、その単語を聞く度に表現し難い感情が心中に湧き上がる。大本の検討こそついているものの、少年は未だに確信を得るつもりがなかった。
もしくは、恐れているのか。
「確かめたら、ひとまず殺しはしないんだな」
声に混じる微かな震えを感じ取ったのか、ガーナは露悪的に頬を吊り上げて応じる。
「あぁ、キチンと仕事ができるなら話は別だ……飢えない程度の飯くらいは用意してやるよ」
「……分かった」
逡巡は僅か。
答える視線に揺れはなかった。
「俺がそのレイブパーティーに潜入してやるよ」
夜も深まり、黒単色のキャンパスに大小様々の白点をまぶした光景がマンハッタンを覆う。眠らぬ島は時計が一周しようとも地上の輝きを絶やすことなく、むしろここからが本番だとばかりにネオンを煌めかせる施設も珍しくない。
その一つがハーレムの一角、大通りに隣接したダンスホール『ドレッシング』。
ダンス会場とバーが併設した複合施設であるそこは、莫大な資金を出資した男が手配した見張りが常に正面出入口を封鎖している。招かれざる客を阻むために。
幾人かの見張りが日を変え手配される出入口に、今宵立つは黒衣のスーツに赤いネクタイを着用した男性。
名をアートマン。
煌びやかな世界に不釣り合いな、不機嫌そうな欠伸を一つ。男にとって仕事など金を稼ぐための手段。情熱を持ち込む場でもなければ、職務を全うするなどという御託を持ち込む場所でもない。
「ん?」
ならば、その眼光は如何なる時に研ぎ澄まされるか。
答えは簡単、至極明快。
「すみません。スピード・ロウさんのレイブパーティーってのは、ここですか?」
「……」
不審な者を前にし、通すべきか否かを判断する時。
成すべきことを果たさずに金を貰える程、ドレッキング・スピード・ロウが甘いか否か。自らの首を担保に確かめる趣味をアートマンは持ち合わせてはいない。
故に男性は眼前に立つ少年を睨み、観察する。
中肉中背。口元を覆う襟のジャンパーにダメージ加工を施したジーンズ、スニーカーも数日前に発売したばかりの最新モデル。レイブに参加するに相応しいカジュアルな服装ではある。キャップ帽を前後反対に被るスタイルなど、スピード・ロウも頻繁に行うファッションと言えた。
違和を覚えるとすれば、表情。
「そうですが、いったい何の用で」
「用って……さっき言ったでしょう、レイブパーティーに参加するって」
ムキになって言い返す少年の顔は、薬物乱用者らしい症状の窺えない健常そのもの。受け答えも至って正常、好青年と呼ぶに値する。
故に、怪しい。
薬物売買で財を成した男が主催するパーティーに参加するなど、あり得ないがために。
「でしたら、お名前と合言葉をどうぞ」
「ッ、あ……あぁ」
一瞬感じた言葉のつまりは、きっとそういうことなのだろう。
警察か、それとも個人の賞金稼ぎか。同僚は以前に同業者の放った刺客の潜入を防いだと自慢げに語りもしたか。
スピード・ロウを恨む人間は多い。彼の没落を願う人間は更に多い。
マンハッタンにばら撒かれる麻薬の幾らが彼の手によるものか。それを考えればパーティーの度に多額の費用で見張りやボディガードを雇うのも納得というもの。
「どうしましたか。合言葉は事前に伝わっているはずですが」
「そ、そうですね……ちょっと、思い出しますから……」
唸って襟元を持ち上げる少年。
しかしアートマンの経験上、ここから正解を言い当てられた者を知らない。皆が一様に言葉につまり、そして適当を言って追い返されるか融通して貰えないか問うの二択。
どちらにせよ、通す理由は絶無である。
「名前はケビン・マクガフィンで通してたはずで……合言葉は、スピード・ロウはヤクも女も手が早い、でしたよね?」
「──」
驚愕に思考が呑まれる。本来なら即座に事実確認を行う必要があるにも関わらず、脳裏を埋め尽くすのは動揺ばかり。
ケビンと名乗った少年は、見事正解を言い当てた。
通例なら門前払いが妥当な調子でありながら。
「あの、通っていいですか?」
「え……あ、あぁ……どうぞ」
再度促され、アートマンは慌てて扉から一歩引き、恭しく頭を下げる。
カンが鈍ったか。地面へ視線を注ぐ間、門番はネクタイを弄って思慮を巡らす。軋みを上げて開けられた扉から暖風が零れ、ケビンと名乗った少年が通過。
やがて扉が一人でに閉じられ、アートマンは顔を上げる。
その表情に、怪訝を超えた不信を含ませて。
「スピード・ロウ、こちらアートマン」
スーツの内から取り出した無線機を通じて、男は報告を一つ。
温暖な空気を一瞬で霧散させる寒風が、スーツ越しに男の身体を冷やした。
「ふぅ、なんとかなったか……」
扉の閉じる音を背中で聞き、少年は嘆息を一つ。
余程寒かったのか、扉を潜ったケビン──を名乗るジニー・レデルは両手を擦り合わせて一時の熱を得た。手袋をし損ねたことは失策であったと思いつつも、最早引き返せる段階でもない。
小さな後悔を胸に据えて足を進めるジニーへ、襟口から骨を介して伝わるは侮蔑の色を帯びた声。
『何がなんとかなった、だ……せっかく聞いた合言葉を忘れるんじゃねぇ』
「仕方ねぇだろ、他に覚えることが多かったんだよ」
そもそも偽名の他にも出身州から学歴、初の乱用がいつだったかなど不要なまでにケビン・マクガフィンの設定を練ったのはお前だろ。という言葉が喉から出かかるも気力で飲み込む。
無駄な情報を僅か数時間で叩き込まれては、肝心な合言葉が頭から押し出されるのもまた道理。
まして、潜入捜査の真似事などジニーには始めての体験だったのだから。
『仕方なくねぇ……そんな理由で見逃す馬鹿はいねぇんだよ』
理由があれば不手際を見逃すのは馬鹿の理屈。
結果を求められる環境に於いて、全ての言い訳は虚しく響くだけの音に過ぎない。
「チッ……それに俺は囮なんだろ」
ガーナの言い分を切り捨てられないジニーは、代わりに当初の予定を以って吐き捨てるのみ。
元々本命はアヤメを通すこと。ジニーはあくまで合言葉を確認するために使われた捨て駒。仮に失敗したとしても、それで困るのはジニー個人に限定されるはず。
しかして、それにもガーナは否を突きつけた。
『囮が先に目立ってどうする……今お前が捕まると、後から来るアヤメまで警戒されるだろうが』
「ケッ、そうかよ」
あくまで後続ありきの言動に、ジニーは口を尖らせる。
やがて会場へと続く廊下も終着へと近づき、前面の扉越しに微かな大気の震えが肌に伝わる。同時に、大音量の残滓が廊下に漂う暖風と寒風を混ぜ合わせて混沌とした気温を形成。
生温い気温が肌の表面温度を僅かに下げ、ジャンパーの内で温めていた右手が避難を訴える。
右手の主張を無視して、ジニーが取っ手を掴み──
「ッ……」
取っ手から伝わる爆発染みた衝撃に、額から水滴を這わせた。
ジニー・レデルという人間は芸術家を目指して万進していた都合上、レイブのような大人数で騒ぐ催しに首を突っ込む経験が欠如している。
故に心臓の鼓動と重なり、人体が最も興奮する八ビートを前にして自身の高鳴りに困惑しているのだ。
振り切るように握力を込め、叩き折らんばかりの勢いで取っ手を引く。
「ッ……!」
開かれた直後、扉の先から炸裂した破裂が彼を一歩後退りさせる。
実体なき無形の圧力。絨毯爆撃を彷彿とさせる出鱈目な音量、叫び、興奮の音色。鼻腔を殴りつける暴力的な香り。
全てが未知に包まれた空間に、多数の男女が狂乱に舞っていた。
『会場入りしたようだな……アヤメ、そっちも準備を進めろ』
スピーカー越しにも鼓膜を不安視する暴力的な喧しさに、ガーナはジニー側の音量を限界まで絞り、続けてアヤメ側のオペレーションを開始する。
「了解」
アヤメは寒風が容赦なく吹き抜ける中、ドレッシングに隣接したビルから入口付近を睥睨していた。
入場客をジニー含めて一人一人検査していた男は既に相当数見てきたためか、監視を初めてから既に八度は欠伸を行っている。入口へ向かう人影があれば多少は持ち直すものの、そうでもなければ大口を開けるばかり。
悍ましいまでの利潤を上げる麻薬売人を相手に、パーティーへ殴り込みをかける胆力を持った者がいる訳がない。
アートマンの態度には、慢心が如実に現れていた。
黒髪の少女は門番が頭上を見上げていないことを確認し、屋根を飛び移る。幸いにも両者共に三階建て、ガーナに鍛えられた身体能力を以ってすれば飛び移りは造作ない。
煙突の一つでもあればサンタの真似事をするのも検討したが、生憎と建物の権利者はそこまで子供でもない模様。
「だったら」
『どうした……まだ合言葉を伝えてないのか?』
骨振動を介した最新鋭のスピーカーも、視界の確保には未だ長い開発年月を要する。
故にアヤメが右手にキャンディを生み出したことも、それを徐に投げ捨てたことも把握する術を持たない。
「ん、なんだ?」
一瞬、視界に線が走ったかと思えば、地面を跳ねて微かな音を立てる。
瞬間的にアートマンは懐へと手を突っ込み、中の拳銃を掴むも続く反応はない。
視線を線の走った先へと向ければ、地面を転がるのはひしゃげたキャンディが一つ。赤の色彩がアスファルトに染みを作る様は、ともすれば飛び降り自殺した死体が臓物をぶちまける凄惨な有様を連想させた。
随分と物騒な連想だと苦笑するも、職業柄仕方ないとアートマンは自身を納得させる。
日の光で反射したものを烏が拾いでもしたのか、そう軽く考えて頭上を見上げ。
「なッ──」
落下する黒一色の少女と、それが振り被るモーニングスター染みた得物への反応が遅れる。
直後、鈍い衝撃が彼の意識を奪い去った。
『おい、なんだ今の音ッ。どうしたアヤメッ?!』
枯れた声を荒げて応答を求めるガーナとは対極的に、アヤメは振り抜いた姿勢で着地。そして、体内に蓄積した熱を呼気と共に吐き出す。
右手に握るキャンディの先には、鮮血。
隣接するビルの一角、壁にもたれかかるアートマンは額から血を流して微動だにしない。
「大丈夫、邪魔者は排除したから」
『排除……だぁ……?』
「うん。これで手早く動けるでしょ」
『はぁッ?!
ふざけんな、どんなアドリブだよッ。アヤメゴラァッ……! 計画が、台無しじゃ、ねぇか……て、てめぇ……!』
咳き込み、声も絶え絶えとなりながらなおもアヤメへの怒りを止め処なく溢れさせるガーナ。
合言葉で無理なくレイブへ潜入することが大前提であったにも関わらず、初手で門番を撲殺したとあっては最早計画も何もあったものではない。
「身体半分潰れてるんでしょ、ガーナは。そんなに叫ぶと身体に悪いよ」
『だったら……騒がさせんな、カスが……!』
呼吸の乱れる音をスピーカー越しに聞き、気遣う言葉を投げるも元凶とあっては無意味。むしろガーナは叫ぶ力を振り絞って罵倒を注ぐ。
気遣った上でも罵倒を注がれた状況に、アヤメは嘆息を一つ。
「……分かった。ちゃんと隠蔽工作もする」
まずは吹き飛ばしたアートマンへと近づき、右腕に指を当てて脈拍を確認。
弱弱しくだが、血流は未だ通じている。これならば扉付近にもたれかかっていても不自然という程でもないだろう。
手早く身体を運び、頭から今もなお流れている血を止めるべく、応急処置として付近に舞っていたチラシを張りつけ、それを固形と流体の中間状態の水飴を接着剤代わりに頭へ付着。眠っていると誤解している相手ならば、風向きに沿ってチラシがついていてもおかしくはなかろう。
最後に、取っ手を破壊して強引に店内へ侵入すると、脱出口を一つ潰す意味も兼ねてドアノブ周辺を先程と同じく水飴でコーティング。
「これ、手がベトベトするからあんまり好きじゃないんだけど……」
嘆息を愚痴に乗せると、アヤメもまた廊下を直進する。
『あの、馬鹿餓鬼が……!』
電波に乗っているのにも構わず愚痴を吐き出し、ガーナはジニーへと連絡先を変更。少女の失態とそれに伴う状況の変化を通達する。
『ジニー、アヤメの馬鹿がやらかした……スピード・ロウの捜索を急げ』
「え、急げってったって……それにやらかしたって何をだよ……」
まさか個人ごとに合言葉を変えている、などということもあるまい。
突貫で組み込まれた自身とは異なる、玄人たる少女の失態など予想がつかないと首を捻り、ジニーは忙しなく視線を動かす。
暗柴色の室内は視認性に著しく欠け、主だった光源は二階まで吹き抜けの頭上に浮かぶクラブホールのイメージ程度でしか見たことがない虹色の光彩を放つミラーボール。二階へ向かう階段と幾つかの席には、ダンスに疲れた者が息を整えて待機していた。部屋の中央部にはポールダンス用か、垂直の柱が設置されたステージが立地する。
そして派手かつ興奮を煽るヘビィロックにつられて舞うは、ジニーの鼻腔を逆撫でする不快を纏った男女。
『あの馬鹿、門番を殺りやがった……隠蔽工作はさせたが、いつまで持つか分かったもんじゃねぇ。狙われていることに気づいたら、ロウも逃げるに決まってる……
その前に発見して、アヤメが立ち回りやすいようにしろ……』
掠れた声に苛立ちを乗せ、ガーナが指示を飛ばす。
それが周囲へ偏った意識を逸らさせ、強く握ったジニーの拳を緩めさせる。
呼気が荒げないよう、大きく息を吸い、吐き出す。幾度か深呼吸を繰り返し、ジニーはスピード・ロウの捜索を開始する。
ミーティングで聞いていた情報を元に辺りの人々を確認するも、下手人と一致する者はいない。比較的分かりやすい特徴故に見間違いもないはずだが、それでも見当たりはしない。
「急げっつっても見つかんねぇよ。そもそも俺は素人だぞ」
『あぁ……VIP席とか、そういうのはねぇか?』
ガーナの提案を受け、ジニーは二階席の中から黒服──踊りに不適な服装で身を包んだ一団を探す。
条件を絞り込めば、答えは即座に出力される。
入口とは反対方向、正面から歩けば辿り着く階段を右に曲がった先。そこに一目しただけで五人もの黒服を従えた男が鎮座していた。
ふくよかな体躯にラッパーを彷彿とさせる黄のパーカー、前後反対に被ったキャップ帽に視認性を疑問視するサングラス。添付された資料の情報と大きく一致する。
「アレがドレッキング・スピード・ロウ……!」
認識した途端、目に血走ったものを覚え奥歯を噛み締める。
マンハッタンに麻薬を蔓延させている売人の一人、数多いる怨敵、滅ぼすべき絶対悪たる一柱がジニーの体温を著しく上昇させた。
知らず、足が階段へと向かう。
パーティーの主催を演じるまでに蒙昧と化した愚か者に正しき罰を下すべく。
『見つけたか、そのまま監視を続けろ……動けばまた報告しろ』
「ッ!」
危うい所をどこかから目撃しているのか、またも無自覚ながら的確なタイミングでガーナは静止を訴える。尤も、拳銃の一つも携帯していないジニーに行えることなど、たかが知れているのだから、監視に留めるのが妥当というもの。
足を出し、前のめりになった姿勢で動きを止め、少年は一瞬の逡巡を置いて足を引き戻す。
不自然に思われないよう、付近のウエイトレスに声をかけて水を要求。色のついた液体など幾らでも頼めるにも関わらずの注文に小首を傾げるも、わざわざ指摘する必要もなし。
「少々お待ちください」
深々とお辞儀し、ウエイトレスは会場に併設された簡易バーへと足を運ぶ。
改めて視線をVIP席へ注ぐと、スピード・ロウが黒服へ耳打ちをしていた。何を企んでいるのかは想像する他ないが、碌な内容でないことだけは疑う余地ない。
距離を取るべく、踵を返す寸前。
「降りてくる……?」
『何……?』
黒服を率いてスピード・ロウが階段を下ってくるではないか。
玉座でふんぞり返っているよりも手を下す好機は増えるだろうが、肝心のアヤメが会場入りできているかも怪しい現状では、有効に活かせるかは疑問符がつく。
『おい……奴らに気づかれないよう、尾行しろ……!』
「あー、そりゃ無理だな……」
『出来る出来ないじゃねぇ、やれって……!』
「いや、そうじゃなくてな……」
ガーナの言葉に呆れ混じりの声で返すジニー。
その理由は、続く弁が何物よりも雄弁に物語っていた。
「こっち来てんだわ……ロウ」
「よう、ケビン。楽しんでるかい?」
快活な口調でジニーへ迫る黒人。人のいい笑みを浮かべてこそいるが、薄汚い正体を知っている彼からすれば目つきを隠したサングラスと同じ。
擬態の代物に他ならない。
「え、あぁ……レイブへの参加自体が初めてなのもので……」
元々与えられていた設定と本来のジニーで共通する要素の一つ、レイブへの参加が初めてという情報は演技に真実味を加える。
視線を顔から落として胸元へ注ぐ様は、正しく人見知りのそれ。
細かな所作にケビン・マクガフィンの一端を垣間見、ロウは歯茎を見せつけ頬を吊り上げる。
「そうかいそうかい、初めてが俺のとこなんて見る目があるぜアンタッ。他だとここまで大々的にヤク使えないぜ!」
「そう、ですね……」
馴れ馴れしく肩を組むロウから顔を逸らし、丁寧に清掃された床を睨みつける。暗柴色に照らされた床に反射した自身の顔は、殺意に彩られていた。
知ってか知らずか、主催者は自らの主催したレイブの宣伝を開始する。
「何せキチンと話を通せば、他の売人がうっ払うのだって許可してんだ。皆でヤク決めて笑顔の方が楽しいからな!
もちろん、それで足りなきゃ俺のとこで買うことになるがなッ。もしくはチャンポンってのも悪くねぇかもな。俺としてはやっぱり自家製ブランドのスマイルってのがお勧めなんだが……!」
「ま、まだ心の準備ができてないので……」
「あ、そう」
やんわり。しかして明確に拒否の意を見せると、意外とでもいうべきかロウはすぐに手を引き、強引に麻薬を押し売る様子はない。
組んだ肩を離すと、黒人らしい漆黒の肌で暗柴の光を反射させながらジニーと向き合う。
ロウは口の端を吊り上げて別の話題を切り出す。大仰に両手を広げる仕草は芝居がかって見え、大事な話なのかとジニーを身構えさせる。
「そういえばよ、ウチの門番から会員証を確認し忘れたって連絡がさっき届いたんだわ。せっかくだから俺が直接見てやるよ」
「ッ……!」
『会員証、だと……?』
初耳の情報に、表情を強張らせるジニー。当然、情報を聞いていた際に匂わせすらしなかった要素にガーナも動揺を強く声に乗せる。
拷問による情報は苦痛逃れであることないこと吹き込むパターンや、忠誠心を貫いて敢えてデマを吹き込むパターンも存在する。
先人から習った言葉を反芻するも、今更ガーナに打てる手はなし。
「会員証なんて聞いてねぇぞ……!」
『俺だって知らねぇよ……あの野郎、肝心なことを……!』
骨振動を通して激しい怒気が伝わるも、今怒りを露わとしても状況が好転するかの答えは否。
手首を振って催促するロウに対し、説得力のある返しで不所持を誤魔化す。
周囲の客も黒服に囲まれた状態を不審に思ったのか、さり気無く距離を離していく。視線を床に落としてみるも、そもそも会員証の形も不明な以上、落とし物でなんとかするのは無理がある。
ひとまずジャンパーのポケットに手を突っ込み、探す真似。
「あ、あれ……おっかしいな」
「どーしたよ、ちゃんと伝えたはずだぜ。会員証は必須だってな」
「それは当然、覚えてますけど……もしかして家に忘れたかな……?」
ポケットをひっくり返しても、他の部分を探ってみても当然姿を現さない。
慌てる振りをするジニーに、ゆっくりとロウは歩みを進める。
パーカーの中央ポケットへと右手を突っ込み、口元の笑みとは裏腹にサングラスの奥を怜悧な眼光に染め上げて。
「そいつは大変だなー……」
ジニーと額をゆっくりと当て、左腕を回す。
抜け出さないように。
「どうやって存在しないものを忘れたんだ?」
「ッ──!」
直後、腹部に走る灼熱の激痛がジニーの思考を白で埋め尽くす。
ロウが左腕を離すと、ジニーは距離を取ろうとしたのか。覚束ない足取りでたたらを踏み、そして尻餅をつく。衝撃で腹部から血飛沫が舞うも、ジニーの意識はなおも灼熱を残した腹部そのものへ。
「ぁ……あ、あぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁッッッ!!!」
ジャンパーの一角を朱が塗り潰し、深奥には豆粒程度の深淵。
撃たれた。
そう自覚した途端、亀裂が広がるが如く、全身に激痛が駆け抜ける。腹部を抑えても激痛、離しても激痛。無視しても、反応しても、意識しても無意識でも。
身体を焼く痛みが神経を蹂躙し、脳細胞を焼き尽くす。
「おいおい。たった一発でそんな調子じゃ、これからが大変だぜ?」
あらん限りの声で音楽を掻き消して絶叫するジニーを見下ろし、快活な笑みを浮かべるロウ。その右手には白煙をくゆらせる漆黒の殺意、ポリマーフレームの最新鋭自動拳銃が握られていた。
見開かれた眼でラッパーを彷彿とさせる男を視界に納めるも、最早男に嘲笑の念を隠すつもりはない。
「アートマンから連絡があったんだよ。不審な客が来た、警戒しろってな。
それでちょーっとばかりカマかけてみればこれだ……いやー、長年のカンってヤツはすげぇなぁ?」
そう思うだろ、と同意を促されてもジニーに反応する様子はない。
銃声で騒然となる会場は、しかして周囲のスタッフによる事情説明と撃たれた少年を黒服が囲むことで混乱は最小限に抑えられている。
気づけば、周囲を囲む黒服達もまた思い思いの拳銃でジニーへの狙いを定めていた。
一斉射撃でどうなるか、稚児であろうとも容易に想像がつく。
「あ、あが……く、そ……がぁ……!」
「どうしたよ、ケビン。辞世の句ってヤツでも詠むか。それとも恨み節か?」
耳を澄ます仕草こそ取らないものの、ロウの態度には詰ませたという確信が滲んでいた。
そして事実として、ジニーにマトモな思考をする程の精神的余裕はなく、ただ激痛を和らげるためだけの出力を繰り返しているに過ぎない。
故に。
「頭下げて」
「?」
頭上から聞こえる声に、皆が一様に反応が遅れた。
「あぁ?」
愉快な調子を崩さずに見上げたロウは、直後に反射で身体を一歩下げる。
それが限界。
どこからか飛来した黒衣のセーラー服、両手で握るは身の丈にも及ぶ巨体とそれに見合う質量を合わせ持つキャンディ。
唸り声を上げる一閃が、ジニーを囲う黒服を諸共に薙ぎ払い一掃。不幸にも巻き込まれなかった四肢の一端が姿を無くした主を求めて、床を声帯にして声を出す。
「…………え?」
充分に距離を取ったはずの客の一人が、突然頬に訪れたねばついた感触をなぞり、人体に似た暖かさと肉質、そして鮮血を認識。
誰が最初に悲鳴を上げたか。
会場一帯が狂騒に包まれた今となっては些事に過ぎない。
一方、ジニーは会場に漂う不快な匂いとは異なる、鼻腔をくすぐる甘ったるい匂いにどこか安心感を覚えていた。
彼の正面に立つは黒衣のセーラー服に濡れ烏のショートボブ、右手に特大のキャンディを握った少女。身に纏う甘ったるい匂いは死とは程遠く、しかして右半身を濡らす薄い赤は何物よりも死に近い。
「カ、飴殺し……!」
「知ってるんだ、私のこと」
アヤメはキャンディをロウへ突きつけると得物が一瞬膨張、そしてバスケットボール台に収縮する。伴い、柄も一回り小柄化して取り回しを強化。
「クソがッ、ふざけんじゃねぇッ!」
撃鉄が叩かれ、銃弾が僅か五歩先の少女へと疾走。
対応するアヤメは手首を捻って銃弾を弾き、天井へと誘導。僅かに欠けた欠片が暗柴色の乱反射で煌めく。
「そんなのが効くと思う?」
「化け物が……!」
「知ってるよ」
問答の間隙。五歩を詰めたアヤメが右手を薙ぎ、拳銃を右手ごと吹き飛ばす。
強引な膂力で右手をひしゃげさせたロウが苦悶に顔を歪める刹那。
「カッ……!」
左の掌打で胸元を抉り、男の肺から空気を強制的に排出させる。
抵抗するようであらば、アヤメも更なる追撃が視野であった。が、ロウは身体に力が入らなくなったのか、仰向けに倒れた。
それでも意識はなんとか現実に括りつけたのか、視線だけをアヤメへ注ぐ。
「テメェ、化け物が悪者倒して……正義でも騙るつもりか……?」
吐き捨て、侮蔑する言葉は彼の本心が一端か。
先程までの快活な様子からは一転。ジニーを敵と断定してからの侮蔑する調子とも異なる態度は、死を覚悟したが故の言動か。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
出血も落ち着き、痛みも時間を経てある程度は沈静化したか。ジニーは腹部を抑えながら立ち上がる。
麻薬をばら撒く人種のせいで、いったいどれだけの人間が不幸の連鎖に組み込まれているのか。数多の害でもたらした財を失う気分はどうだ。
ぶつけてやりたい言葉は無数に浮かび、我先にと急いで喉に突っかかる。
「別に、そんなのどうでもいい」
「え……」
対して、アヤメの返答は端的かつ悪い意味でジニーの予想を裏切るもの。
「依頼人の意図は知らないし、私はあくまで依頼されただけ。仮に君が売ってるのがトマトでも依頼されてたら私は殺してた。
そして私は生きるために殺してるだけ」
アヤメの回答にロウは一瞬目を見開き、そして鋭く研ぎ澄ます。
口から微かに血を滴らせて、ゆっくりと言葉を綴った。
「そうかよ……獣が」
それを最後にアヤメはキャンディを振り下ろし、漆黒の肉袋から赤をぶちまける。
寸前の所で風圧が剥がしていたのか。難を逃れたキャップ帽が宙を舞い、やがて脳漿で汚れた床へ落下した。
頭部無き主の完成度を、僅かでも高めるために。
「問答は趣味じゃない」
粘着質な音を立ててキャンディが持ち上がり、残滓が糸を引く。
それも、アヤメが手首をスナップさせるだけで跡形もなく姿を無くす程度の存在感だが。
レイブに訪れた参加者も既に大部分が退出した後。感情を高める音楽も無人とあっては虚しく響き渡るのみ。
踵を返し、アヤメはジニーへと視線を向ける。
半身を薄い赤で塗装し、鮮やかさを増した姿も、視線を向けられる側からすれば生き血を啜って美しさを保つ吸血鬼に他ならない。
「仕事は終わった。帰ろ」
「……」
言い、手を差し出すアヤメ。
ジニーも応じるべく右手を伸ばし。
「…………」
「ん、どうしたの?」
「……いや、大丈夫」
一瞬の逡巡を経て、伸ばされた手を受け取った。
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