始まりはいつも突然
夢と自由。そして銃と戦争の国、アメリカ。
世界最大の国家を形成する大陸の一角、マンハッタン島。
約一六〇万人にも及ぶ多種多様な人種が一同に介する地は、地域ごとに異なる文化圏が隣合う人口の坩堝とも称される。彼らは朝のニュースで他者との会話に用いる種と一日の天気を確かめ、仕事や学校への舵切りを始める。
マンハッタンを三つに区画分けする際、ミッドタウンに分類されるシアター・ディクトリクト。劇場が多数立ち並ぶことからブロードウェイとも呼ばれる地区も、朝日を浴びた人々の往来が目立ちつつある。
太陽の輝きを前にして、なおも隠し切れぬ華やかへ零される一滴の汚水。道行く人々の関心が足を止める程ではない程度に集めるのは、立ち入り禁止を意味するイエローテープ。黄と黒のストライプカラーが左右を挟む制服姿の警察官と共に事件の香りを漂わせた。
複数の警察車両が止まる通りから外れ、路地裏へと続く道。
既に多数の警察官並びに検察官が保存した現場の最奥、左右を赤煉瓦造りの娯楽施設に囲まれたそこに一つの肉塊が鎮座する。
「被害者はジン・リント。年齢は二十歳でカラメル通信に勤めていたらしいです、ハンク先輩」
頭部をひしゃげさせ、人相の特定が困難な遺体を前に顔を顰めるのは二人の警官。
一人は浅黒い肌に角ばった顔立ち、眉間に刻みつけた皺が苦労の程を疑わせる男性。一桁台の冷え込み対策に着込んだダッフルコートは、ハンクと呼ばれた男の体躯を横に広く強調する。
もう一人は彼に追随して資料を読み上げる若年の警官。彼もまたダッフルコートを着込むものの、紺の先輩とは異なる明るめの土色。
名を呼ばれた先輩警官は嘆息を一つ。
年若い、前途有望な若者の呆気ない最期に。そして安易な道に手を出した者への嘆きに。
「……そして裏じゃ、ヤクの運び屋なんかにも手を出していた、っと」
ジンの亡骸が後生大事に抱えていたバッグは、彼が月十数万円の手取りで満足していた頃に購入したものである。彼の過去を知らぬ者には理解が及ばない由来の中には、当時の年収でも手が届かない純白の粉──求める者を冥府魔道へ導く忌むべきコカインが納められていた。
「同僚の話ですと、入社当初とここ一、二年では比肩にならない羽振りの良さらしかったです。週末には酒場やバーで豪快に金を使っている姿も散見されたと、付近の店で報告されてます」
「悪銭身につかず……親父が良く言っていた通りだな」
悪事を働いて稼いだ金はすぐに手元を離れるという東洋の故事。日系の父が事あるごとに言っては地道に働くことの大事さを訴えていた幼少期を思い出し、ハンクは空を見上げる。
透き通った青空は娯楽施設に挟まれた路地裏にも微かな光を与え、そこで現場検証を行う人々をも照らす。
すると、足元に意識を傾けつつハンク達へと近づく男性が一人。紺の作業着を纏った容姿に、手に持つは外気から切り離された証拠が一つ。
「鑑識か、どうした」
「はい。今回の現場にも、ヘルズ・キッチンでの麻薬取引と思われる場所での殺害現場と同様、飴と思われる物質が発見されました」
「ッ……」
鑑識が晒した証拠に、ハンクは苦虫を噛み潰す。
瑞々しい水晶を連想させる欠片。ともすれば硝子片とも勘違いしそうになる所を、鮮血で微かに溶けた端が否と突きつける。
薄桃の色味は、もしもスーパーに並んでいる所を発見すれば甘味を求めて手を出していたかもしれない。しかし、血に濡れたそれを見て食欲が出るという程、ハンクは偏食に陥ってはいない。
「また
忌々しげに、憎たらしく、口にするのも憚られると表情を歪めてハンクは言葉を紡ぐ。
「状況証拠は飴が凶器だと断定している……だったら、なんで未だに製造工場が掴めない……!」
以前、今回と同様にひしゃげた死体から鑑識が調査した際の資料によれば、仮に凶器として飴を用いていた場合、損傷から推定してバスケットボール相応の大きさが必要らしい。
それだけの質量、独力にしろどこかの企業がバックについているにしろ、材料調達の時点で足がついて当然。警察も菓子会社を中心に輸送経由などへも精力的に捜査を進めている。にも関わらず、犯人の足取りは一向に掴めない。
更に言えば、欠片の飛散具合から一回ごとに飴を製造する必要があり、明らかに予算の高騰を招く。わざわざそこまでせずとも、素直に市井でハンマーなりを購入すれば済む話。
迂遠、という印象が脳裏を掠める。
「ヘルズ・キッチンでの被害者は皆がニューヨーク・シンジケートの構成員と取引相手……相も変わらず、世間は飴殺しを正義の味方と持ち上げてますよ」
影のかかる顔を和らげようと、後輩は冗談めかして口を開く。
飴殺し。
数か月前からマンハッタン島を中心として活動している犯罪者で、狙う相手は麻薬関係者に加えて汚職政治家や警察からも追われている犯罪者。ワイドショーで悪と刷り込まれる類の人間ばかりを狙って犯行を繰り返している。
その努力も実ってか、世間では飴殺しを正義の味方として賞賛し、あまつさえ英雄視している節さえもある。
「他方で警察は碌に働きもしない脳ナシ揃い……公僕叩く時は饒舌なもんですよね、テレビ屋ってのは。全く嫌になっちゃいますよ、ハンク先輩」
「……チッ」
「あ、どこ行くんですか」
ハンクは舌打ちを一つ。
ダッフルコートを翻すと、後輩を置き去りにして路地裏を後にする。
必要以上に足をコンクリートへ叩きつけているのは、自身の苛立ちを外部に吐き出す手段を求めてか。伝わる振動に更なる憤慨が湧き上がるも、衝動を抑え切る手段をハンクは持たない。
それでも、背後の後輩へ向けた言葉の棘が彼自身へ注がれていないのは、ある種の奇跡とも呼べた。
「奴が殺しまくるせいで碌に事件の深堀も出来ん。表面上の犯人殺害なんて結果だけ出されても、根本の大本が捕まえられないんじゃ意味ないんだよ」
「はぁ……」
「これで飴殺しを正義なんて言うのは、それは口封じを望む連中にとっての正義だ」
吐き捨てる言葉に怨嗟と鬱憤を乗せ、ハンクは後輩よりも一歩早くテープを潜る。
ストライプカラーの先は幾らかの報道機関と野次馬、そして意に介さんとばかりに道を急ぐ人々で構成されていた。
質問攻めにせんと迫りくるマイクを手で払い、ハンクは後輩を連れて陽光を浴びる。如何に寒風は遮れると言っても路地裏の構造上、日の光の大部分が遮断されるとなれば寒さが勝るというもの。
抑圧から開放されたかのように背伸びをし、背骨が快音を鳴らす。
「お、ハンクおじさん。おはー」
「ん?」
警察官へ向けるには軽く、軽薄にも思える声音にハンクは紺のダッフルコートを翻す。
振り向いた先、黒地に蛍光緑のラインを走らせる自転車に乗りながら手を上げていたのは一人の少年。足丈を余らせた燈色のツナギに画材が垣間見えるバックを背負い、前後反対に被ったキャップには英文字のジェイを刻みつけている。
快活な笑みを注ぐ少年に怪訝な顔をする後輩とは対照的に、ハンクは険しかった眉間を幾らか解きほぐした。
「ジニーか。今日は休みじゃなかったのか、学校?」
「知り合いですか、ハンク先輩」
親しげな態度に首を傾げる後輩の言葉に首肯すると、ハンクは掌を向けてジニーへ声をかけた。
「彼はジニー・レデル。チャールズんとこの養子だ」
「どうもー。未来のダヴィンチこと、ジニー・レデルでっす。せっかくですし、サインの一つでも要りますか?」
「いや、俺は芸術とか良く分かんねぇので……」
親指で自身を指差す少年に、後輩は両手を振って否定の意を示す。
否定されたことで気を落とすジニーであったが、ハンクに肩を叩かれたことで再び顔を上げた。
「で、学校は休みじゃなかったのか。それとも補習か」
「俺が単位落とす訳ないじゃないっすか。今日は街で被写体でも探そうかなーって」
「自主練か」
そうそう、と首肯するジニー。
天気は快晴。外で絵を描くには確かに適した天候なのかもしれない。時折吹き抜ける寒風が肌を突き刺すものの、彼の服装ならばまだ耐えられる範疇とも取れる。
そこまで思案し、ふと小さな疑問を氷解すべく、ハンクは口を開いた。
「そういえば、チャールズの奴の調子はどうだ。最近は品評会への準備で顔も碌に合わせちゃいねぇんだ」
チャールズ・レデル。
ハンクとは古くから付き合いがあり、チャールズ&リビルド美術館を経営する館長でもある。普段から入場料を五ドルとどこで利益を上げているのか友人としても不安になる価格で経営している彼は、近々開かれる品評会への準備に忙殺されていると聞き及んでいた。
尤も直接連絡を取ったのではなく、又聞きに近い形であったのだが。
品評会のことはジニーにも伏せられているのか、頬を数度掻くとバツの悪そうな表情を浮かべる。
「あぁ、品評会っすか……それに関しては俺も知らねぇんすよね。なんか、見慣れない人にも協力を仰いでるみたいって程度で……」
「そうか、それは悪かったな」
謝罪を口にすると、これ以上足止めするのも悪いとハンクは手を振る。
促された意味を理解したのか、ジニーも深い言及は避けて自転車を漕ぎ出した。
曲がり角を右折して姿を消すと、ハンクは小さな溜め息を一つ零す。
「どうしました、先輩?」
「餓鬼が夢を語る裏ではヤク絡みの事件なんて……刑事なんて志すもんじゃねぇな、と再認識しただけだ」
誰かが綺麗な世界を見続けるため、積極的に世界の汚泥を見続ける必要のある仕事。しかも凄惨極まる死体の姿など煮凝りもいいところ。
もしも少年の頃にまで戻れるのならば、将来の夢を考え直すように促しているに違いない。
ハンクは一つの仮定に決着をつけると、幸せを逃がすべく再度溜め息を漏らした。
「被写体、何にしよーかなー」
自転車を快適に飛ばし、ジニーは辺りを物色していた。
摩天楼とも称される煌びやかな光源の世界もブロードウェイの銀幕世界も、昼間から一枚の絵に起こすのは困難を極める。頭上を見上げてみても、広がるのは青を飲み込む人工のビル群。味気ないにも限度というものがあろう。
ならばと自然に目を向けようにも、ハドソン川を描くのは流石に気温が低すぎる。過酷な大自然というには生温いにしても、都会に生きるジニーが苦を覚えるには充分。
学校が休日という事情も重なり、歩道には一目しただけで学生と判断可能な人も散見される。
人物画、というものも悪くはない。見知らぬ他人では数時間の拘束が精々。ラフが完成すればいい程度だが、このまま無為に時間を溶かすよりは幾倍も生産的といえる。
「と、なれば……お次はぁ、っと」
人によっては嫌悪を抱いても可笑しくない眼差しを研ぎ澄まし、ジニーは人波を品定めした。
マンハッタン島はアメリカでも最大の都市圏人口を有し、その中には当然アメリカ国籍を獲得していない外国人も多数居を構えている。地域ごとに異なる文化も形成されており、幾つか区を跨ぐだけで常識が変化することも珍しくない。
肌色も白く、黒く、もしくは黄色。
自由自在の選り取り見取り。既存の世界に新たなナニカを創造する身としては、願ってもない環境である。
「うーん、なーんかちげぇな……あれはっ……駄目だ、今日はあぁいうのって気分じゃねぇ」
過剰な自由を与えられると人は選択することが出来なくなる、という現象は往々にして散見される。自由度の高いオープンワールドゲームをプレイしても、誰かに指図を受けなければどこへ向かえばいいのかも分からないといった類の人種もこの例には適しているだろう。
ジニーもまた同様の現象に基づき、被写体を指定することが困難となっていた。
自身の作風を確立できていれば、また話も違ったかもしれない。
「ダヴィンチといえば、やっぱモナリザだが……とはいえそんな美人が街中をホイホイ歩いて堪るかって言われたらそれまでだよなぁ……
てか、それじゃパクリだしなぁ」
数多の模倣を重ねた果てに唯一性を確立する、という方針には肯定的であるものの偉人の軌跡をそう簡単になぞれるのならば苦労しない。
赤信号を前に自転車を止め、横断歩道を横切る多数の自動車越しに先を観察する。
養父が巨額の広告費を投じた品評会を宣伝する旨を乗せたトラックが視界を横切った。
その直後。
「……」
異質。
人種の坩堝とも称されるマンハッタンに於いてなお、一際意識を引く存在感。もしくは若輩ながらも芸術を志すジニーだからこそ感じ取れるナニカが、その認識を下したのか。
人波に呑まれても可笑しくない小柄な体躯に黒のショートボブ。日本のアニメーションから取り出したような黒衣のセーラー服を身に纏い、鋭利な真紅の眼光が何処とも知れずに正面を睨みつける。
信号の切り替わりに連動し、待機していた人々が次々と歩みを進める。
彼ら彼女らが醸し出す雑多な音色など耳目にも入らぬと、ジニーは体内に迸った未知の題材への衝撃に心を奪われていた。呆けて口を開く様は滑稽でこそあれど、瞳を覗くことさえ叶えば奥で燃え広がる情熱を垣間見ることが出来るだろう。
知らず、右手が固く、固く握られる。
「……ぁ」
信号が点滅し、赤と青が逆転する。その半瞬前に少女がジニーの脇を通過し、気づけば背後へと移り変わっているではないか。
ジニーは慌てて自転車を反転させると、大口を開けて喉を枯らす。
「おぉい、そこの君ッ。日本人っぽい君だよ、君ッ!」
「ん……」
呼び止められた自覚があるのか、少女が濡れ烏の髪を揺らして振り返る。
距離が近づき改めて少女を見れば、初雪を彷彿とさせる肌色は日本人形をも連想させた。そして体躯も小柄で、中学生程度なのではないかと疑問さえも抱く。
「何か用?」
「あ、あぁ……そうだそうだ。俺はジニー・レデル、令和のダヴィンチな芸術家だ」
「そう。それじゃ」
「おいおいおい、ちょっと待ってッ」
自己紹介を聞くだけで踵を返そうとした少女を食い止め、ジニーは両腕を広げる。
「もしかして不審者に見えちゃったりしたなら謝るけど、そういうんじゃないからね俺ッ?!」
「そう。でも私には関係ないから」
「そうか、目的を言わなきゃ信用できないかッ。こう……俺は君を被写体にしたいんだけど、もし時間が空いてたら協力してくれないかなッ?」
「被写体……」
少女はジニーの言葉を反芻し、小首を傾げる。
いったいどのような用事で遠路遥々アメリカまで足を運んだのかは不明だが、まさか遠い異邦の地で被写体を依頼されるとは思うまい。
顎に手を当て思案する少女。
視線を上向きにしてみるが、その先に何があるのか。正面に立つジニーにも検討がつかない。
少しだけど報酬も出すよ、と親指と人差し指を合わせるジェスチャー。
そうね、と小さく呟くと、少女は真紅の瞳でツナギ姿の少年を見つめた。
「いいわ。被写体になってあげる」
凛とした、声量以上によく鼓膜に響く声音で少女は応じる。
歓喜に両手を突き出そうとしたジニーであったものの、即座に突き出された指に阻まれて感情の発露を抑えられた。
「ただし、幾つかの条件を満たせるならだけど」
「ま、それも当然だわな。いいぜ、俺に出来ることならなんだって言ってくれ」
無償で協力する物好きが早々いる訳もなし、彼女が対価を要求するのは至極当然の流れである。
「まずは一つ」
指を一本突き立て、第一条件。
「私は夜に用事があるから、今日一日しか時間を確保できない」
「完成品じゃなくてラフになるけど、それで良ければこっちも構わないよ」
完品を前提にして人物画に挑むのならば事前に話を通すのが大前提。突発的な発想で完成まで通すのは、速筆が過ぎるであろう。
だったら二つ目、と中指を立てる。
「事前の見回りがしたいから、先にこっちの用事を済ましたい」
「あれだったら俺も手伝うよ。その方が描く時間も長く取れそうだし」
相手に用事があるのは当然、ならばそれを手伝うのもまた道理。ジニーもその程度の義理を通すのに抵抗はない。
それなら三つ目と薬指。これはさっきの内容に被ると前振りする少女の表情に、微塵も変化はない。
「用事はマンハッタン島、その一地区であるハーレムを視察したい」
「ハーレム……」
少女が地区の名を呟くと、ジニーの表情に微かな影がかかる。
先程までのスムーズな交渉は途端に淀み、少年の内に宿っていた情熱に冷や水がかけられた。
言葉が滞ったことで少女も無理な注文だと理解したのか、指を折り畳み視線を落とす。
「無理を言ったみたい。だったらこの話はナシということで……」
「ま、待ってくれッ。分かった、その条件も呑むよッ!」
「……?」
踵を返そうとした少女を咄嗟に食い止めるジニーの言葉に、向ける眼差しは怪訝の色を多分に含む。
彼女を逃さんと大慌てで口にしたのが明白な上、かかった影を払拭することも叶っていない。素人に道案内を頼らねばならない程、困窮している訳でもないのだ。
「ハーレムへの道程、分かる?」
「わ、分かるよッ。一応そっちに家……代わりの場所もあるしさッ!」
「ふーん……」
信じているのか否か、何度か頷くばかりでジニーの言葉への返答はない。
自動車が往来を再開する中、やがて熟考を重ねた少女が口を開く。
「……アヤメ」
「へ?」
「私の名前。被写体の名前も知らなかったら面倒でしょ。私はただのアヤメ」
「あ……あぁ、そういうこと。確かにそうだね」
アヤメが名乗ったことで始めて、彼女の名前を聞いていなかったことを思い出し、ジニーが口元に薄い笑みを作る。熱心に口説き落とそうとした相手が何物なのかも把握していないなど、滑稽でしょうがない。
納得したジニーが手を合わせると、アヤメが嘆息気味に言葉を付け足す。
「勿論、先は見回りだから。そこを譲る気はない」
「分かってる分かってる」
アヤメとの交渉が上手くいったことで気を良くしたのか、少年は上機嫌に相槌を打つ。
なれば、続く言葉の調子もまた上向きなのが必定。
「それじゃ行くか……ハーレムへ」
麻薬と犯罪、そして退廃の街ハーレム。
ガイドブックには中東の紛争地帯よろしく旅行者が足を踏み入れてはならないと名指しで指定される、アメリカの恥部。
というのは、八〇年代までの印象を引きずるアメリカ人が抱く偏見である。
九〇年代初頭にかけて訪れた急激な再開発の波が退廃を押し流したのだ。荒れ果てた廃墟の代替として新たな住民を受け入れる新築マンションが軒を連ね、周辺地域には高級マーケットにスポーツジム、有名飲食店までもが我先にと主要スポットを制圧。瞬く間に淀んだ空気が排斥されたそこは、現在では元々抱えていた交通の便という才覚を存分に発揮し、自由の国に相応しい多様な人間模様を織り成している。
「ほら、ここがハーレムだよ。厳密にはセントラル・ハーレムとかいうんだっけ……まぁ親父からの受け売りだけど、そこら辺は」
周囲を高層マンションに囲まれた地域へ足を踏み入れ、ジニーは声のトーンを数段落として口を開く。
かつてはファイブポインツとも呼ばれた悪徳の巣窟は、今では住民の快活な笑顔が溢れていた。
地下鉄を通じて足を運んだジニーとアヤメも、ファイブポインツへ近づくにつれて挨拶が如実に増えたことを実感している。人が土地を形成するのか、それとも土地が人を招き寄せたのか。どちらにせよ、治安は大幅に改善している。
少女はいったいどこから取り出したのか、口から棒状のものを咥えて辺りへ目を配らせていた。
「ん……ありがと」
ぶっきらぼうに謝意を述べ、アヤメはセーラー服の胸元へと左手を突っ込む。
何かを求めて蠢く膨らみにジニーが小首を傾げて数秒。答え合わせだと抜き出された手には、瑞々しい赤が映える飴が握られていた。
「えっ……」
「上げる」
「え、いや……は?」
手品か。
ポケットではなく胸元からのご対面に困惑を見せるジニーは、眼前へ突き出された飴を受け取るか否か以前の段階に陥った。
好意を無下にされていると思慮し、アヤメは再度突き出すもなおも飴を掴む感触は訪れず。
「だから上げるって」
「いや、その……まず剥き出しだし……」
梱包もされてない剥き出しの飴を胸元にしまう女。それは如何な少女といえども、不審に思われても致し方なし。
ジニーの拒絶を受け、アヤメは殊更ゆっくりと嘆息。
肺の内より空気を吐き出すと、大気から冷え切った空気を取り込む。再度ジニーへと向けられた視線は、体躯差から来る上目遣いを鋭利に研ぎ澄ました代物。
背筋に微かな冷たさを覚え、少年が一歩仰け反った。
「……言い忘れてたけど、私の親……代わりの人が手品師でさ、私もそれ齧ってるの」
「って、ことは?」
「当然、そう見えただけで実際は胸元なんかに入れてない。ベトベトするじゃん……」
何を当たり前のことで誤解しているのか。
なおも答えを求めたジニーへの弁からはアヤメの呆れと、僅かな失望が滲み出る。胸元に剥き出しの飴を収納し、必要とあらば恥じることなく他者へ明け渡す奇人と思われたのだ。止む無しというものか。
供給元への不安が払拭し、少年は少女の手から飴を受け取る。
「ありがとな、タダノ」
「……はぁ」
礼を言ったにも関わらずの溜め息に、ジニーは頭上に疑問符を浮かべて首を傾げる。
ただのアヤメ。
確かに自己紹介の際、そう伝えたはずだ。
何かを含む意味合いではなく、単純にアヤメという存在であると。
ところがジニーは何をどう解釈したのか、タダノアヤメという人物としてアヤメを認識していた。そして日本での苗字と名前の関係は、アメリカに於いては反対の形で成立する。
故に親しみも込めてか、タダノ。
「もう好きに呼べばいいよ……」
既に道中で幾度も訂正したものの、同じ数だけ間違えられた事実が諦観を吐き出させ、アヤメは足を進める。
他方、瑞々しい赤の飴を受け取ったジニーは持ち手を掴んで口へと運ぶ。
途端に口内へ広がる糖類の甘い味わい。実物のイチゴを材料にすることなく、その風味を再現した企業努力は摂取した者の味覚を十全に満足させた。
「で、どこへ向かうんだタダノ。アポロシアターか、それともセントラルパーク?」
ジニーが上げたのは観光客が足繁く向かう観光地。
だが、アヤメは彼の提案には目もくれず、ただ道路に沿って直進を続けた。
「……」
「もしかして、観光目的でない?」
「一応……そういうことになる」
再度の質問への合間は数秒。
わざわざ隠す必要もないと、アヤメはジニーの問いを肯定した。
そして彼女の答えは、ジニーの目線を僅かに地面へと落とす。
「……悪いけど、入居はお勧めしないよ。ハーレムなんて」
「表向きの治安はだいぶ改善されたって、ガイドブックは書いてたけど」
「表向きは、ね」
「……?」
含みを持たせた言い振りに、次はアヤメが小首を傾げる。
しかし、その疑問が氷解するのに数分も必要はなく、偶然視線を路地裏へ注ぐだけで達成された。
人々の行き交う歩道。近頃巷を騒がせている事件からやや離れた場所故に人員を削減され、警察の見回りも減少傾向にある中、路地裏で向き合う二人。
自分は悪いことをやっていますと自己紹介するかの如く周囲を警戒する片割れ。その目は酷く充血しており、痩せこけた頬は身に纏うロングコートすらも超重の重みを錯覚させる。
一方でもう片方は相当に場数を踏んでいるのか。堂々とした佇まいで両手をジャケットの内へと突っ込み、口元にも笑みを浮かべている。
「……」
「……!」
二人とアヤメ達の距離は優に数十メートル。口を開いた所で意味を理解するには高度な読唇術を要求される。
それでも、病院で手配される錠剤めいた物体がジャケットの男から痩せこけた男へと手渡されれば、何を意味するのかは容易に理解できる。
「麻薬取引」
断定とも取れるアヤメの言葉を、唾棄するようにツナギ姿の少年が肯定。
「そ。元々の治安の悪さを幾ら改善しても、根幹の部分はどうしようもない……
悪い奴らだってそういうベクトルでは頭がいいんだから、警察の間隙を突いて取引をやるってもんさ」
ジニーの投げやりな口調には諦観と、やり場のない怒りが籠っている。
少なくとも、出会って十数分程度。会話を交わした数も二桁に上る程度のアヤメにも理解出来る程に明確な怒りが。
敢えて少女の前に出て、腕をかざす必要はない。
正義感に溢れる人物であらば話も変わるが、アヤメは取引を目撃しても平常心に近い調子で歩みを続けている。下手に干渉しようものならどうなるか、強く思い知っているジニーは無意識に安堵の吐息を漏らした。
「……悪い、変な話で観光を台無しにしたな」
首を振ると、ジニーは努めて平時の口調で謝罪を一つ。
「気分転換に、俺が似顔絵を描いてやろうか?」
ジニーの言葉にアヤメは頭上を見上げ、そして視線を頭一つ分は大きい少年へと注ぐ。
「そう、ね……それじゃ、そろそろお願いしようかしら」
「お、これはいい返事を聞けましたな。
こっから近くにアトリエ代わりの場所があるし、そっちに向かうか」
ジニーが指差した先には、無数の人波を超えて一つの美術館が並んでいた。
ギリシア建築を連想させる大理石の石柱が屋根を支えながらも玄関の役割を兼任し、素材の白がややくすんで見えるのは大理石とは別に歳月の積み重ねも影響しているのだろう。
距離が近づくにつれて、装飾として彫られた杖に巻きつく蛇の文様が目立ち始める。一つの杖に一匹か二匹、指し示す意味合いが異なる二種が混在しているのは意図的なのか。注視すれば二匹のものにのみ翼が付与されている辺り、完全な無知による所業とも違うのだろう。
掲げる看板に刻まれた名は、チャールズ&リビルド美術館。
「ここさ、俺の親代わりの人が経営していてさ。アトリエの一つを使わせて貰ってんだわ」
「ふーん」
関係者用の裏口から入り、警備員にも快活な挨拶を返すジニーの様子は、語る言葉に真実味を帯びさせる。
通路を往復する従業員を何度か見送り、やがてジニーは懐から鍵を取り出してドアノブへと差し込む。
開錠の音を合図に開けた先から鼻腔を刺激したのは、酩酊感を覚えるシンナーの刺激臭。
突然の臭気にアヤメは腕で鼻を塞ぎ、ジニーもツナギで塞ぎながら大慌てで室内へ跳び込んだ。
「うッ……!」
「やっば、換気し損ねてる……!」
「あ、ちょっ……!」
換気が不十分な室内へ跳び込むなど自殺行為。
静止を訴えかけたアヤメであったが、数秒と経たずに換気扇を回されてしまえば閉口せざるを得ない。
プロペラが時間を置いて高速回転を開始し、室内の淀んだ空気を排出する。やがて鼻腔への刺激も弱まり、アヤメとジニーも裾を鼻から離した。
「あっぶな……そういえば、昨日は眠くて画材を碌に片づけずに寝てた気がする」
「変な臭いがする部屋なんて何が起こるか分からない。気をつけなさいよ」
「ごめんごめん、変な心配をかけさせちゃったみたいだな」
頭を掻いて謝罪を述べると、ジニーは付近のスイッチを押し室内を照らす。
露わとなった部屋は、汚れていた。
空のペンキ缶がそこら中に転がり、その内の幾つかから漏れた多彩な彩りが床を濡らす。同時に目を引くのは足元に散見する紙。乱雑に扱われている辺り、失敗作に該当するのだろうが産みの苦しみも同等に漏れ出ている。壁に張りつけられているものもまた、完成と呼ぶには抵抗を覚える出来栄えなのは気のせいか。
三〇平方メートル近い、美術館の一角としては上等な面積を見習いとも称すべき少年に与えた結果が、足の踏み場も怪しい空間としてアヤメの眼前に出現していた。
「ささ、お客様。こちらへどうぞ」
椅子の上に平積みされていた雑誌を落とし、ジニーは被写体の座る場所を確保。
促されるままにアヤメが座れば、眼前にはキャンパスと見比べる芸術家見習いの姿があった。
「それで、私はどんなポーズを取ればいい?」
「自然体で、座ったままの姿勢を維持させしてくれればそれで充分」
ジニーが握るは、軽い力で黒が際立つ芯が柔らかめの鉛筆。
簡単に筆を走らせては、被写体である少女をキャンパス越しに眺めて確認。そして再度白紙へと向き直して線を足す。
膝の辺りで両手を組み交わして真正面から少年を見つめるアヤメは、肌の白さや髪型も相まって和製ホラーのヒロインか女性の幽霊に現れそうな影のある魅力を醸し出していた。
芸術とは見えているものを再現するのではなく、見えないものを見えるようにすること。
パウル・クレーという画家が残した言葉を脳裏に浮かべ、ジニーはアヤメの容姿のみならず、その奥に潜むナニカへ目を凝らす。
「ん、んぬぬぬんんんん……!」
「何それ。呻き声?」
目を見開いてアヤメを見つめる姿は、鉛筆とキャンパスを備えてなければ通報されても可笑しくない異質さを醸し出す。唸る声を付与してしまえば、そこにあるのは奇人の類。
だからこそ、扉が開く音にも気づかずにジニーは凝視し続ける。
「お、帰ってたのか。ジニー」
「んんん……ん?」
唸り声の最後に疑問符を混ぜ、背後へ振り返ると一人の男が立っていた。
黒の燕尾服を着用し、黒の手袋で両手を覆った老け顔の男性。苦労の程が垣間見える皺を顔に刻むも、眼鏡を装着した表情は温和そのもの。
男性は蓄えた白髭を左手で弄り、ジニーの絵を覗く。
「まだ絵を描いとるのか、しかもあんな別嬪さんを捕まえて。お前さんも飽きんのぉ」
「別にいいだろ、おじさん」
「おじさん……知り合いなの?」
被写体からの質問に、ジニーは鉛筆を回して応じる。
「おう、この人がチャールズ・レデル。俺の親代わりの人で、この美術館の館長さ」
「どうも始めまして、チャールズ・レデルです。別嬪さん」
「……」
ジニーの紹介に続いて恭しく頭を下げる男性へ、アヤメは静かに瞳だけを動かす。
二の句が出ない少女にどうかしたのかと掌を見せるジニー。自己紹介を促していることは明白と、アヤメは言葉を紡ぐ。
「……始めまして、アヤメです」
「アヤメさんか、いい名前じゃないか。華みたいに可憐な別嬪さんにはピッタリだ」
「お世辞は結構です」
冷たく、突き放す口調の少女につれないなぁ、と肩を竦めるチャールズは視線を再びキャンパスへと移す。
未だ整っていない、人の形へ落とし込む途上の彫像めいた状態のラフに血眼のジニーが線を引く度、少女の輪郭が一つ定まる。心血を注ぐ、という比喩表現を視覚化すればこのような様子になるのだろうと予期出来る状況に、しかして養父は嘆息を一つ。
少年の努力を水泡に帰すかの如き所作に続き、言葉を漏らす。
「芸術家の絵ではないな、これは」
「……じゃあ何の絵だよ、素人か」
流石に無視する訳にもいかず、ジニーはどこか棘の生えた言葉で返す。
「まさか。素人がここまで綺麗に線を引けるものか。
ただ、それだけ……ただ綺麗な線で描かれただけの、誰の印象にも残らない絵だ」
誰の印象にも残らない絵。平凡で、凡庸な、どこにでもある絵。
努めて養父の言葉から耳を背け、眼前とキャンパスとアヤメへ一層のめり込む。
他方で無視されている自覚を持ちつつも、チャールズは自論を続けた。
「芸術家の絵は単なる技術の結晶に留まらず、その人物の一端が垣間見えるものなんだ。
たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザ。
アレは当時のヨーロッパでは異常者の行動と呼ばれていた微笑を描いたことで、何故ここまで人の気を引きつけるのかが今でも議論の的となっておる。それは彼自身が絵画へぶつけた感情の起点であろうからの」
一度雑学に以降してしまえば延々語り続けてしまう。
年老いる程罹りがちな病にチャールズもまた罹患していることは明らかだが、意識を傾注させていたジニーの耳は右から左へと受け流していた。
アヤメが微かに視線を鋭くしたことにも、気づかずに。
「ふぅ……こんなものかな。もう動いていいぞ、タダノ」
大きく息を吐き、ジニーは背もたれに寄りかかると額に滲んだ汗を拭う。
そして床や壁と違い純白を維持した天井を覗いた姿勢で少女へ呼びかけた。
作品がひとまずの完成を見たのは彼の態度からも確定。アヤメは席を立つと、長時間同じ姿勢を維持していたとは思えない慣れた足取りでジニーの背後へと足を進める。
自身の似顔絵を罹れる経験など、少女には存在しない。
いったいどのような作品に仕上がったのか。内心で期待を膨らませた彼女を待ち受けていたのは、困惑であった。
「……?」
ラフ故に色はなく、キャンパスと鉛筆の一騎打ちの形式を取った作品は見事にアヤメの胸元から上を描き切っていた。
ショートボブの黒髪も、研ぎ澄まされた刃物の如き真紅の目つきも、小柄な体躯も描ける範囲では過不足なく完結している。
ただ。
「なんで、裸……それも背景になんか丸いのがあるし?」
「それは飴だ」
「……飴?」
言われて改めて目を凝らせば、半透明な色味をモノクロで再現しているからこその不親切はあれども、飴と印象が乖離している訳でもない。むしろ少女の背後にあるならば付随して然るべき影が乱反射している点からも、無意味な円でないことを確信出来る。
背景の正体に何度か頷き、アヤメは目つきを研ぐ。
何せ、服を着ているにも関わらず裸体を描かれた点とは別問題なのだから。
「で、なんで裸なの?」
「画伯としての第三の眼がそう見せた」
「……」
閉口するも、取り合う必要性のない意味不明な言葉とは違い、キャンパスのラフ画からは強烈に惹かれるナニカを覚える。
制作者の人格と創作物に大きな隔たりが生まれることは、高度に発展した情報社会に於いては基礎にも等しい。その実例が、眼前に突き出された形となっている。
「そうだ、連絡先教えてよ。完成したら上げるからさ」
ラフ画を渡す、というのが当初二人の間で交わされた約束であったが、ジニーとしても望外の出来に惜しいものが心中より湧き上がっていた。
折角だから完成させたい。
ラフに一層のブラッシュアップを重ね、完全な形で日の目を見せてやりたい。現段階で再現し切れていない真紅の瞳も初雪を彷彿とさせる肌も、濡れ烏の髪も塗り抜いて正しくタダノアヤメという人物画を完成させたい。
しかし、肝心の被写体は画家の欲求など知らぬと端的な拒否を示す。
「大丈夫。というか、その状態がいい」
「えっ、でも……」
「別に口説き文句だとかは思ってないから」
拒否されてなお食い下がろうとしたジニーだが、思わず口にしていた言葉の別の意味を指摘され、自覚がなかったことも相まって頬を僅かに朱で染めた。
他方、表情筋に変化を見せぬままアヤメは続ける。
「そっちは集中してて気づいてないかもしれないけど、時間がもう押してるから」
指摘の下、壁面に備えつけた電波時計へ意識を向ければデジタル文字で六時を若干超過した時間を表示していた。夜に用事がある人ならば、もう少し早めに帰宅して準備を整えて然るべきであろう。
養父からの嫌味じみた小言から眼を背けるべく、意識的に外界の情報を遮断していたジニーにとっても誤算な時刻に、反射でアヤメへの謝罪が口を出る。
「ごめん、遅くなり過ぎたッ。ちょっと急いで纏めるわッ!」
鉛筆を容器へ片づける手間さえも惜しんで手放し、ラフ画を取り出すとアヤメへと突き出す。彼女の口調も重なり、梱包する余裕などありはしないとの判断は早い。
剥き出しのまま突き出された紙を暫し見つめ、少女は優しい手つきで受け取る。
「ありがと。大事にする」
「そ、それはよかった……!」
慌てた反動か、軽く息の上がっていたジニーは空気を求めて口を大きく開く。
故に、不意に飴を突っ込まれたと気づいた時には、既に口中へ半ばまで侵入したタイミングであった。
「ん……?!」
「メロン味。嫌いだったりする?」
瞬時の出来事のため色を確認する余裕はなかったが、口に広がる味は確かにメロンを模した代物に相違ない。
ジニーが視線をアヤメへ向ければ、彼女もまた胸元から取り出した鮮やかな赤の飴を口に含む瞬間。イチゴ味として手渡されたものとは異なる色味な辺り、リンゴ味といった
ところか。
「案内と絵、ありがと。縁があったらまた会いましょ」
「こっちこそ急な願いを聞いてくれて感謝するよ。観光、楽しみなよ」
「ん」
踵を返してロングスカートをはためかせ、背後のジニーへ右手を上げて感謝を表明。
そのまま取っ手を捻って廊下へ向かう際も、扉が閉じて後ろ姿が見えなくなるまで姿勢は変わらなかった。
無機質な音の後、ジニーは足元に散乱しているペンキ缶へ視線を落とす。
「……片づけでもするか」
作品が一定の完成を見せた途端、もしくは少女がいなくなった途端に湧き上がっていた熱意が急速に冷却されていくのを自覚する。
それでも何もしないという訳にもいかず、せめて散らかっているアトリエを掃除する方向へ舵を切る。
そう決断した直後であった。
「さっきの別嬪さんはもう帰ったのかい」
「おじさん……あぁ、時間が押してるんだって」
白髭を蓄えた男性が、アヤメが通り抜けた扉を潜る。
アトリエへ足を踏み入れたチャールズと視線を交わすこともなく、ジニーは足元のペンキ缶を掴むと端へ運んだ。
別に養父のことが嫌い、という訳ではない。
世界でも有数の知名度を誇るメトロポリタン美術館と然して離れていない場所に美術館を構え、幅広い層に芸術と触れ合って貰うがために入場費も破格の安さに抑えて運営している身。業界の厳しさも人一倍理解しているが故の態度なのだろう。
一種の親心と分かっていても、感情が素直な咀嚼を許さないというだけの話。
「それは大変じゃのう」
「そう、向こうも大変でこっちも大変」
「これは不始末の問題じゃろ……」
溜まった空き缶や散乱した紙の掃除は、普段から小マメに行えば労苦も少ない類のもの。ジニーの味わっている苦労は、日頃の横着が蓄積した結果に過ぎない。
自慢げに語る苦労などでは、断じてない。
「今日も使いを頼みたいんじゃが」
「残念だけど自転車は地下鉄付近に置いてきてるんだわ」
「自転車ならこっちで出すぞ。というよりも、チャイナタウンに運んで欲しいから、地下鉄で帰る時に拾ってくればいい」
明日からは再び学校へ向かう必要がある。
ならば今日の内に自転車を回収するのに、益があっても不益はない。
ジニーは曲げていた背筋を伸ばし、チャールズと向き直す。
「はぁ……分かったよ、おじさん。で、今日は何を運ぶんだ?」
「それをお前が知る必要はない……なんてな。
今度チャイナタウンで野良の展示会をやるらしくてな、それに応募する作品のための粉末塗料が足りないって話だ」
「何それ俺知らねぇぞ?!」
自分の預かり知らぬ催しに驚愕の声を上げるジニー。美術学部に通っている身に、先生経由にしろ目敏い生徒経由にしろ展示会の話題が一切上がらないなど不自然極まりない。
彼の疑問を氷解させるべく、チャールズは肩を竦めて言葉を選ぶ。
慎重に、ジニーが不信を抱かぬように。
「それは……今回のは貧困層が芸術に触れるために知人が開いたものでな。そいつから出来るだけ学校に通えてない子達の作品を中心にしたい、って話を聞いてたんだ。
だからお前にも話してない……幾ら芸術家の絵ではなくても、簡単に入賞されては見せる顔がないしの」
「なーるほど……」
チャールズの弁に呟きで応じ、ジニーは顎に手を当て思考に耽る。
養父であるチャールズ・レデルは、多くの人に芸術と触れ合って欲しいと常々思案している身。その対象は富裕層のみならず、瞬間瞬間を必死に生きるため躍起にならざるを得ない貧困層をも含んでいる。
夢を実現させるための支援。近々行う品評会の準備が忙しいにも関わらず、知人に手を貸す理由としては充分か。
「分かった分かった。今からなら往復で九時は回らんだろうしな」
「おぉ、それは良かった」
「た・だ・し。次に機会があれば、俺にも特別枠みたいなのを用意しといてくれよ」
「……話は、つけてやろうかの。それで勘違いが収まるなら、安いものよ」
「へっ、言ってろ」
時計の針が七を指し示し、夜の帳も陽光をより強く拒絶する。
ブロードウェイのミュージカルにジャズクラブで行われる本場ジャズ。一〇二階建てのエンパイア・ステートビルから覗く必要もなく、地上からでも摩天楼の膨大な輝きを島そのものが内包する強烈な熱気と共に全身で堪能できる。
とはいえ、如何な摩天楼といえども光の届かぬ未開の地は存在する。
超高層ビルが立ち並ぶウォール街から程近いチャイナタウン。再開発の手から零れ落ちた地域は今も、貧困層が肩を寄せ合って赤煉瓦造りのアパートメントを凝視している。
チャイナタウン自体は仕切り壁で部屋を細分化した超低価格の違法建築が横行していた時代よりも大きく発展しているが、その恩恵に皆が預かっている訳ではない。万を超す住民の全てを救済するなど、それこそ神の御業に他ならないのだから。
「えーっと、次の道を右に曲がって……それで?」
どこか刺々しい視線を四方から浴び、ジニーは手元の携帯端末を操作して目的地の検索を図った。
途中で地下鉄を下車し、以降は駐輪場から回収した自転車を漕いでいたためか、液晶に照らされた顔には幾らかの汗が浮かんでいる。
冷え込む時分を想定してツナギの上から厚めのジャケットを羽織り、背には養父から手渡された包みを入れた安物のバック。氷点下の世界での活動を意識してコーディネートしたジニーは、白い吐息を漏らして周囲へ首を捻った。
養父から運び屋紛いの仕事を頼まれたことは一度や二度ではないものの、スラムと呼ばれた時代から変化に乏しいチャイナタウンにまで足を踏み入れたことは始めてである。
建物の側面に備えつけられた非常階段は地銀が剥き出しかつ錆も目立ち、何より最初の建築物を模したのか見慣れない者には同じ形としか思えない。その上、窓から零れる光源さえも絞られている。
「右に曲がった後に左で直進……あぁ、めんどくさッ」
吐き捨てる言葉に引き受けたことへの後悔を詰め、自転車に力を注ぎ込む。
幸いにも地図アプリは彼我の距離が着実に近づいていることを点と線で表現し、ペダルを踏み込む度に線が短くなる。
水の滴る音が微かに鼓膜を震わす中、無機質なアナウンスが目的地への到達を告げた。
「ここがおじさんの言ってた倉庫か……」
周囲に立ち並ぶ集合住宅よりも一回り大きく、大型車両を直接乗り入れるためにジニーの数倍大きな扉を取りつけた倉庫。元々は再開発に必要となる物資を貯蔵するために建築されたらしい倉庫に、今度の展示会の関係者が待機している。その人物に荷物を渡せば、晴れてジニーのお使いは完遂となる。
そう、後は人を見つけて荷物を手渡すだけ。
「……」
にも関わらず、ジニーはこれ以上倉庫へ足を踏み出すことに抵抗を覚えていた。
終わりを目の当たりにしたくないと、最終回を前に視聴を躊躇う心理ではない。もっと単純で、根源的な、漠然としながらも脅威そのものを認識している感覚。
通路を吹き抜ける一陣の寒風が、背筋を丸まらせる。
生命の危機にすら直結する零下の世界がジニーの背中を強引に押し込み、僅かに開いていた扉の隙間へと駆け込ませた。
「おぉ、さぶッ……」
手袋を億劫がったことを後悔し、ジニーは吐息でかじかんだ両手を温める。
倉庫の内は光源の一つもなく、目を凝らさなければ眼前にあるものさえ認識不可能。ジニーは人気のない状態に不審を抱きつつも慎重に、一歩一歩確かめるように足を踏み出す。
停電でも起こしたのか、音を立てて足元の水が弾ける。
地面を叩く水滴の音が等間隔で繰り返される。
鼻腔をくすぐるは、仄かな血の香り。
第六感が心中で最大限の警鐘を掻き鳴らし、レッドアラートが心象風景を塗り潰す。
危険だ、今すぐ引き返せ。まだ間に合う。今ならまだ、形成されつつある違和感の正体を視界に納める必要がなくなる。
「ふぅ……ふぅ……!」
気づけば、呼吸に震えが混じっていた。
既に足は主の意志を無視して彷徨い、口は意味のある言葉を紡ぐのを拒否している。
ナニカが、近づいてくる。
水溜まりを叩き、剥き出しのコンクリートを叩き。
床を擦る音が壁を反射し、ジニーの恐怖を徒に煽る。
「ッ……!」
肺を上下させ、小刻みに呼吸を重ね、目だけは反復横跳びを激しく繰り返す。
忙しなく視線を動かしていたためか、側面の窓経由で雲に隠れた月が露わとなり、柔らかな明かりが倉庫内に光を届けたのに一早く気づいた。
そしてジニーは、邂逅する。
「……」
濡れ烏のショートボブ。日本のアニメーションから取り出したセーラー服。頭一つ分以上低い体躯に、地面を擦るは異常なまでに肥大化した鈍器──瑞々しい赤に鮮血を塗りたくったキャンディ。
異質な得物こそ握っていれども、それは正しく今日ラフ画を描いたばかりの少女であった。
「タ、ダ……ノ?」
恐怖を混乱で混ぜ合わせた脳内で、何とか絞り出したのは彼女の名。
他方で呼ばれた少女はジニーの呼びかけに応じることなく、代わりに左手で頭を数度掻く。
「なんでここにいるの……ったく、昨日は殺し損ねで今日は目撃者って……またガーナにどやされる」
月光に照らされた少女が顔を顰め、奥歯を不快に噛み締める。
「なにを、言ってるんだ……それに、その、手の……?」
「ん。あぁ、これ?」
軽々と持ち上げ、鮮血に濡れ形状を歪めた得物が月明かりの下に晒される。
糸を引く血が不快感を煽る音を立てて地面を離れ、幾らか付着していた肉片をも落下。重心バランスが崩れているにも関わらず、少女の手際は極めて自然。
気づけば、ジニーの眼前に二つの赤が突きつけられていた。
「舐めてみる?」
小首を傾げて問われても、舌を突き出す気概はない。
鼻腔をくすぐる甘ったるい香りと細胞が拒絶する、死の香り。
極端な二種の混ざり合った匂いがジニーの鼻に耐え難い痛苦を与え、気を抜けば視線を離しかねない。
「そりゃ舐めないよ……ね」
「え」
生まれた間隙は莫大。
背後へ回っていたアヤメがバッグの中へ手を突っ込み、チャールズから手渡された包みを奪い取る。
そして頭上へ放り投げると、得物を一閃。
軽快な音と共に包みが弾け、内から白い粉が粉雪よろしく舞い散った。
「はぁ……やっぱりこれ」
中身の正体など分かっていたと、アヤメは嘆息し。
「──」
理解が条理の外と化したジニーは思考を停止させる。
呆然とした少年の表情に、何を思ったのか一筋の涙が零れた。
その様子を眺め、少女は一つの結論へと至る。
右手の得物を手放し、再度手を握れば二つ目の巨大キャンディが出現。先程より一回り以上は小さいものの、それでも成人男性の胴体程度の体積は口に含むことを生理的に拒絶する。
「ねぇ」
アヤメが声をかけ、意識を曖昧にしていたジニーが振り返る。
そして腹部より伝わる強烈な吐き気。
「ッ……ぁ」
痛みに痙攣する視線を下へ落とせば、腹部にキャンディが直撃していた。細かな手首のコントロールが成せる技か、衝撃の大部分が内部で炸裂しており、足が微かに揺れる程度でたたらを踏むこともない。
ただ、意識を急速に手放す中で少女が誰かと会話を始めようと端末を叩く音が鼓膜を揺さぶった。
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