3-1 僕がダメ人間である理由
小学校低学年の、夏のことだったと思う。
午後に体育の授業があったその日、喉がカラカラに乾いていた僕はとにかく冷たい飲み物が欲しくて、帰宅するなり冷蔵庫を開けた。ひんやりとした空気のにおいを嗅いで涼んだのち、キンキンに冷えたお茶を飲もうと思ったのだ。
その時ふと、冷蔵庫の端に置かれたオレンジジュースのパックが目についた。
瑞々しいオレンジの絵が描かれたそれは小学生の僕には大変美味しそうに見えて、つい手が出てしまって、親の許可なく200mlパックを一本こっそり飲み干してしまった。
その日の夜のことだ。
「何で勝手に飲んだの! お母さんがいいって言ったの?」
「あの……でも、冷蔵庫のものは飲んでいいよって――」
「言ってない! 何でそんな嘘つくの? お母さんがなにか悪いことしたの?」
僕は思いっきり叱られた。
もちろん暴力を振るわれた訳ではない。
その日の晩ご飯もちゃんと出てきたし、夜には「お母さんも怒りすぎた、ごめんね」と謝ってくれた。
だけど、僕は自分が悪いことをしたのだという押し潰されそうな罪悪感に苛まれ、その日は一日中ぐずぐずと泣きはらしていた。
そして僕は学んだ。冷蔵庫のものを勝手に飲んではいけない、と。
だから、たとえ冷蔵庫に美味しそうなヨーグルッペやリンゴジュース、ヤクルトが並んでいても手を出さないようにしていた。
家での言いつけは絶対だ。
守らなければ母の機嫌を損ねてしまう――
そんなある日、母親に不思議そうに聞かれたのだ。
「最近ジュース飲まないけど、どうしたの?」
「え。でも……勝手に飲んじゃダメって」
「あんたのために買ってきてるんだから、好きに飲んでいいに決まってるじゃない。なに言ってるの?」
母は呆れたように溜息をつき、僕に目線を合わせて言いつけた。
「家族なんだから、遠慮なんかしちゃダメでしょ?」と。
こういうことは度々あった。
僕が友達をつれて帰宅したら「聞いてない! 勝手に知らない人連れくるなんて、悪い子だったらどうするの!」と叱られ、僕は友達を泣く泣く玄関先で追い払った。
友達相手にドアチェーンをかけて「いまお母さんの具合が悪いから……」と嘘をついたのは今も記憶に残っている。
そうして僕が友達を連れてこなくなったら「あんた友達いないの? 苛められてるんじゃないでしょうね?」と心配される。
朝、母が起きなかったので勝手に食パンを焼こうとしたら「危ないでしょ!」と手を叩かれ。
大人しく待っていたら「あんたも自分でやってみるとか考えないの? いつまでもお母さんに任せきりで……」と呆れられる。
ただ、僕が母親に愛されていなかったかと言えば、そうじゃない。
むしろ逆で、母は僕を蛇のように睨み、叱りながらも、目に涙をためてひどく悲しそうな顔を浮かべるのだ。
あなたは悪い子だ。
けど悪いのは自分の責任でもある。ごめんなさい、と。
母は怒りながら悲しみ、そしてよく泣いた。
僕のことを本気で心配し、愛してくれていた。
――だから母の期待と機嫌を損ねないようにした。
母に「好きなお菓子を買っていいよ」と言われた時、僕はいつも二つ三つほど選んで提示する。
うすしおポテチと苺チョコレートと、渋いのど飴。
どれが良いか? と。
それで「どれでもいいよ」と言われたら、健康に良さそうなのど飴を選ぶ。その方が家族みんなで食べれるし、母親が喜ぶからだ。よって僕はいまでも飴玉が大好きということになっている。
子供とはそういう存在でなくてはならないと思う。
テストで90点以下を取ったことがない。
宿題だって忘れることはまず無いし、忘れ物も毎朝二回は確認するので滅多にない。
習い事――当時の僕は音楽教室と英語教室に通っていたのだけど、成績が一位から揺らいだこともない。英語教室での発表会では優秀賞まで貰ったし、女子が多かった音楽教室で唯一の男子として指揮を執ったこともある。
期待に応え続ければ、先生や母親に褒められる。
出来の良い子、真面目で言うことをよく聞くイイ子と褒められ、もっと期待を寄せられる。
そのことに、気を良くしなかったといえば嘘になる。
偉い人が認めてくれる、親が認めてくれるというのは僕のステータスであり安心感の元だ。
けど、同時に――期待、とは、地雷のようなものだとも思う。
失敗してはいけない地雷。
相手の機嫌を損ねてはならない爆弾。
人生のレールから外れてはいけない頑強な壁。
僕が真面目な優等生であればあるほど、僕はそのレールから外れてしまう自分を想像して、怖くなる。
でも、その全ては僕のために行われていることなのだ。
クラスメイトから「よくそんなに勉強できるね。我慢してるの?」と聞かれることがあったが、僕には何かを我慢したという自覚もない。
将来のために頑張るのは、悪いことじゃないし……
失敗や過ち、ミスに恐怖するのも当然のことだ。
逆に、僕には教師を怒らせたりイタズラする生徒達の気が知れないし、密かに嫌悪していた。
先生に叱られることに、恐怖を感じないのだろうか?
落ちぶれていくことを恐れないのだろうか?
イタズラとか暴力沙汰とか、冗談であっても出来るはずがない。
……確かに、たまに僕の内側で暴れる衝動――椅子を持ち上げてクラスメイト達の頭をかち割りたくなったり、衝動に任せて人間をボコボコに殴りたくなったり――というのはあったけれど、それらは僕の精神力が未熟であることから起きる妄想なのだ。
間違った性癖であり、頭のおかしな衝動であり、抑えるべきものだ。
だから僕は僕自身に「僕は頭がおかしい」と言い聞かせ、狂った性癖に抗い、弱い自分を直すべきだと空想で手にしたハンマーを振り下ろして真面目になる。何度も何度も。
それでも上手くいかなければ自分の太股をつねり、ボールペンでぐりぐりし、おかしな衝動を抑えながら勉強し、家でも学校でも表向きはニコニコしている。
それが良識ある一般的な中学生像であり、そうでなくては生きてる価値が無い。
けれど僕は、大罪を犯してしまった。
高校受験の失敗。
理由は分からないけれど、数学の問題を解き始めた直後から猛烈な腹痛に襲われた。
解答用紙は全部埋めたものの、結局吐いて倒れてしまい救急搬送されてしまった。
原因は今もわからず、医者から精神的なストレスと診断された。
なにかの間違いではないかと何度も聞いた。
だって本物の病気が存在しなければ、僕は心の弱さに負けてしまったことになり、言い訳が立たなくなるではないか。
そこから両親の離婚問題が重なり、両方とも家に寄りつかなくなり、その原因となった僕は引きこもり――腐ったゾンビのような生活が始まった。
……底辺から引き上げてくれた師匠には、いまでも感謝してもしきれない。
とはいえ、僕の本質はなに一つとして変わっていない。
どんなに失敗しないよう心がけても、必ずミスをしてしまうバグだらけの人間。
人様の期待に応えたいのに応えることが出来ない、……世界一ダメな人間というのが僕であり、そのダメさを表に出さないよう、いまも必死に水槽のなかで息継ぎを繰り返す。
ダメ人間としての皮が剥がれないためには、努力を重ねるしかない。
高校生に紛れ込んだ十八歳の僕は、学年成績首位の優等生でありクラス委員長であり、文化祭の準備くらい平然と行いつつ頼まれたシナリオを完成させるくらいのことは、笑顔のまま出来て当たり前でなくてはならないのだ。
だというのに、僕の心はイヤイヤと腐ったようなワガママを叫び続ける。
愚かな自分に嫌気が差す。
どうして神様は、僕をこんな弱い人間に生んでしまったのだろう。
そう思いながら、中間試験が始まった。
……いつも思う。
理想の自分どころか普通の人にすらなれない自分が、間違いだらけな自分が、僕は恨めしいほどに大嫌いだ。
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