或る人形の恋

彼方

或る人形の恋

 帳を下ろした夜の空を星の瞬きが飾っている。すぐ傍では上ったばかりの白い月も、飾られた夜にご満悦とばかりに弧を描く。

 仰いだ先、並ぶ住宅の狭間に覗く美しい夜を、私は恍惚としながら見上げていた。こんなに美しい景色が見られるなんて。初めて訪れた場所に対する不安などとうに消え去り、眼前に広がる宝石箱への陶酔だけが胸を満たす。郊外に位置する住宅地の中でもここ一帯は電灯も少ないようで、遮る光の無い夜空は本当に美しく、星一粒の瞬きにも手が届きそうに見えた。けれど、はしゃぐ子供のように伸ばした手は当然のように空を切り、握った掌に掴めたのは虚ろな夜の欠片だけ。

 もし、私の手もあなたのように大きかったのなら、星の一つも掴めたかしら。あなたと一緒だったなら、夜空の瞬きがもっと美しく見えるだろうに。深まる夜に満たされた暗い細道が私の孤独を後押しする。会いたかった。一刻も早く、あの人に。


 街の片隅にある路地からは、その公園が良く見えた。敷地は建物の合間にすっぽりと入れ込んだように狭く、鬱蒼と生い茂る樹木の壁に囲まれている。枝葉の見下ろす地面は芝生に覆われ、その上には赤いブランコと砂場、そしてベンチが一つだけ。公園というよりは小さな森の様な場所だった。

 午後になると柔らかな日差しが注ぎ、風にさざめく木々の緑を鮮やかにする。伸びる枝葉の合間から降りる幾重もの木漏れ日が照らすのは、その下を散歩する老夫婦や、赤子を連れた若い両親。そして、芝生の上を駆けまわる子供達の姿。日々の織り成す幸福を切り取ったような小さな世界を私はいつも見ていた。温かな、優しい世界。かつては私もそこにいて、幸福の温かさに包まれていた。

 けれど、気づいた時には道路を挟んだ向かいの暗い路地に私はいた。幸福の温もりを身体はまだ覚えているのに、目に映る景色だけがあまりにも遠く、眩しいものと化していた。そうして私は、絶望とは決して暗いばかりではないのだと初めて知った。

 それでも日々は過ぎていく。いつしか幸福の温もりも冷め、私は対岸の景色に眩しさを覚えることもなくなっていった。

 ―――あの人が現れるまでは。

 中肉中背にくたびれたスーツを着て、いつも昼過ぎになると公園のベンチに座っている男の人。仕事の休憩時間なのか、シンプルな弁当包みを携えていた。けれど、包みを開けるところを私は見たことがない。きっと食後の散歩なのねと自分で勝手に納得し、気にも留めていなかった。愛想の無い包みよりも、彼の眼差しに私は目を奪われていた。

 芝生ではしゃぐ子供達の、溢れるあどけなさを見つめる眼差しの優しさ。きっと子供が好きなのだろう。ゆるりと細められた目に宿る博愛の感情に、私は久しかった眩しさを覚えていた。ああ、なんて優しい人なの。子供を見つめる眼差しの優しさを想うたび、薄れていた幸福の記憶も蘇った。

 あの眼差しに見つめられたい。もう一度、人の優しさに触れたい。

 それが、あの人への想いの始まりだった。


 早く会いたい。溢れそうな感情を押しとどめ、私は夜道へ足を進める。あの人の待つ場所へ向けて。会えたら何を話そうか。私をもっと知ってほしいし、あの人をもっと知りたいと思う。だから家でのんびりと過ごすのも良いと考えていたが、今は二人で散歩に行きたいとも思ってしまう。この美しい夜は、きっと二人だけの永遠の思い出になるはずだから。二人の未来に思いを馳せていると、弾む心に合わせて歩む足も軽やかになっていった。

 そうして暫く進むと住宅に挟まれた狭い公園の前に出た。三方を囲む生い茂った木々の中に、砂場とブランコが一つずつある。電灯に照らされたブランコの鮮やかな赤が夜によく映えていた。まるで初めて出会ったあの公園のようだ。私は小さく笑みをこぼすと、懐からひび割れたスマートフォンを取り出して電話をかける。コール音が一回、二回―――そして聞こえた雑音交じりの息遣いに、私の胸は歓喜で溢れる。あの人だ。


 『もしもし……』


 声に混じる僅かな震えは、緊張しているからだろうか。けれど、初めて女の子が来るのだからそれも当然かもしれない。少しでもこわばりが解れるように、私は努めて優しく、そして可愛く返答する。


 「わたし、メリーさん。今、公園の前にいるの」


 そこまで言うと、通話は途切れた。やはり緊張していたのだろうか。随分と性急な様子だったのは、もしかすると片付けでもしていたのかもしれない。それほどまでに、来訪を楽しみにしていてくれているのねと、真面目さに覗く可愛い一面を私は嬉しく思った。

 早く会いたい。再び進み始めた足は少しだけ早く、アスファルトをリズム良く打つ。短く硬い靴音が鳴り、塀を跳ね、屋根を上って夜の空へと溶けていく。自分だけの音楽会を楽しみながら、私は暗い夜道を進んでいく。

 そうして幾分か経った頃、今度は真新しいアパートの前までたどり着いた。入り口の傍に掲げられた看板には三丁目とある。道の端にある街灯の光の下で立ち止まり、私は辿ってきた道を振り返った。降り注ぐ光の更に奥、漂う夜の向こうに薄っすらと先程の公園の入り口が見えている。結構進んだつもりだったが、実際はそうでもなかったらしい。突きつけられる現実を前にして、高揚した気分がじりじりと削がれていく。落とした目線の下で両手を握っては開き、そしてまた握ってはため息をつく。人の子供ほどしかない小さな手だ。いや、手だけではない。スカートの下に隠れている足も、そして身長にも同じことが言える。あまりにも小さな身体に、何度目かの辟易を重ねた。あの人を想うこの心は大人にも負けはしないのに、と憂いに膨らむ頬に掌を添える。柔らかさの無い肌は、まるで死人のように冷たかった。

 子供よりも幼く、冷たい肢体。持って生まれたこの身体が恨めしくてたまらない。けれど、仕方の無いことだ。この身は血の通った肉の身体ではなく、冷たく空虚な樹脂で出来ているのだから。

 そう、私は人間ではなく人形だ。大量生産された子供の為の遊び相手。樹脂の身体に金の髪、その上に西洋のドレスを纏って誰かの為の可愛さを振りまくだけの存在。それが私だった。けれどもその存在理由に不満など無く、着飾った私を見て楽しみ、夢中になる子供の姿に至上の幸福すら感じていた。けれど、人間の子供は成長する。身体が大人に近づくほど、心も距離も離れていく。それは人間としての正しい成長であり、たかが人形風情に止められるはずも無かった。

 そうして見向きもされなくなった頃、私は捨てられた。暗い路地の一角にある山と積まれたゴミの中に。まるでかつての私のように、誰かの為の可愛さを身に纏ったその姿で、子供だった人間は私を要らなくなったと放り捨てた。幸福の温もりを残したままの私を。またいつか迎えに来てくれる、そんな希望が薄れていくにつれ、空虚な身体に絶望をため込んでいった。堪らなく悔しくて、堪らなく寂しかった。その感情を知るまでに、夜と孤独を幾度も繰り返しながら。

 ―――思い出すと、どうしても気持ちまで暗くなってしまう。私はスマートフォンを取り出し、通話ボタンを再び押した。一つ目のコール音が途切れ、雑音の奥から粗い息遣いが聞こえてくる。


 『も、もしもし』

 「私、メリーさん。今、三丁目のアパートの前にいるの」


 聞こえてきた彼の声に、沈んでいた気分はいとも簡単に浮き上がった。途切れた電話の余韻に耳を傾けつつ、そんな現金な自分に笑みをこぼす。だたの応答でも、あの人から生まれたものならば吐息の一つでも嬉しくなる。理由なんて簡単だ。それは全て私に向けられたもので、あの人が私を見つけてくれているという証なのだから。

 人よりも小さな人形の私。不要とされ、雑踏の隅に捨て置かれ、朽ちるのを待つだけだった私―――あの人だけは見つけてくれた。徐に歩み寄ってきたスーツ姿も、見つめてきた優しい眼差しも、頬の汚れを拭ってくれた指先の感触まで覚えている。私をみて、あの人は短い吐息を二つ零し、目を細めた。


 『君はとてもかわいいね』


 初めて聞いた声は、あの眼差しのように優しく穏やかなものだった。両手で抱え上げた私にあの人の顔が近づく。薄い瞳に、緊張で固まった私が写り込んだ。


 『君みたいな子が傍にいてくれると良いのに』


 呟き程度の小声と共に、私は繊細な手つきで降ろされる。ちらりと横目に見たあの人の手に装飾品の類は無かった。そのまま向けられた背中が随分と寂しそうで、心なしか肩を落としながら去っていくあの人が、どうしてか自分と重なって見えた。

 ねえ、もしかしてあなたも寂しいのかしら。

 街灯から外れた暗がりを一人歩く。灯りの無い暗闇は、独り過ごした路地裏を嫌でも思い出させた。誰も来ず、見向きもされない暗い場所で、数え続けた夜と孤独。それは、あの人も同じなのかもしれない。愛おし気に子供を見つめるあの眼差しは、何度孤独な夜を見つめてきたのだろう。

 けれど、それももう終わりだ。辿り着いた二階建ての寂れたアパートの前で、私はスマートフォンを取り出した。

 通話ボタンを押し、ただひたすらに待った。鳴り続けるコール音に静かな祈りを重ねる。届いて欲しい。声を聞かせてほしい。お願いだから、私を見つけて。


 『……もしもし』


 コール音が途切れ、雑音の向こうから声が聞こえた。粗い息遣いは、やはり緊張からだろうか。少し硬い声には、けれどもあの人らしい優しさと穏やかさがあった。


 「私、メリーさん。今、あなたのおうちの前にいるの」


 少しの間があり、電話は切れた。間際に短い吐息を二つ残して。

 胸の奥が絞られる感覚に、私は両手を握りしめて強く胸に押し当てた。目頭が熱くなる。もし人間だったなら、きっと涙を流していたに違いない。

 己惚れても良いのだろうか。彼も待っている、私を求めてくれていると。

 気付いたら駆け出していた。一息にアパートへと向かい、二階へ続く外階段を最大速度で昇っていく。それでも中々二階には上がれず、小さな手足がもどかしかった。やっとの思いで昇り切ると、そこから今度は歩き始める。一歩ずつ、ゆっくりと。少しずつ縮まる距離を噛み締めるように。

 それでもいつかは終わりが来るのだ。時間を掛けて辿り着いた左端の角部屋で、私は立ち止まる。頭上にあるドアノブを見つめて一つ喉を鳴らすと、地面を蹴って跳び上がった。ドアノブを掴み、自重に任せて捻り回す。鍵がかかってるのではいう懸念は、軽い感触によってすぐに裏切られた。

 ギィ、と錆びついた音がして、扉と壁に隙間が生まれる。私は廊下に降り立つと、空いた隙間を覗き込む。中に光は無く、見渡す限りの闇以外には何も見えない。部屋を間違えたかしら。試しにスマートフォンを鳴らせば、闇がノイズ混じりのメロディーを鳴らした。

 大丈夫、あの人はちゃんとここにいる。確信を得ると、扉の淵に手を添えて僅かな隙間を広げていく。じっくりと、暗闇が少しずつ口を開けていった。

 人形一体分が通れる程に開くと、私は躊躇いなく隙間に身を潜らせる。中はやはり暗く、入ってしまえば自分すらも見えなくなった。両手はおろか足元も見えず、感覚だけを頼りに上り框を超え、板張りの床を進んでいく。足を踏むたび音が鳴り、暗闇に溶けて消えていく。

 暫く進み、薄く開かれた扉を抜けると、どこかの部屋に出たらしい。足音の広がり方から広い場所と分かる。声を出してみようかと思ったが、ふと思い返してスマートフォンを取り出した。手探りで画面を点け、通話ボタンを押す。耳元でなるコール音。そこに、ノイズ混じりのメロディーが重なった―――背後から。

 混乱が思考の停滞を生み、一瞬の間をもたらす。コール音が途切れ、通話状態特有のノイズが聞こえた。


 「……やあ、メリーさん。来てくれて嬉しいよ」


 ノイズ混じりの粗い音に重なる明瞭な声。それが背後からと知るや否や、周囲に光が溢れた。反射的に両手が顔へと上がり、反動でスマートフォンがどこかへ落ちる。重い音が響き、床が僅かな震えを足元に伝えてくる。けれどもあまりの眩しさに身動きも取れず、私に出来たのはただ立っているだけだった。

 けれど、暫く経つと眩んでいた目も段々と馴れてくる。頃合いを見計らって両手を下ろすと、徐に瞼を上げていった。

 すぐ目の前にはテーブルと一脚の椅子。その奥には三方を囲む壁が広がっている。壁は黒やベールオレンジ、緑や赤といった細かな色に彩られ、まだ僅かに眩む目で見たそれを、最初は細かな塗装だと思った。だが、視界が明瞭になるにつれ、私は自分の考えが誤っていたことを知った。


 「な、なによ、これ」


 壁を塗り分けていたのは、三方を埋め尽くすほどに張られた大量の写真だった。隠し撮りらしいそれらの被写体はどれも幼い子供で、背景は芝生や砂場、そして赤いブランコばかり。映る子供の顔も、背景の場所も、私には全て見覚えがあった。


 「可愛いだろう。僕は昔から子供が大好きでね。可愛い子を見ると独り占めしたくてたまらなかった。けれどこの子達を連れてくることは出来ないからね。写真で我慢してたんだ。最近の小型カメラって性能が良いんだよ。……でも、それも今日で一先ず終わりだ。君が来てくれたからね」


 喜びを端々に滲ませたあの人の声がする。ノイズ越しに聞けば嬉しくなり、想いを募らせていた筈の声。

 けれどノイズが消え、明瞭になったその声は、聞き覚えの無い誰かの悍ましい声でしかなかった。


 「捨てられてた人形の情念なんて半信半疑だったけど、言ってみるもんだね。来いって言った傍から電話が来て、笑いが堪えられなかったよ」

 「騙してたの? 最初から」

 「騙してたなんて。君が勝手に来たのを歓迎してるだけなのに、酷いなぁ」


 声が更に近くなり、耳元に熱い息がかかる。途端、足元から怖気が這い上り、硬い筈の肌が粟立った気がした。逃げたかった。けれど、恐怖に身体が凍り付き、振り返ることすら出来ない。ただ立ち尽くし、無防備に晒したままの背筋に、ねっとりと嘗める視線を感じた。

 その瞬間、理解する。振り返ったとしても、その先に私の欲した眼差しはないのだと。


 「僕は本当に嬉しいんだよ。本物の子供は独り占めできないけど、子供の様な君なら話は別だ。本物の子供じゃないから何をしても構わないし、捨てられてた君が何処に行こうが誰も気にしないからね」


 両肩を掴まれる。優しくも、有無を言わせぬ手つきだった。―――いや、違う。私はとうに捕まっていたのだ。この男の眼に。そして、声に。

 追い求めていたものに、私はいつから追われていたのだろう。何処で間違ってしまったのか。

 きっと、人の優しさを求めてしまった時から、私は誤ってしまったのだ。


 私は引きずり込まれていく。路地よりも暗い場所へと。

 もう、誰かに電話をかけることは無い。

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