【職員室の香り】

 シックな部屋に濃く、芳醇なコーヒーの香りが漂っている。


 先週、駅から数分歩いたところにある喫茶店で買ったものだ。こだわりがあるわけではないが、インスタントのお湯を入れるだけのコーヒーよりドロップコーヒーのほうが香りが強く長く残る。

 コーヒーがにおいとりに使われる理由がよくわかる。


 僕の心を落ち着かせる効果も兼ねていて、少し雰囲気を出せばすぐに喫茶店と同じ居心地になるだろう。


 そして、久しい友人が訪ねてくるという緊張が、ブラックコーヒーに混ぜる砂糖のように溶けていく。


 ふいに、ドアがコンコンと来客を知らせた。どうぞ、と返事をすると、高身の男が爽やかな笑みを浮かべながら入室してきた。


「お、職員室の懐かしい香りだ」


 たしかに職員室はいつもコーヒーの香りがした。それを今ここで思い出すのか。


 男は軽い足取りで僕の前までやってくる。大きなデスクを挟み、僕は椅子に座ったまま、彼を見上げる――思わず笑ってしまった。


「人の顔を見て笑うなよ。久しぶりだな、白部」

「ごめんごめん。久しぶり、早瀬」

「元気そうでなによりだけどな」


 コーヒーでいいか、と尋ねると、自分でやる、と言って湯を沸かし、インスタントココアを淹れて早瀬は僕と向かい合ったすぐ近くのソファに座った。


 僕はデスクの上のカップの取手に手をかける。


「白部もコーヒーデビューしたか……」


 遠い目をして彼は言う。


「なにそれ。僕も別にブラックを好んで飲むわけじゃないよ」

「ブラックはやばいだろ」早瀬は眉をひそめる。「砂糖が入ってると思いこんでぐいっと飲んだブラックコーヒーとか地獄だぞ」


 彼は重度の甘党だから、ブラックコーヒーを飲もうとする時点でやめたほうがいいのかもしれない。


「コーヒーの好みは人それぞれだし、早瀬は苦いのを地獄とし、甘いのを天国と考える。それだけじゃない?」

「そういえば高校のときも同じようなこと言ってたな。先生の服についた匂いについて」

「よく覚えてるね、そんなくだらないこと……」


 早瀬は冗談めかして、くだらないとか言うなし、と笑いながら言った。


     ◇◆◇


 小学校も中学校も高校も、職員室のドアを開ければ最初に鼻を刺激された。


 出入り口で学年とクラス、名前を言って、用事のある先生の名前を出す。


 職員室に目的の先生がいないことがわかり、近くのデスクにいた白衣姿の女の先生は僕に「かがり先生になにか?」と尋ねた。

僕はこの先生を好かない。保健医であるのにその刺々しい話し方と吊り目が怖くて具合が悪くても保健室に訪れることができない。


 篝先生というのは、高校のときの担任だ。詳しく話すのも面倒なので、呼び出されました、と応えて苦笑した。嘘ではない。


 僕は呼び出された。朝のホームルームのあとに、時間があるとき職員室にくるようにと言われたのだ。


「残念ながら今は不在ですね。学年クラス名前を」

「あ、えっと、一年——」肩に誰かの手の感触がして、振り返ると、出席名簿を持った篝先生が僕を見下ろしていた。


「白部? 来ていたのか。こっちだ」

「あ、はい」


 篝先生は僕をガイダンス室という名の取調室のような蒼白の個室に連れて行った。この部屋は主に進路相談などに使われるらしいが、だいたいは生徒指導だといわれている。この部屋に入っていくところをクラスのムードメーカーなんかに見られたなら、教室中に噂が広まる。


 ――あいつ、先生と密会してる! 何をしでかしたんだ? そういう奴だったのか?


 幸い、痛い視線を感じることはなかったので、たぶん誰にも見つかっていないはずだ。


「白部、文理選択と志望校はまだ決まらないのか?」先生と向かい合って座るなり、そう問いかけられた。


「そうなんですよねぇやっぱり苦手と向き不向きといいますか。……ってそんなの呼び出してまで言うことじゃないですよねまだ十一月ですよ。それに、ちゃんと考えてますから」

「そうだね。今決まっていないとしても、こうしてこんな部屋に生徒を呼び出したりはしない。じゃあ自分がなんで呼ばれたかわかってるのか」

「わかんないですけど」


 しらっと素直に答えると、先生の目尻がぴくっと動いたような気がした。


「ンなわけないだろ。心当たりはあるはずだ」

「わかんないですね」

「噂のことも?」

「噂? 噂で生徒を呼び出す……。けっこう飛躍した噂なんですかね」

「お前が言う言葉ひとつひとつが怪しくて仕方がない。ということで単刀直入に訊く。左手を出せ、白部」


 数分前よりかなりシリアスな空気に包まれた個室。まさに取り調べを受けているような気さえした。僕はやはり素直に左手を差し出す。


「手相占いですか?」

「白部の左手に刺青があるっていう噂が耳に入ってきてな……」


 僕の渾身のボケを無視された。腕をまくられて、僕は自分の手から視線を逸らす。


 そう、僕はそのとき初めて、左腕に薔薇の刺青があることに気がついた。毎日この模様が濃くなっていっているような気はしていたが、あることが普通すぎて、異常だとは思わなかった。つまり慣れてしまったのだ、刺青のある左腕に。


「これは、なんだ? いくらお洒落といえど刺青は――」

「なんでしょう、これは」

「は? お前何言って――」彼女の言葉をさえぎって、不意にドアをノックする乾いた音がした。先生は長いため息をついた後、少し待っていろ、と席を立った。


 ドアが完全に閉まったのを確認して、僕も深く息を吐いた。すでに、人間の手とは思えない姿に変貌した彼女を見て。


「おい、アリエス。お前僕の手に何してくれてるの」

「あれは紋章。わたしの同盟を結んだ人に印字されるの」

「それは見ればわかるよ。一時的に消すことはできないのか?」

「いま、そんなにヤバイ状況なの? わたしにはきみがかなり怒っているような気がするんだけれど。あ、先生に不良だと思われて内申点がもらえないとか?」

「内申点の発想はなかったけど、とにかく趣味が悪いから消せないのなら見えないように工夫してほしいと言っているだけだよ」


 興味なさげにうようよと動き回るアリエスの陰で、僕の左腕がぴくっと反応する。

 まずい、とアリエスが呟いた。


「じゃあこうしてあげるから、あとでわたしのお手伝いすると約束して」

「……ん、覚えておく」


 ガチャ、とドアが開いて、篝先生が戻ってきた。


「待たせたな。さて、言い訳でも聞こうか」

「そうですね」


 僕は先ほどアリエスにお願いしておいたことを思い出す。


 左腕の刺青の端に触れる。僕はそこから薔薇を剝がしていく。「はっ!?」


 篝先生は刺青のシールを貼っていたことにたいそう驚いていたが、すぐに頭を押さえて深いため息をついた。


「お前なあ……」

「すいません、剥がし忘れてました」刺青のシールの下に、人間らしい肌がのぞく。

「いつまでも中学生気分とか夏休み気分とか、すでに冬休み気分とかでは困るからな」と言い残して去っていった篝先生。


 僕は「すいません」ともう一度謝って、自分の肌をさすった。

 久々にこんな人間らしい肌を見たな……。


「アリエス、ありがとう」


 すると一瞬で自分の肌には薔薇の刺青が浮かぶ。アリエスに事前に頼んでおいたのだ。紋章の上に、もう一度人間らしい肌を重ねて、紋章はシール加工して貼り付けるように、と。


「うまくいったかい? それはよかったねぇ!」

「助かったよ」


 教室に戻ると、早瀬は僕が篝先生に呼び出されたことを知っているようで、「大丈夫だったか~?」と近寄ってきた。


 篝先生は怒ると怖い、怒らなくても怖い先生として学校中に広まっている。だからそんな先生に呼び出されたとなれば、ただのクラスメイトでも心配するのだ。


「ちょっと進路のことで相談しただけだよ」

「あ~ね」


 早瀬は納得したように肩をたたいた。


「白部は大学どこいくんだよ?」

「まだ決めてない」

「ん~、どこらへんとか大まかにさ」

「大まかに……。まあ、首都圏は視野に入れてないよ」

「え、なんで?」

「だって……」


 そこで言うのを辞めた。以前紬に話したら、反感を買ったからだ。考え方の違いなのだが、首都圏には多くの有名難関大学がある。この高校の生徒なら、首都圏の大学を目指すのがふつうなのだ。


「だって? なに? 批判とかしないから言ってよ」本当かよ。

「僕の成績じゃ、どこも無理そうだよ」

「そんなことねえだろ。模試の成績は良いじゃん。別に理由があんだろ?」

「…………僕は首都圏が好きじゃないんだよ。田舎育ちだからね」

「好きじゃない? どういうこと?」

「く、空気が濁ってるんだよね、都会」


 よほど嫌そうな顔をしていたのか、早瀬に爆笑された。「濁ってるって面白いことを言うんだなあ」


「俺からしちゃ、都会はいろいろあって最高なのに」

「人それぞれだな」


 うんうん、と大げさにうなずく早瀬。人生の選択肢は一つじゃないぜ、とかなんとか偉そうなことをほざいていた。


     ◇◆◇


「そんな白部がまさか首都圏の大学の研究室にいるんだもんな」


 懐かしそうに、早瀬はココアのカップに手をかける。「首都圏というか、まあ、神奈川だからね。海が近いから空気は濁ってなかったよ」

「なるほど?」


 僕と早瀬はしばらく懐かしの高校生活の話で盛り上がった。

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