失敗

 僕は父親が嫌いだった。だが今となっては、嫌うことも恐ろしく、彼に逆らってはいけないと、全身に叩き込まれていた。


 あの電話、間違いなく、母と紬の近くに父親はいた。電話の後、二人に接触。理由はおおかた想像できるが、おそらくは揉めて、アリエスがをしようとしたのだろう。


 僕の肌を奪っていない黒猫状態の彼女はいわばただの猫。無力なのだから。


 僕が叫ぶと、それは二駅先の彼女にも間接的に聞こえたらしく、僕の肌は人肌色に戻っていったけれど。


 その晩、彼女は帰ってこなかった。



     7


 翌日、授業を終えたらすぐに帰宅すると、母が待ち構えていた。そう、僕を待っていた様子だった。


「ただいま」顔を上げずにそう言った。


 母は右手にスマートフォンを持ったまま、僕に「おかえり」と返す。


「いつもこの時間なの? 随分早いのね」


 嫌味なのか、ただの感想なのか声質からはわからない。


「今から紬の学校に紬を迎えに行ってほしいのだけど、時間大丈夫?」

「は?」


 一瞬、何を言われたかわからなかった。いや、聞こえた。ちゃんと。だが理解ができなかった。


「どうして僕が迎えに行かなくちゃいけないんだ」

みつるさんが倒れて入院したっていうから、私は今からお見舞いに行くわ」


 僕はビクッと体を震わせた。

 充さんとは、あの父親のことだ。未だに連絡をとっているのか。


「倒れて入院って」

「検査があるから、一週間くらいだそうよ。でも、紬が一人になっちゃうからって」

「まさか預かる気なの」

「だって可哀想じゃない。きっとひとりでは何もできないわ」


 可哀想だとか言いながら、どこか嬉しそうなのが鼻につく。一週間とはいえ、紬と一緒にいられることがそんなに嬉しいのか。


「紬は中三だよ。もう子供扱いするには大きすぎる」

「あのねちさと。離婚したとはいえ、協力って大事なのよ」


 母にそう諭され、当の本人は、私は病院に行かなくちゃ、とそそくさとバッグを持って家を出て行ってしまった。


「あれ、僕もしかして紬を迎えに行くっていう……」


 いつのまにか決定事項になってた。中学校って何時に終わるんだっけ。もう帰る時間じゃないか? 家からの距離は……バスは……。


 僕は記憶を遡らせると同時に、スクールカバンを肩にかけたまま、家を飛び出した。





 市内バスに乗って三駅ほど。紬の通う中学校前にバスは停車した。


 ちょうど、チャイムが鳴っていた。時刻は十七時を回っていた。下校のチャイムだった。


 僕は校門の前の端っこでさも『私はここにはいません』という雰囲気で気配を消し、紬が出てくるのを待った。


 数分後、彼女はひとりで現れ、僕はすぐに名前を呼んだ。


「あれ、兄さん。どうしてこんなところにいるの?」

「父さんが倒れて入院した——」紬は驚いたように眉を上げた。「——だから一週間くらい、紬をうちが預かるらしい」


「えっ、でも、それ、お父さん了承してるの? そんなことしたらお父さんに怒られるかもしれないよ」

「今母さんが病院に向かった。父さんが許可すれば大丈夫だけど、ともかく返事を待つ」


 浮かない表情だったが、彼女は、わかった、と呟いた。



 母が帰宅したのは十九時過ぎだった。父親と面会して、元気そうであったと話した。


 仕事中に急に苦しみだし、ぶっ倒れたのだそうだ。原因はわからず、検査のため一週間の入院だという。


 紬に関しては、不本意そうに「頼んだ」と言われたらしい。


 母は張り切って料理を作り、久々の息子娘共に食べるご飯を楽しんでいたが、僕はというと、胃がキリキリして仕方なかった。


 昨日のことが気がかりで、母と紬の会話も嘘らしく聞こえて、口に入れた夕飯は味がしなかった。


 自室に戻ると、黒猫姿でアリエスが現れた。


「アリエス……」


 すると彼女は何食わぬ顔で「なにぃ〜? どしたのご主人様ぁ?」


 どしたのじゃないわ。昨日は帰ってこないしなんか変なこと起きたし。


「昨日、二人のこと見ててくれたんだよね」

「ん〜見てたよ」

「なんか変な男の人いなかった?」

「いたよ」

「その人、どしたの」

「ん? どうもしてないよ?」

「……本当に?」

「だって、ワタシあのとき黒猫だったよ……無力さ」


 腕が黒くなったからもしかするとと思ったが、アリエスは真面目に答える気がなさそうだ。


「まあいいや。一週間、紬を預かることになったから、別に見守ってなくてもいいよ」

「おっけー、わかりましたご主人様」


 いつも通りの彼女だ。特に心配することもないか。

 その翌日、僕は自分がいかに愚かだったかを知ることになる。



 いつものように帰宅する。

 家の鍵を開けて、家に帰ってくるのは僕が最初だ。どうせ今日は母は帰ってこないし、紬も十七時半すぎならないと帰ってこない。


 僕は課題を終わらせて、映画のノベライズ本を開いた。


 三十ページほどまで読み終えたころ。


 ピンポーン、と家のチャイムが鳴る。今日到着の商品を何か通販で注文したのだろうか。


 足元でくつろいでいた黒猫のしっぽがぴくっと反応した。


 母はお金をかけるところにはかけるから困ったものである。


 僕は本を閉じて階段を降り、玄関の扉を開けた——そのとき。


 扉の向こうに立っていた人物を確認する前に、その人物は倒れ込んだ。首に深い引っ掻き傷。溢れ出てくる血。意識を失い倒れた人物。


 それは一瞬のことだった。


 いま、何が起きたのだ?


 自分の左腕は黒く、かつてのアリエスの姿だった。黒い影、五本の長く鋭い爪。そして異臭。


 これは、アリエスがやったのか? 本当に?

 彼女はこんなに攻撃的だっただろうか。


 僕は恐れながらも倒れ込んだ人物を確認する。


 ぼさぼさの髪。前髪で目が少し隠れている。よれた白衣。ダサいジーパン。


「まさか…………」


 アリエスが攻撃し、いままさに僕の目の前で血を流して倒れているのは委員長が文化祭のときにアドバイザーとして連れてきた、研究者の佐山透だった。

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