じいちゃんの処方箋

石花うめ

じいちゃんの処方箋

「じいちゃんが亡くなった」と母さんから電話で聞いたのは、二週間前のことだった。


「もしもし。久しぶりやてー。どうしたの?」

 夜の11時。仕事から帰ったおれは、スーツのままソファーに腰掛けて電話に出た。

海斗かいと……、心して聞いてくれん?」

 電話越しの母さんの声は震えていて、鼻をすする音も聞こえる。泣いているようだ。

 嫌な予感がしてスマホを持つ手に汗が滲む。

「なに? どうしたの?」

「……じいちゃんが亡くなった」

「……じいちゃんが? 嘘やら……?」

 母さんが何を言っているか理解できない。

「嘘じゃないて」

「……信じられんわ」

「昨日の深夜から入院しとって、今朝、体調が急変したって病院から連絡があって……。急いで病室に行ったら、そのときにはほとんど意識が無い状態やった」

「いや……」

「最後まで頑張っとったんやけど、昼前には亡くなっちゃって……。もう私、おかしくなるかと思ったわ。海斗はすぐに電話に出んし」

 自分ばかり被害者面する母さんに少し苛つき、スマホを強く握る。

 目の前で身内が亡くなるなんて、心が折れかねない出来事だ。母さんが狼狽えるのも分かる。でもおれだって、仕事が大変で家族からの電話にすぐには出られないのだ。大好きなじいちゃんの死に目に会えなかった、おれのやるせなさも分かってほしい。

「——それで、亡くなる間際にじいちゃんが言っとったんやけど……」

「なに?」

「じいちゃん、『俺の遺品整理は、海斗にしてほしい』って言っとったよ」

「そういうのって、業者にやってもらうもんじゃないの?」

 母さんはため息をついた。

「あんた、いつからそんな冷たい子になったんや? 昔はあんなにおじいちゃん子やったのに。じいちゃんが『海斗に』って言っとったもんで、あんたがやるべきやら。明後日の葬式までに帰って来れん?」

 おれもため息が出る。

「仕事で休みが取れんから無理やわ。今日だって当たり前のように休日出勤やったし。そんな職場で平日に休めるわけないやん」

「休み取れんの? でも、忌引き休暇なら、申請すれば取れるはずやら?」

「そんなの取れるわけないて。うちみたいなブラック企業で」

 休みを取れと無理を言ってくる母と、休みが取れないブラック企業。その両方に怒りが湧く。

「遺品整理は母さんたちがやってくれん? じいちゃんのことは好きやけど、葬式とか遺品整理に行けるかどうかは話が別やて」

「まあ、海斗がそう言うなら私がやるけど。——あともう一つ。じいちゃん、『海斗に一番渡したいものを薬箱の中に入れておいたで、それだけは海斗が持っとってほしい』って言っとったよ。海斗が帰って来られんなら郵送したいんやけど、その場合は私が中を確認させてもらうでね」

「はいはい、分かった分かった」

 どうせ地元に戻る時間も無いのだから、母さんが郵送してくれればいいと思う。

「でも、どうしよっかなー。もしその箱の中にお金とか宝石とか高価たかい物が入っとったら、私が貰っちゃおうかなー?」

 母さんは少し意地悪な声で言った。

「中身がお金の可能性もある?」

「さあ、それはなんとも言えん。中を見てみんと分からんで。じいちゃんお金持ちやったし、お宝が入ってるかもしれんよ」

「ふーん。そんなら、帰省して遺品整理ができるように、上司に交渉してみよかな」

 イライラで震えていた声が、つい明るくなる。

「現金な人になっちゃったわ、海斗は。社会人になる前はそんなんじゃなかったのになあ……。まあ、もし帰って来られるなら、そのときまで遺品は何も触らないでおくわ」

「分かった。帰れる日が決まったら、また連絡するわ」

「はいはい。待っとるでねー」

 電話が切られると、一人暮らしのおれの部屋は、嵐が去った後のように静かになった。


「……じいちゃん、もうおらんのか……」

 思わず呆然としてしまい、寂しさがこみ上げる。

 それと同時に、意外にも少しの安心感を覚えた。社会に出て資本主義の奴隷となったおれにも、まだ大切な人の死を寂しがる心が残っていると分かったからだ。

 新卒三年目。綺麗ごとにまみれて真面目に学生時代を生きてきたおれは、社会に出て「お金が全て」という価値観を植え付けられた。合コンにいけば収入を聞かれ、友達と会えば収入のマウント合戦が始まる。もし誰かと結婚したとしても、幸せな生活を営むにはお金が必要だ。

 何をするにもまずはお金。その次もお金。それが社会人という生き物らしい。

 おれが今のブラック企業で辞めずに働いている理由も、お金が稼げるからだ。残業は死ぬほど多く、社内で日をまたぐことは日常茶飯事で、休みも取れない。しかし給料だけはいい。営業の成績によって歩合給が付くので、若手のおれでも年収六百万円は稼いでいる。

 日本という一億総貧困社会で今後も生きていくために、おれは貪欲にお金を稼ぐ。亡くなったじいちゃんからもお金をたかるのは、生きていくために仕方のないことだ。


 電話を切ってしばらく経ったが、ずっとソファーから立ち上がれずにいる。

 そういえば、じいちゃんと最後に会ったのは、おれが大学を卒業した頃だった。就職が決まったことを伝えると、じいちゃんは寂しげな笑みを浮かべて「俺が死ぬ前に一回は戻って来いよ」と冗談を言った。

 そのときのおれはまだ純粋で、「いつか地元に戻ったら、じいちゃんに恩返しがしたい」と思って東京に来たのだった。

 それを思い出したとき、じいちゃんが亡くなったという事実が重くのしかかってきた。地元に戻っても、じいちゃんはもういない。

 じわじわ漏れ出す悲しみに、胸が押し潰される。

 息が苦しくなって、気付いたら目からボロボロと涙がこぼれて止まらなくなった。

「じいちゃん……、じい、ちゃん……っ、……あああああ!」

 

 そのまましばらく泣いたら、少しは気持ちが楽になった。スーツの袖で涙を拭い、重い腰を上げてキッチンまで歩いた。いつも使っているコップに氷を何粒か落とし、冷蔵庫にある安物のウイスキーをダボダボと注いだ。これは、おれが小さい頃にじいちゃんがやっていたお酒の飲み方だ。

 冷蔵庫の前で立ったまま一口飲むと、悲しみを焼き尽くすようにアルコールが身体に沁みた。

 明日は日曜日。辛うじて休みのはずだ。今日はもう、何もやる気が起きない。シャワーを浴びるのも歯磨きもやらないことにしよう。

 再びソファーに戻り、ウイスキーをチビチビと身体に流し込む。しんみりとした部屋で一時間。コップは空になった。

 打ちのめされるようにソファーに横になっていると、そのうち何も感じなくなった。


 ポケットに入っているスマホの振動で目が覚めた。誰かから電話がかかってきている。

 画面には「三鷹慎吾みたかしんご」という名前が表示されていた。おれの直属の上司だ。

「お、おはようございます」

 電話の向こうから、怒り気味の三鷹の声が聞こえる。それに三鷹以外の声もいくつか聞こえていて、今日が休日であることを疑う。

「おい、高橋! 明日のプレゼン資料で間違っている箇所があるぞ! あと、明日からのスケジュールについて確認するから、今からすぐ会社に来い!」

「はい、わかりました」

 反射的に返事をすると、電話は切られた。

 まだ朝の7時半だ。

 ソファーから立ち上がると、頭が重かった。昨日は少し飲み過ぎたかもしれない。水を飲むためにキッチンまで歩こうとするのだが、一歩踏み出す度に頭がキンキンと痛む。

 水を飲むのは後回しにしてトイレに来た。

 着ている皺だらけのスーツを全部脱ぎ、便器に顔を突っ込んで嘔吐した。

 昨晩飲んだウイスキーの木の風味が鼻に抜けて気持ち悪い。しかし、その気持ち悪さでおれの身体は目を覚ました。

 今日はたまたまお腹にお酒が入っていたから吐くのが楽だったが、お酒が入っていないときでも毎朝嘔吐してしまう。朝起きてから出勤するまでの間に、必ず吐き気が襲ってくるのだ。仕方ないのでトイレで吐いて、少しスッキリして会社に向かう。それが日課になっている。朝食を食べても全部戻してしまうので、ここ一年くらい朝食を食べてない。

 キッチンで水を飲み、脱ぎ捨てたスーツを洗濯カゴに投げ入れた。軽くシャワーを浴び、新しいスーツに袖を通す。ワックスで髪を固めたら、鏡で身だしなみの最終確認。出社準備が整った。起きてからここまで30分だ。

 そしてタバコを一本ふかす。タバコも仕事前の習慣で、これがないとやってられない。至高の一本は儚く溶けて、ようやく出勤する心構えができた。


 家を出て、駅に向かって歩いていると、道中の公園で一人の子供が砂遊びをしていた。近くにはその子のおじいちゃんらしき老人がいて、遊ぶ様子をにこやかに見守っている。

 その微笑ましい光景を見ながら、昔のおれとじいちゃんを重ねた。


 保育園に入園する前のこと。両親が共働きだったこともあり、おれは実家のそばにあるじいちゃんの家に預けられることが多かった。

「じいちゃんじいちゃん! きょうはなにしてあそぶー?」

 玄関を開けるなりおれが尋ねると、じいちゃんは決まってこう言った。


「俺は海斗を見守っとるで、海斗は安心して好きなことしていいぞ」


 おれはじいちゃんと一緒に遊びたかったのに、見守られているだけなのは少し物足りなかった。幼いおれは、そんなじいちゃんの気を引きたくて、無茶なこともたくさんした。

 しかし、いつもそばで優しく見守ってくれるじいちゃんが好きだったのも、また事実だ。

 

 今になって、もっとじいちゃんと一緒にいられればよかったと思ってしまう。

 公園で遊んでいる、どこの誰かも知らない子供とおじいちゃん。二人の幸せな時間がずっと続きますようにと願った。

 公園を通り過ぎ、通勤電車に乗った。電車内にはカップルや家族連れ、大学生らしき男女グループが多くいて、それぞれ楽しそうに話している。平日の朝のような殺伐とした雰囲気はなく、おれみたいなスーツ姿の若者なんてほとんどいない。

 そういえば今日は日曜日だった。どうしておれは、周りの人が休んでいるときにわざわざ会社に行かなければいけないのか。休日出勤したからといって営業成績が上がるわけでもないのに。そもそも会社の人に会いたくないのに。金を稼ぐためだと思えば仕方がないが、やっぱり気は進まない。

 なんとなく現実逃避をしたくて、電車の外を流れる景色を見る。車窓に映ったおれの顔はひどく疲れ切っていた。そういえば、入社したときより少し痩せた気がする。肩が余ったぶかぶかのスーツ姿がみっともなく見える。


 電車が遅延することもなく、スムーズに会社に着いてしまった。いつものようにお腹が痛くなり、入り口の扉の前で立ち竦む。緊張で手が汗ばみ、全身に力が入らなくなる。

 深呼吸をしてから、ようやく重い扉を開けて「おはようございます」と挨拶した。出社している社員は二十人くらい。しかし、パソコンとにらめっこしていたり、電話対応をしたりしている人がほとんどで、挨拶を返してくれる人はいない。おれはまるで空気だ。

「遅いぞ高橋! 早く仕事に入れよ!」

 おれの姿を見つけるなり、上司の三鷹が怒鳴ってきた。三鷹の前でだけ本当に空気になれたらいいのにと思う。

 席に着いてパソコンの電源を入れる。パソコンが立ち上がるのを待っていると、昨日提出し終えたプレゼン資料を三鷹が持って来て、机の上にバサッとぶちまけた。

「おい! このプレゼン資料、最後の金額の合計が合ってないだろ!」

 三鷹は資料を指先で叩く。

「いえ、合っているはずですが……」

 三鷹はおれをにらみつける。

「口答えするなよ! すぐに計算し直しておれのところに持ってこい!」

 三鷹は自分の席に戻ってしまった。

 おれは机に散らばってしまったプレゼン資料を集めて、三鷹に言われた金額のところを確認した。十回以上確認してから提出しているので間違ってはいないはずだが。

 Excelを開いて、そこの計算をもう一度行う。やっぱり合っていた。

 おれは資料を三鷹のところに持って行った。

「すみません。この計算、やっぱり合っていると思いますが——」

「は? 俺が間違ってると言いたいのか!」

 三鷹はおれの手元からプレゼン資料をぶん取ると、ぐしゃぐしゃに握りつぶした。

「ですから、三鷹さんも計算し直して、確認していただけませんか?」

 三鷹はExcelを開いて、自分で計算したであろう箇所をおれに見せてきた。

「見てみろよ! 俺が正しいだろ!」

 三鷹のデータを見ると、数値の入力を一か所飛ばしているところがあった。それで最終的な金額の合計が間違っていたみたいだ。

「三鷹さん、ここの数値を入力するの、忘れています」

 おれが指摘すると、三鷹はパソコンをにらみつけて考えこんだ。しばらくして自分の間違いに気づいたらしく、バックスペースキーを長押しして数値を全て消してしまった。

「もっと早く言えよ!」

「いや、僕は言ったと思いますが——」

「資料を刷り直せ!」

 三鷹は握りつぶした資料をおれに投げつけた。「お前が握りつぶしたんだろうが!」と心の中で叫んだが、大人しく自分の席に戻って資料の印刷に取り掛かる。ここまでは生産性ゼロだ。むしろマイナスだ。

 完成した資料を三鷹のところに持って行った。三鷹はそれをぶん取って、乱暴な手つきでファイルにぶち込んだ。

「おい! スケジュールの確認をするぞ!」

 三鷹は何事も無かったかのように話し始める。自分の非を認めない、謝れない大人。それが三鷹なのだ。

「お前、来週も土日出勤できるよな! そこで納品先の店舗に挨拶しに行くから! 予定を開けておけ!」

「はい、分かりました。——あの、再来週の土日は休みになりますか? あと、できればその週の月曜日に有休をいただいて三連休にしたいのですが……」

 三鷹の眉間にしわが寄る。

「理由は?」

「地元の岐阜にいる祖父が亡くなりまして、その遺品整理やら何やらで——」

「お前、社会人だろ! スケジュールくらい自分で立てろよ!」

 身内の不幸とあってか、さすがの三鷹も引き下がった。しかし、スケジュールの確認で呼び出しておいて「スケジュールくらい自分で立てろ」と言われるとは思わなかった。

 しかし、意外と簡単に三連休を取ることができた。これで地元に帰ってじいちゃんの家に行ける。じいちゃんが大切にしていたお宝をもらえるかもしれないと考えると、遺品整理をするのが待ち遠しくなってきた。



 地元の岐阜には、ゆったりとしたのどかな空気が流れている。

 休暇申請をしてから二週間。地獄のような仕事に耐え、約3年ぶりに帰省することができたのだ。

 キャリーケースを引きずり、駅から実家までの田舎道を歩く。小さいときからずっと見てきた景色に安心感を覚える。東京で就職して地元を離れている間に、何軒か新しい家が増えていた。しかし、家の数より田んぼの数が多いのは変わっていない。


 田んぼの奥には山が見える。昔、じいちゃんに付き添ってもらって秘密基地を作った思い出の山だ。じいちゃんの気を引くのに張り切りすぎて木から落ちたとき、珍しくじいちゃんに叱られたからよく覚えている。思わず懐かしい気持ちになり、最近ずっと強張っていた顔が思わずほころぶ。


 歩きながら息を深めに吸うと、都会の空気と毎日のタバコで荒んだおれの身体に、濁りのない温かな田舎の空気が注ぎ込まれた。

 実家の玄関を開けると、リビングから出てきた母さんがおれを出迎えてくれた。

「久しぶりやてー。あれ? あんた、かなり痩せたね。シュッとしたいい男になったわ」

 久しぶりに会った母さんはハツラツとている。じいちゃんが亡くなった日は元気が無さそうな声をしていたが、母さんの中で現実を受け入れて消化できたらしい。

「……まあ、朝ごはんを食べんもんで痩せたのかもしれんわ。稼ぐために生産性を上げなあかんで、朝食を食べる時間も惜しいんやて」

 母さんを心配させたくなくて、さすがに毎朝嘔吐しているとは言えなかった。

「海斗、昔は朝ごはんを欠かさず食べとったのに。忙しそうやな」

 母さんは少し心配そうな顔をする。

「そういえば、じいちゃんの遺品整理のことなんやけど……」

「そうやった。海斗はそのために戻って来たんやったわ。まだじいちゃんの遺品には何も手を着けてないでね。ばあちゃんにも『海斗が戻って来るまで、じいちゃんの遺品はそのままにしといて』って伝えてあるし」

「そっか。そんなら、すぐ行くわ」

 キャリーケースを玄関に置いたまま家を出ようとしたおれを、母さんが止めた。

「待ちんさい。今日はもう遅いんやし、明日にしやあ。『明日海斗と、じいちゃんの遺品整理をしに行く』って連絡しとくで。あんたも東京から一日で移動してきて疲れとるやら? 今日はゆっくり休みんさい」

「ん。分かった」


 その日の晩。父さんが帰宅し、久々に一家三人そろっての晩ご飯になった。今日の晩ご飯はカレーだ。おれが長野の大学に通っていたときから、実家に帰るといつも母さんの手作りカレーが出てくる。おふくろの味だ。

「仕事はどうや? うまくいっとるか?」

 隣に座った父さんが、ハイボールにレモンを絞りながら訊いてきた。

「まあ。ぼちぼちやな」

 収入面から考えれば、一般的にはうまくいっている部類だろう。しかし、日々のパワハラのことを思ったら「うまくいっている」と胸を張って言うことはできなかった。

「久しぶりの母カレーはどう? 美味しい?」

 向かいの席に座った母さんは、まだ一口も食べていないカレーの感想を求めてきた。

 カレーを一口食べて「美味しい美味しい」と返しておく。素直に言えないが、帰省することが決まってから、母さんのカレーが食べられるのをずっと楽しみにしていたのだ。

 おれの感想を聞いた母さんは、満足げな笑みを浮かべた。

 しかし、一口食べたときに何かがおかしいと思った。カレーの味が感じられないのだ。

「カレーの味、変わった?」

 母さんはカレーを一口頬張り、「んー」と難しい顔をして口の中で味わった。

「いや、いつも通りやと思うけど……。お父さんはどう?」

 父さんもカレーを食べる。

「うーん。別に変わらんと思うが……。まあ、俺は酒の飲みすぎで味覚が死んどるもんで、当てにならわ」

 父さんが限りなく事実に近そうな冗談を言って笑う。母さんもつられて笑った。

「酒ばっかり飲んどるでね、お父さんは。それにうちらは年やから、味覚が死にかけとるんやわ。年取ると味が濃くなるって言うし」

「いや、そうやなくてさ——」

「そういえば」

 おれが「薄味になってる気がするんやけど」と言おうとしたら、母さんに遮られた。

「この前じいちゃんの葬式があったんやけど、親戚のみんな、海斗が来てないことを心配しとったに。働きすぎじゃないかって。じいちゃんが亡くなったのも、若い頃に働きすぎてた影響があるかもしれんし、海斗はじいちゃんの二の舞になってほしくないって」

「おれは大丈夫やて。——そういえば、じいちゃんはどうして亡くなったの? 若い頃のことが影響しとるって、どういうこと?」

「親戚の人に聞いた話なんやけど、じいちゃんは若い頃、製紙工場の夜勤を週七日でやっとったらしいわ。稼いだ金で車を買って、昼は車の横流しでお金を稼いどったらしい」

「それでじいちゃんはお金持ちやったのか」

「そうそう。でも、ずっと製紙工場の粉塵の中で仕事しとったもんで、喘息を患っちゃったんやって。私たち家族に喘息のことを気遣わせんように、薬で症状を抑えとったみたいやけど、ついこの前、心臓発作が起きて入院したんやわ」

「そうなんや……」

 小さい頃におれがどれだけじいちゃんと一緒に遊びたくても遊んでくれなかったのは、体調が優れなかったからだと分かった。

「——やもんで、親戚のみんなは海斗のことを心配しとるわけよ。私とお父さんも」

 母さんは真剣な顔で言った。父さんも深く頷いた。

「心配せんでも大丈夫やて」

「でも、もし何か困っとることがあったら私たちを頼りんさいよ」

「困っとることなんて何も無いわ。社会人は働いてなんぼなんやし、みんな心配しすぎ」

 普段は食欲が無くて晩ご飯もあまり食べられないが、今日だけは母さんが作ってくれた味の分からないカレーを残さず食べた。


 次の日。おれと母さんは、じいちゃんの家に行った。

 居間に入ると、ばあちゃんがテレビを観ていた。おれの顔を見て「よう来たね」と笑う。歯は何本か無くなっているが、元気そうで安心した。

 ばあちゃんは重い腰を上げて立つと、じいちゃんの部屋におれと母さんを案内してくれた。そして「わしは何も触っとらんで、海斗たちで勝手に整理してって」と言い残し、また居間に戻った。


 じいちゃんの部屋は六畳ほどの和室だ。畳の匂いがどこか懐かしい。部屋の隅に机があって、その上にいろいろな小物が置いてある。その中の缶ケースをなんとなく手に取る。開けてみると、昔の硬貨や地方限定の鉄道乗車券などが入っていた。

「じいちゃんは、いろんなものをコレクションするのが好きやったのか」

「それもあると思うけど、自分がしたこととか見たことの証を残すのが好きやったのかもしれんとも思うわ」


 机の下には三つの大きな引き出しがある。

 一番上の引き出しを開けると、三冊の分厚いアルバムが入っていた。一番上のアルバムを開くと、母さんが小さい頃の写真が何枚も貼られていた。写真の近くには達筆な文字で「一歳。初めて喋った」などとメモ書きがされている。

 それを見た母さんは、おれの横で静かに涙を流し始めた。

 次のアルバムにも母さんの写真が貼ってあった。途中から写真に父さんが映るようになり、やがておれが生まれた。二人がおれを抱いている写真の近くには「海斗、誕生」と書かれていた。三冊目のアルバムは全ておれの写真だった。離乳食を食べているおれ、秘密基地で遊んでいるおれ、庭で遊んでいるおれ。写真のおれは、どれも顔をくしゃくしゃにした全力の笑顔をじいちゃんに向けていた。

 やっぱりおれは昔から、じいちゃんのことが大好きだったんだ。じいちゃんは、そんなおれの元気な姿をいつまでも忘れないために、写真に残しておいたのだろう。


 二番目の引き出しを開けると、大量の一万円札が入っていた。一千万円近くはありそうだ。おそらくじいちゃんは、一生懸命働いて貯めたお金を、残されたおれたち家族にくれたのだ。

 しかしおれにとって最大の関心事は、もはやお金やお宝ではなくなっていた。


 ドキドキしながら三番目の引き出しをゆっくりと引っ張る。中には一つの木箱が入っていた。こげ茶色で所々カビが生えていて、年季が入っている。

「これ多分、じいちゃんが言ってた薬箱や」

 母さんが泣きながら教えてくれた。

 薬箱を両手で持って慎重に取り出す。箱は思った以上に軽く、揺らしても音がしない。

 緊張しつつ、蓋を持ち上げて開ける。中を見ようとしたが、反射的に一瞬目を背けてしまった。改めて、箱の中を見る。中には二つ折りになった一枚の紙が入っていた。


 じいちゃんがおれに残した、一番渡したい大切なもの。

 それは、手紙だった。


 そこにはほんの数十文字のメッセージが、弱々しい筆圧で記されていた。震える文字からは、じいちゃんの深い後悔と、おれへの想いが、強く滲み出ていた。

 おれは何かから解放されたように膝から崩れ落ち、声も涙も枯れて全身が空っぽになるまで泣いた。

 じいちゃん。もっと一緒にいたかったよ。

 でも、ありがとう。じいちゃんのおかげで少しだけ、おれの生き方が分かった気がする。


「三鷹さんすみません。おれ、会社辞めます」

「おい! 何言ってるんだ! 冗談だろ!」

「いえ、本気です。退職日までは全て有休を消化させてもらいます。有給の申請手続きは済ませてあります。それではさようなら」

 おれは電話を切った。

 おれがじいちゃんの遺品整理をした次の日、おれは地元の病院に連れて行ってもらい「うつ病」という診断を受けた。毎朝嘔吐してしまうのも、カレーの味がしなかったのも、全て仕事のストレスが原因だったらしい。

 そして今日、会社を辞める旨を実家から電話で伝えたのだ。

 ソファーに座り、三鷹との電話を終わらせたおれの横で、母さんが爆笑している。

「まさか本当にやるとは思わんかったわ」

「あんなクソブラック企業に人生を捧げるなんて、まっぴらごめんやわ」

「よかった。まあ、帰ってきたときの海斗の顔を見て、私はちょっと痩せ方が普通じゃないって思っとったけど」

 母さんは名探偵気取りで顎に手を当てて言った。

「心配かけたくなかったもんで、バレんようにしとったつもりやけど——」

「さすがに気付くて。母親やもん。海斗がそれに触れてほしくなさそうやったもんで、私もあんまり言わんかったけど。すぐに病院に行かせるべきやったわ。……ほんで、これからどうするの? しばらくは無職になるわけやし、じいちゃんが残してくれたお金を口座に振り込もか?」

 母さんは心配そうな顔で言った。

「いや、いいわ。そのお金は全額わが家のローン返済に使ってちょ。おれ、金には困っとらんで。それが唯一、ブラック企業に入って良かったと思うところやわ」

「代償は大きかったけどね」

 母さんは笑った。


 それからおれは、しばらく東京に戻らず実家にいた。ゆったりと過ごしながら、片手間で転職活動をした。

 おれの転職先が決まった日、母さんがお祝いにカレーを作ってくれた。恐る恐る口に運んでみると、おれが小さい頃から食べ慣れているおふくろの味がした。母さんの愛情を再び感じられるようになったことが嬉しくて、号泣しながら食べた。本当に美味しかった。



 それから五年。東京に戻ったおれは、今も転職した会社で働いている。その会社は前の会社よりも企業規模が小さく、給料は半分程度になった。しかし、残業が少なめで休みが取りやすく、健康的に働けている。


「いってきます」

 今日は月曜日。朝食を食べてスーツに着替えたおれは、誰もいない部屋に挨拶した。今年で30歳になるが、おれを見送ってくれる存在にまだ出会えていない。

 収入は低く、恋人もいない。

 でも、それでいい。

 おれは出勤前にいつも、部屋の壁に大切に飾ってあるじいちゃんからの手紙を見る。

 それにはこう書いてある。


「俺は海斗をずっと見守っとるで、海斗は安心して好きなことしていいぞ。でも、身体と心が資本やでな。自分を大切にしりんさい」


 今日も無理せず生きるとしよう。

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