第三章 冷酷皇帝は『花の乙女』に誓う②

 もぞり、とトリンティアががえりを打つと、額が固くてだんりよくのあるものにぶつかった。

「気がついたか?」

 すぐそばから、あんしたような声が降ってくる。耳に心地ここちよくひびく声がだれのものかを理解した途端、いつしゆんねむき飛んだ。ぱちりと開けた視界に飛び込んできたのは、トリンティアを見下ろすウォルフレッドの端整な面輪と皇帝の私室の天井だ。しんだいで眠るトリンティアのとなりに座り、書類を読んでいたらしい。

「気分はどうだ?」

 問われて、ようやく頭が動き出す。

 そうだ。れいなドレスを着せられ、謁見の間で居並ぶ貴族達ににらまれて、それで──。

「も、申し訳ございませんでした!」

 いつの間に私室に移動したのか。飛び起き、寝台の上でへいふくする。自分がまだ絹のドレスのままだと知って、心臓がさらに縮む。絶対に変なしわをつけてしまったに違いない。

まことに申し訳ございません! どうかお許し──」

「待て。少し落ち着け」

 手にしていた書類をサイドテーブルに置いたウォルフレッドが、きよをつかれた声でトリンティアの言葉をさえぎる。が、落ち着いてなどいられない。

 がくがくと身体が震える。顔にどろを塗られたと、どれほどおこっているだろう。恐ろしくてウォルフレッドを見られない。

「お前は『花のおと』としての務めを果たした。むしろ、謝らなければならないのは、お前に気を失うほどのきんちよういたわたしのほうだろう?」

「え……?」

 耳にした言葉が信じられなくて、ぼうぜんと顔を上げる。トリンティアを見つめるウォルフレッドの表情はひどく苦い。

「昨日、お前を傷つけぬと言ったばかりだというのに……。こうていともあろう者が約束をたがえるなど、おのれのふがいなさが情けない」

「違……っ、違いますっ!」

 ぶんぶんぶんっ、と首を横にる。

「確かにものすごく怖かったですけれど、あれは陛下のせいではなくて、その……っ」

「その、何だ?」

 言いよどんだすきをウォルフレッドが突く。

「そ、の……」

 口に出してよいものか迷った末に、くちびるを引き結ぶ。おどろきに、いっとき止まっていた震えが、ふたたび襲ってくる。

 と、寝台の上にそろえていた手を、不意にウォルフレッドに握られる。反射的に走った震えを押しとどめるかのように、もう片方の手がトリンティアのほおを包んだ。こわりをほどくかのような、大きくあたたかな手。

「なぜ、それほど怯える? 『冷酷皇帝』がうわさだと知ってなお、わたしが怖いか?」

 痛みをはらんで不安にれる声。引き込まれるように上げた視線が、あおひとみにぶつかった。

 不安に揺れるまなざしを見たたん、胸の奥がめつけられたように痛くなる。

 傷つけられたことは数えきれないほどあっても、誰かを傷つけた経験なんてほとんどなくて。どうすればよいかわからぬまま、あわあわと声を出す。

「こ、怖かったのは陛下ではなくて……っ。いえ、演技とわかってさえ、陛下も十分恐ろしかったのですけれど……っ」

 真っ正直に答えてしまい、ウォルフレッドの形良い眉がぎゅっと寄る。己のこつさに泣きそうになりながら、トリンティアはけんめいに説明した。

「こ、怖かったのは、貴族の方々の視線で……っ。まるで、サディウム伯爵が目の前に大勢現れたようで、あまりに恐ろしくて……っ」

 ウォルフレッドの片眉がいぶかしげに上がる。

「なぜだ? サディウム伯爵は義理とはいえ、お前の父親だろう?」

「ち、父上だなんてっ! そんな風にお呼びしたら、どんなせつかんを受けるか……っ!」

 身体の奥底からせり上がってくる恐怖に、がくがくと震える。ウォルフレッドのけんがきつく寄った。

「どういうことだ?」

 固くざしたとびらをこじ開けるような声。心の奥底まであばくような強いまなざしに、これ以上、かくしてはおけないのだとさとる。話さなければ、ウォルフレッドはさらにげんになるに違いない。

「サ、サディウムはくしやくが、どうして私を養女にしてくださったのかはわかりません……。な、七歳くらいまでは、エリティーゼ姉様と本当の姉妹のように育てていただいたのです。けれど……」

 まなざしからのがれるように深くうつむき、トリンティアは震えの止まらぬ声をつむぐ。

「わ、私は役立たずだったんです……っ。ある日とつぜん、そう言われて。何もかも、全部取り上げられて、お前は今日から下働きだと言われて……っ」

 幼いトリンティアには、何が起こったのか、まったくわからなかった。ただ、サディウム伯爵がおとぎ話で読んだかいぶつのようにへんぼうしたのが恐ろしくて。それ以上に、大好きな姉とはなれなければいけないのが、何よりかなしくて。泣きじゃくっていると、『うつとうしい!』とり飛ばされた。

『サディウム家の一員だなどと、間違っても思い上がるな! お前のような役立たず、拾わずにさせておけばよかった!』

 と。下働きとして身を粉にして働けば、少しでもいかりがとけるのではないかと期待した。

 けれど、サディウム伯爵の怒りはとけるどころか、加速するばかりで……。

 トリンティアが今まで世をはかなまずにいられたのは、ひとえにエリティーゼのおかげだ。エリティーゼはトリンティアが食事をかれてひもじい思いをしていればパンを差し入れてくれ、なぐられてうでらしていれば、手当てをしてくれた。

「で、ですから……」

 震え声はいつのまにかなみだごえに変じている。下を向いているとこぼれそうになる涙を固く目を閉じてこらえ、トリンティアは指先をつかむウォルフレッドの手を、ぎゅっと握り返した。

「決して陛下のせいではないのです! 私が役立たずでめいわくばかりおかけしているので、陛下がお怒りになるのも当然──、っ!」

 不意に、ぐい、と腕を引かれる。のうこうじやこうかおりが押し寄せたと思った時には、ウォルフレッドにき寄せられていた。

「もう、よい」

 ウォルフレッドの低い声がを打つ。けものうなり声のようにとどろく低い声。

 きように口をつぐんだトリンティアの頬を、あふれだした感情が涙となってこぼれ落ちる。にじんだ視界の向こうで、ウォルフレッドが困ったように眉を下げたのが見えた。

「泣くな。お前に泣かれると、どうすればよいかわからぬ」

 わずかに身を離したウォルフレッドが、大きな手のひらでトリンティアの涙をぬぐう。

「わたしが怒りを覚えているのはお前ではない。サディウム伯爵にだ。自分の都合で養女にむかえておきながら、としもいかぬ少女をひどあつかうなど……。反吐へどが出る」

 碧い瞳がれつな光を宿し、怒りを孕んだ声が唸るように低くなる。

「以前から、よからぬ噂を多く耳にしていたが、やはりろくでもないやからのようだな」

「そう、なのですか……?」

 サディウム領では、伯爵は絶対的な存在で、伯爵の行状に異を唱える者など、一人としていなかった。

「ああ。そのような下衆げすと同列に思われていたとは、不快きわまる。……いや。お前を気絶させるほどおびえさせたのだ。わたしも人のことは言えぬな」

「いいえっ」

 トリンティアは思わず声を上げていた。

「陛下はおそろしいですが……。同時に、おやさしい方です! 私などをづかってくださったばかりか、足の手当てまで……!」

 必死に言いつのると、ウォルフレッドが虚をつかれた顔をした。かと思うと、ふ、といきとともに口元をゆるめる。

「そうか……。では、もう恐ろしくはないな?」

「え……っ!?」

 問われて、思わず固まる。同時に、ウォルフレッドに抱き寄せられているのを思い出して、かぁっ、と頬に熱がのぼった。

「そ、それはその……っ。やはり、おそれ多すぎまして……っ」

 腕の中から逃れようとすると、逆にぎゅっと抱き寄せられる。

「離れるな」

 ウォルフレッドの指先が優しくかみいて、片方の耳をあらわにする。無防備になった耳朶にあたたかな吐息がかかった。

「お前の事情を知ろうともせず、振り回して悪かった……。お前が『花の乙女』である以上、今後もお前に苦労をかけることはいなめん。だが」

 気を失っているうちにほどかれ、乱れていた長い髪を、ウォルフレッドの骨ばった手があやすようにでる。

「これだけは、ちかおう。わたしはサディウム伯爵のように、暴力をお前に振るうことは決してせぬ。絶対にだ。お前がわたしのそばにいる限り……。お前を守ろう」

 しんで力強い声。と、ウォルフレッドが小さく微笑ほほえむ。

「どうだ? これでもわたしがこわいか?」

「そ、それは……」

「守る」だなんてトリンティアに言ってくれた人は、今まで一人もいなかった。

 エリティーゼでさえ、サディウム伯爵の目の届かないところでは助けてくれたものの、正面から伯爵の意に逆らうことはできず……。

 ウォルフレッドは今までトリンティアが経験したことのない近さで優しくふれてくるので、いったいどうすればよいのかわからない。

 優しい。けれども恐ろしい。それをどう伝えたらよいかわからず言葉を探しあぐねていると、ウォルフレッドにもう一度、頭を撫でられた。

「答えられぬのならば、無理に答えずともよい。急に印象を変えよと言っても難しかろう。そのうち、慣れてくれればよい。わたしも、お前を怖がらせぬように努めよう」

 子どもをあやすような優しい手つきと声に、ほっとして息をき出す。

「だが……。先ほどの話は気にかかるな」

 不意に低くなった声にきんちようする。思わずウォルフレッドを見上げると、予想以上の近さに端整なおもがあった。ぱくりと心臓がねる。

 じろぎして逃れようとするが、ウォルフレッドの腕は離れない。

「離れるなと言っただろう?」

「で、ですが……」

 心臓がばくばくとさわいでいる。

「慣れるためにも、このくらいまんしろ」

「は、はい……」

 せめて、しい面輪を目に入れなければ、少しはどうも収まるかとうつむいたトリンティアの耳に、ウォルフレッドの低いつぶやきが届く。

「サディウム伯爵はなぜ、お前を養女にしたのか……。理由を知っているか? お前の両親が何者だったのかも」

「いえ、何も……」

 トリンティアはうつむいたまま、ふる、と首を横にる。

「昔、聞いた話では、くなった母は臨月の身で、ふらりとサディウム領へ来たそうです。そして、私を生んですぐ亡くなったと……。母を亡くした私をあわれんで、伯爵様が私を引き取ってくれたのだと……。そう、聞いたことがあります。ですから、私は、父はおろか、母の名前さえ知らないのです……」

 顔も声も、ましてや思い出の欠片かけらひとつない生みの母。

 トリンティアが知っているのは、母が共同墓地のどこかにほうむられているということと、「トリンティア」という名をつけてくれたのは、母だということだけだ。

 書類上はサディウム家の養女であり、血はつながらぬが優しい姉もいる。けれど。トリンティアは時折、自分がどろみずの中に一枚だけかぶ千切れた水草の葉ではないかと思う。

 ほかの葉はちゃんとくきにつながっているのに、自分だけが足元の定まらぬ泥のぬまに立っているかのような不安感。守る者もなく、守ってくれる者もなく、たった一人。それは、なんとさびしく心細いことだろう。

『お前を守ろう』

 不意に、ウォルフレッドの言葉が胸の中によみがえる。

 初めて、トリンティアを守ると言ってくれた人。抱き寄せる腕は力強く、痛いくらい胸が高鳴ってげ出したいのに、同時に、この上なくたのもしい。

 ぱくぱくと高鳴るどうを感じながら、トリンティアはウォルフレッドの広いむないたにそっとほおを寄せた。

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