第二章 『花の乙女』の役目は心臓に悪すぎる②

 昨日と同じように侍女達の手を借りてみした後、トリンティアが着せられたのは、羊毛を厚く織った上質なの夜着だった。夜着なので、ゆったりしていて首回りが広いものの、どうがんっても身体の線など見えない分厚さでほっとする。

 だが、この後に待つものを考えるだけで、心臓がきゅぅっ、と縮んで顔がってくる。

「ついてきなさい」

 昨夜と同じく、セレウスが感情のうかがえない声で、冷ややかにトリンティアをうながす。乱れのない足取りで進む様子は、声をかけることさえはばかられるふんをたたえていた。

「よいですか。陛下のお身体、ひいては銀狼国のあんねいは、『花のおと』であるあなたにかかっていると言っても過言ではありません。『乙女のなみだ』を作ることもできぬのですから、せめて陛下のおそばで抱きまくらとしてしっかり務めなさい」

 セレウスがようやく口を開いたのは、皇帝の私室まで来た時だった。

「は、はい……」

 ふるえる声でうなずく。トリンティアにきよ権がないことは、最初から明白だ。

 口にしようとしていた嘆願がのどの奥へとげていく。セレウス相手では、トリンティアの願いなど、あっさりときやつされるだけにちがいない。

「陛下はまもなくいらっしゃいます」

 部屋の中へトリンティアを案内したセレウスが一方的に告げてきびすを返す。トリンティアは昨日と同じようにしんだいのそばの床にへいふくした。

 こうなったら、ウォルフレッドにじかだんぱんをするほかない。

 待つほどもなく、扉が開く音がする。近づいてくる足音にトリンティアはさらに深く頭を下げた。きんちようのあまり、分厚い夜着を着ているというのに、身体からだがかたかたと震え出す。

「……今日も寒いのか?」

 目の前で立ち止まったウォルフレッドが問う。今日も夜着をがれてはたまらないと、トリンティアはあわててかぶりをった。

「い、いえっ、違います! その……、ひゃっ!?」

 腕をつかまれたかと思うと、ごういんに引き起こされる。さっと身をかがめたウォルフレッドがトリンティアを抱き上げ、ひょいと寝台に置いた。

 ふかふかの寝台が優しくトリンティアを受け止めてくれる。慣れぬやわらかさに身を起こすより早く、ウォルフレッドの膝を乗せたマットが深くしずむ。

「お、お待ちくださいませっ」

 片手でかたを押され、あえなくあおけに倒されたトリンティアは、のしかかってくるウォルフレッドのむないたを必死で押し返した。トリンティアの抵抗に、ウォルフレッドがしぶしぶといった様子で動きを止める。

「何だ?」

 げんきわまりない声で問われ、びくりと肩が震える。ろうそくかすかな明かりを反射してきらめく銀のかみは、みがかれたけんのようだ。起き上がろうにも起き上がれず、トリンティアはきようにひりつく喉を飲み込んだえきうるおし、ウォルフレッドを見上げてうつたえた。

「あ、あのっ、抱き枕とおっしゃっていましたが、毎夜陛下と……。その、同じ寝台でねむる必要があるのでしょうか? 昼間もずっとおそばにおりましたし、その……っ」

 午前中のえつけんが終わり、昼食をとった後、しつ室で書類仕事をするウォルフレッドのそばにも侍ったのだ。に座るウォルフレッドの足元の床にトリンティアが座り、背中を足に預ける形で過ごしたのだが、何刻もいつしよにいたのだから、もう十分ではなかろうか。

 トリンティアの訴えに、ウォルフレッドがあっさり頷く。

「もしかしたら、そのうち不要になるやもしれんな」

「で、でしたら……」

 横を向いて逃げ出そうとすると、肩を掴んで仰向けにもどされた。

「よく聞け。長く『花の乙女』が不在だったのだ。一夜くらいでは、まったく足りぬ」

「そんな……っ」

 がくぜんとウォルフレッドを見上げる。だが、「そのうち」とは、いったいいつなのだろう? それまで、トリンティアの心臓はもつのだろうか? と。

 ふむ、と何やら考えるようにウォルフレッドがつぶやく。

「お前が早く抱き枕から解放されたいように、早く回復したいのはわたしも同じだ。セレウスの企みなど、乗ってやる気はないが……。ためしてみるのも、ありかもしれんな」

 ふっ、とウォルフレッドがくちびるり上げる。悪戯いたずらを思いついた悪童のようなみを浮かべたかと思うと、引きまった身体がおおいかぶさってくる。

 逃げるひますらなかった。唇が熱いものにふさがれ、思わず悲鳴が飛び出しそうになる。

 ──狼に、喉笛をみ千切られたかと思った。

 見開いた視界に、あおひとみが映る。くような視線から逃げるように、ぎゅっと固く目を閉じる。

 かぶりを振って逃げたいのに、あごを掴んだウォルフレッドの手が許してくれない。

 ちつそくする、と恐ろしくなったところで、ようやく唇がはなれた。

 反射的にしんせんな空気を求めてあえぐ。間近でかおじやこうの甘くのうこうかおりにくらくらする。

 乱れてまとまらない思考のまま、固くつむっていたまぶたをこわごわ開けた瞬間。

「っ!」

 火傷やけどしそうな熱情を宿した瞳が、真っぐにトリンティアを見つめていた。

 ──食べられる。

 本能がれいこくに告げる。美しいおおかみに、一息にい殺される、と。

 恐怖が思考を真っ白に染め上げる。頭のどこかで、ふつり、と糸が切れる音がした。同時に。

 喉の奥から、自分のものとは思えないほどの大きな泣き声があふれ出す。ぼやけてにじむ視界の向こうで、ウォルフレッドが碧い瞳を見開くのが見えた。

 だが、止めようにもたがが外れてしまったかのように、涙も声も止められない。

 恐怖、しゆう、不安、混乱……。せた身体の中に納まりきらなくなった感情が、こうずいのようにあふれ出す。

「陛下っ!? 何があったんすか!?」

 泣き声が部屋の外まで届いたのだろう。とびらの向こうからゲルヴィスのまどった声が届く。

「かまうな。ほうっておけ」

 幼い子どものように激しく泣くトリンティアを見下ろしたまま、ウォルフレッドが扉を振り向きもせず、すげなく返す。たんせいおもには、泣き続けるトリンティアをどうあつかえばいいのかわからないと言いたげな戸惑いがかんでいた。

 トリンティア自身ですら、自分がどうなってしまったのかわからない。

 こんな風に大声で泣くなんて、幼い子どものころ以来だ。うじうじと泣き続けていると、いつもうつとうしそうにられたり、引っぱたかれたりしたから。だから、そんな目にわないように、はしっこで息をひそめて、あらしが通り過ぎるまでやり過ごしてきたはずなのに。

 きっと、どこかがこわれてしまったのだ。人の姿をした狼が、感情を押さえつけていたくさりまで、噛み千切ってしまったに違いない。

 しゃくりあげながら、覆いかぶさったままのウォルフレッドを見上げる。

 まゆを寄せ、困り果てた表情で見下ろすウォルフレッドの碧い瞳と視線が合う。と、ふい、と目線をらされた。

「……悪かった」

 視線を合わせぬまま、ウォルフレッドが低い声で告げる。

 予想だにしなかった言葉に、おどろきのあまり涙が止まる。まばたきしたひように、最後の涙がまつげからほおへとすべり落ちた。

 ウォルフレッドがそでぐちでトリンティアの頬をぬぐう。思いがけなくやさしい手つきと絹の柔らかさに、トリンティアはようやくわれに返った。

「も、申し訳ございませんっ」

 身体ごと横を向き、自分の夜着の袖で乱暴に頬をぬぐう。

 申し訳なさとずかしさで、ウォルフレッドを見られない。

 しかも、『れいこくこうてい』の前で泣くなんて、なんとおろかなのか。先ほどの「悪かった」は、きっと混乱のあまり、聞き違いをしてしまったに違いない。

「も、申し訳あり──」

 とにかく謝らなければと口を開くと同時に、トリンティアの背中側に身を横たえたウォルフレッドが、不意にせた身体をき寄せる。こつん、と後頭部に額が押しつけられた。

「加減を誤った。──許せ」

 困ったような、低い声。

「お、お許しくださいとお願いしなければならないのは、私のほうでは……っ!?」

 びくびくしながら答えると、背後から、ふ、としようする気配がした。

「加減を誤ったのはわたしなのだから、お前が許しを請う必要はないだろう? ……許して、くれるか?」

 ウォルフレッドがそう言うのなら、トリンティアに異論はない。

「は、はい……」

 うなずくと、ほっ、とき出した息が、乱れてあらわになったうなじにかかった。あたたかな呼気が、トリンティアのこわりをわずかにほどく。

「『おとなみだ』が切れてから……。ずっと苦痛にさいなまれてきたのだ。痛みにうめくことなく深く眠れることが、どれほどのいやしか……」

 胸にせまるような低い声。

 痛みで眠れないつらさなら、トリンティアも身に覚えがある。へまをしてせつかんを受けた夜は、眠れなくて辛かった。痛みを忘れられる深い眠りがこないかと、いつもいのるような気持ちでぎゅっと身体からだを丸めていた。

「しばらくは、お前を放すことはできん。早く慣れろ」

「な、慣れろとおっしゃいましても……っ」

 今でも心臓が飛び出しそうなのに、どうやったら慣れるというのだろう。

「必要ならば、少しくらいのじようはしてやる」

「で、では、お放しいただけますか……?」

 いちの希望にすがって願うと、逆に、ぎゅっと引き寄せられた。ぱくり、と心臓がねる。

「少し、と言っただろう? きやつだ」

「あ、あのっ! では、せめてうでゆるめてくださいっ」

 ぴったりくっつくと、布地しでもウォルフレッドの引き締まった身体つきがわかって、今すぐげ出したい気持ちになる。

 こんがんに、渋々といった様子でウォルフレッドが腕を緩める。トリンティアは、ほっと息を吐き出した。

「これは、早く慣れる方策、を……」

 ウォルフレッドの声がめいりように消えてゆく。次いで聞こえてきたのは、深いいきだ。寝つきが早いのは、ゆいいつの救いかもしれない。

 泣いたせいでまぶたが重い。背中から伝わるあたたかさが、きんちようをゆるゆるとかしてゆく。トリンティアは目を閉じ、おとずれる優しいねむりに身をゆだねた。


    ● ● ●


 鼻の下のくすぐったさに、ウォルフレッドは目を覚ました。

 目の前にあったのは、すやすやと眠るトリンティアの顔だ。さくは背中を向けていたが、いつの間にか寝返りを打ったのだろう。

 いつもきように身を強張らせて顔をせているので、トリンティアの顔をまじまじと見るのは、初めてだ。あどけない寝顔と、瘦せっぽちな身体つきとが相まって、今年で成人の十八歳をむかえているとは思えないほど、幼く見える。

 ウォルフレッドは眠る少女の瘦せた身体をそっと抱き寄せた。固い。骨と皮と申し訳程度の肉しかないのではなかろうか。女性らしいまろやかさが欠片かけらもない。

 おびえていないトリンティアを目にして、ウォルフレッドは実は少女が意外と愛らしい顔立ちをしていることに初めて気がついた。派手さはない。だが、品よく整った面輪は、れんな花を連想させる。

 不意に、胸をめつけるような夕べのトリンティアの泣き顔と声がのうよみがえり、ウォルフレッドの心に苦い気持ちがき上がる。

 昼間、かくし部屋でをした指を口にふくんだ時、単にふれる以上に痛みがやわらいだ気がした。ならば、確かめてみようと……。くちづけたたん、ウォルフレッドをおそったのは、苦痛をくつがえすようなえつらくだった。

 経験したことのない、背筋をで上げられるような甘いしびれに、我を忘れそうになったのは否定できない。

 確かに、やりすぎた自覚はあるが……。まさか、大泣きされるとは予想のらちがいすぎた。

 幼子のように泣きじゃくる姿にどうにも罪悪感がげきされて──。

「悪かった」などと、だれかに謝罪したのは何年ぶりだろう。ゲルヴィスとセレウスが知ったら、目をむいて驚くにちがいない。いや、ゲルヴィスはその後、腹をかかえてばくしようするだろうが。

『冷酷皇帝』として、敵にぞうされうらまれることなど、数限りなくしてきたし、それに心を痛めることもなかった。その程度で惑い、足をにぶらせていては、皇位争いを制するなど、できるはずもない。

 だが、夕べのトリンティアの涙は、ウォルフレッドの心のよろいおおわれていない部分にみようさった。十歳で母と死別したこともあり、ウォルフレッドは女性の扱いに慣れているとは言いがたい。ただひとりの例外といえば──。

 ウォルフレッドはかぶりをって、胸に湧き上がりかけた感情を追いはらう。

 その拍子に、かつて聞いた真実かどうかもさだかでない夢物語を思い出す。ぎんろうの血を引く者と、『花の乙女』のきずなが強ければ強いほど、癒しの力が強く発揮されるのだと。建国神話にうたわれる銀狼国の始祖が、『花の乙女』の癒しを得て、あらゆる敵を打ち破ったように。

「どうせ、こうていけんを高め、『花の乙女』を集めるためのべんだろうが……」

 はん、と小さく鼻を鳴らす。絆なんて、そんなあいまいなもので癒しの効果が変わるなど、にわかには信じがたい。とはいえ。

「せめて、もう少し慣れてほしいものだがな……」

 低い声でためいきまじりにつぶやく。

 銀狼国の皇族の身に流れる、銀狼の血。人の身に納まりきらぬ力を振るうだいしようは、絶え間ない苦痛と、力を振るうたび心の中で暴れ、逆巻くきようぼう性だ。

 命がけで手に入れた皇位を、『花の乙女』が手に入らぬばかりに手放す羽目におちいるなど、そんな事態を認められるものかと、苦痛をひた隠しにして公務にはげんできたが……。

 ウォルフレッドは眠るトリンティアの身体に回した腕に力をこめる。それだけで、身体の奥底までしんしよくしていた苦痛が、春のしをあびた雪のようにほどけ、少しずつ消えてゆくのを感じる。

『花の乙女』を見つけた今、以前のような苦痛まみれの日々にもどることなど、考えられない。一度、安楽を知ってしまった心身は、ふたたびの責め苦にえられるかどうか……。数か月もの間、苦痛を隠し通してきたウォルフレッドでさえ、自信が持てない。

「……代々の皇帝達が、『花の乙女』におぼれた理由もわからなくはないな」

 トリンティアが『乙女の涙』を作ることができれば、それにしたことはないが、作れない以上、彼女に直接ふれることでしか苦痛を癒すすべはない。となれば、トリンティアが手を出す気も起きないとりがらなのは、幸いというべきなのかもしれない。いっときのとうで『花の乙女』に溺れ、らくするような事態は、死んでもめんだ。

 が、せめてもう少し、『花の乙女』の務めに慣れてもらわねば……。ふれるたび、びくびくと怯え、ふるえられるのはさすがに困る。

 さて、どうしたものか……。と、ウォルフレッドは眠る少女を見つめて思案した。

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