第二章 『花の乙女』の役目は心臓に悪すぎる①

 扉が開く音に、トリンティアは手にしていた針と布をあわてて目の前の小さなテーブルに置いて立ち上がった。

 えつけんの間の真裏にあるかくし部屋へ入ってきたのは、立派なしようまとったウォルフレッドだ。しい姿は見惚れてしまいそうなほどだが、トリンティアにはそんな余裕などない。

 テーブルから一歩はなれたトリンティアの腕を、おおまたに歩み寄ったウォルフレッドがつかんで抱き寄せる。ふわりとお仕着せのじよ服のスカートがれた。

 つかれたようないきが、ウォルフレッドからこぼれ出る。

「痛みが消えるすべが見つかったのは喜ばしいが……。反動が問題だな」

 ウォルフレッドが低い声でつぶやくが、トリンティアは腕の中で身をかたくするだけだ。抱きしめたまま、ウォルフレッドが深い呼吸をり返す。数度、深呼吸したところで。

「陛下。そろそろよろしいですか?」

 謁見の間からセレウスの声が問うてくる。

「ああ、もどる」

 答えたウォルフレッドがあっさりと腕をほどく。り返り、足早に戻っていくさまは、トリンティアの存在など忘れたかのようだ。

 ぱたり、と隠し部屋の扉が閉まり、トリンティアはへなへなとながにくずおれた。

 ばくばく鳴る心臓を、両手で服の上からぎゅっと押さえる。そうしなければ、暴れ回る心臓が身体からだから飛び出してしまいそうだ。きんちようで、のどがからからにがっていた。

 心臓に悪い。悪すぎる。

 異性に抱きしめられるだけでも緊張するというのに、きらびやかな衣服を身に纏った皇帝が相手だなんて。なんだか、昨日からずっと、めない夢を見ているような心地ここちがする。

 ゆるゆると息をきながら、トリンティアはさほど広くない隠し部屋を見回した。

 こんな部屋が謁見の間の裏側にあるなんて、まったく知らなかった。奥のかべのタペストリーの後ろに扉が隠されており、部屋があるとはわからぬようになっているらしい。

 ろうのほうも、扉は石造りの壁のちようこくたくみに隠されていて、部屋の存在を知っている者でなければ、扉があることさえ気づかないだろう。

 セレウスの説明によると、この隠し部屋は皇帝の謁見の際にかげながら警護するひかえる場所らしいが、ふだんは使われていないようで、空気は少しほこりっぽい。

 ひとたび皇帝の身に何かあれば飛び出せるように壁が薄く造られているのか、隠し部屋にいても玉座に座るウォルフレッドの声がはっきりと聞こえる。

 今回入ってきた属領からの拝謁者は、税の軽減を願っているらしい。切々と領のきゆうじよううつたえているが、すげなくたんがんを退けるウォルフレッドの声には、いつぺんも感じられない。さらには、セレウスがたんたんめで領主の言を論破していく。おそらく謁見の間は、真冬の吹雪ふぶきよりも寒々しい場と化しているに違いない。

 いつの間にか自分まで震えているのに気がついて、トリンティアは慌ててかぶりを振った。意識を切りえ、テーブルの上に置きっぱなしの針と布を手に取る。

 これは、午前中ここで待機を命じられた際に、「働きもせず、ただ座っているわけにはいきません!」と言ったトリンティアに、「ならばしゆうでもしていろ」と、ウォルフレッドが用意してくれたものだ。気をまぎらわせられる物があって、本当によかった。

 てっきり、そばにはべるのは夜だけかと思っていたのだが、ウォルフレッドは謁見が終わるたび隠し部屋に来ては、ほんのわずかな時間トリンティアをきしめ、すぐに戻ってゆく。その様子は泳ぐ者がいきぎをするかのようだ。

「役立たずでみすぼらしい私なんかが、『花の乙女』であるはずがないのに……」

 手元の花の刺繍に視線を落とし、トリンティアはぽつりと呟く。

 昔、まだトリンティアがサディウムはくしやくの養女として大切に育てられていた幼いころ、一度だけ、伯爵家を訪問した『花の乙女』を見たことがある。

 銀糸で刺繍がほどこされた純白のドレスを纏ったその人は、天上のがみが降り立ったかと思うほど、美しい人だった。いま思い返すと、ねんれいは三十歳を過ぎていたかと思うが、気品にあふれた姿は、幼いトリンティアに「おひめさまがいる!」ときようれつな印象を植えつけた。

 あの時、『花の乙女』と何か言葉をわした気がするのだが……。

 緊張に固まっていたせいか、どんな会話を交わしたのかまったく覚えていない。ただ、やさしく頭をでてくれた手のかんしよくだけは、せんめいに覚えている。もし、母親というものがいたらこんな感じなのだろうかと、何度も思い出したものだ。

 トリンティアなどが、そんな彼女と同じ、『花の乙女』だなんて、やっぱり何かの間違いだとしか思えない。

 それに、トリンティアが『花の乙女』だとしたら……。

 さく、上半身はだかのウォルフレッドに抱き寄せられたのを思い出したたん、手元がくるって、指先にぶすりと針をした。

「っ!」

 飛び出しそうになった声を、かろうじておさえ込む。謁見の間に声が聞こえたら大変だ。

 をした指先をもう一方の手でにぎりしめ、背中を丸めて痛みをこらえていると、不意に、謁見の間に通じるとびらが開いた。入ってきたのはもちろんウォルフレッドだ。

 トリンティアの前に立ったウォルフレッドがうでを掴んで引き寄せようとする。

「お、お待ちくださいっ! その、うっかり針で指を刺してしまったのです。もし、血が出ていたら……っ」

 トリンティアはあわを食って押しとどめながら、ぎゅっと左手を握り込んだ。こうていの衣装によごれをつけたら、どんなばつが下されるか。

 ていこうしたが、だった。ウォルフレッドの大きな手のひらがこしに回り、問答無用で引き寄せられる。同時に、もう片方の手で、握り込んでいた左手をこじ開けられた。

「にじんでいるだけだ。汚れるほどの血は出ておらん」

 指先に視線を落としたウォルフレッドが、そっけなく呟く。かと思うと。

「ひゃあっ!?」

 指先をぱくりとくわえられ、トリンティアは今度こそ悲鳴を上げた。すっとんきょうな声におどろいたのか、ウォルフレッドがわずかに目を見開く。

 一瞬で、蒸発するのではないかと思うほどほおが熱くなる。ウォルフレッドの口の中の熱が、トリンティアにまで移ったかのようだ。指先がけるのではないかと心配になる。

「ひゃっ!」

 あたたかくなめらかな舌にぺろりとめられ、心臓がねる。

「これで問題なかろう」

 指を引きいたウォルフレッドがあっさり告げ、トリンティアをさらに強く抱き寄せる。もし腕の中にいなければ、ひざからくずれ落ちていただろう。

「陛下」

 扉の向こうから聞こえるセレウスの声が、トリンティアには天の助けのように聞こえた。

かし過ぎだろう、あいつは」

 うつとうしそうに呟いたウォルフレッドが腕をほどき、さっと身をひるがえす。

 だが、トリンティアは見送るゆうなどなかった。へなへなとゆかにへたりこむ。気を失っていないのが不思議なくらいだ。心臓が耳元でばくばくとさわぎ立てて、うるさいほどだ。

 昨夜は、皇帝を押したおした罪でけいになるのではないかとおびえていた。けれど、今は不敬罪で処刑されるより、ずかしさで心臓がこわれるほうが先ではないかと思う。

 夕べ、ほんの少しだけ腕をゆるめてくれたウォルフレッドを思い出す。願い出れば、もう少し心臓に負担の少ない方法をとってくれるかもしれない。

(一度、セレウス様か陛下に嘆願してみよう……)

 いまだにばくばくとうるさい心臓を服の上から押さえながら、トリンティアは決意した。

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