第一章 新米侍女、冷酷皇帝に抱き枕を命じられる③

 いったい何がどうなっているのか。

 つい先ほど、ウォルフレッドにぶつかるまで、トリンティアは侍女としてそうや雑用に明け暮れていたはずなのに。事態の急転に思考が追いつかない。

 ウォルフレッドからじよがしらのイルダに引きわたされた後、夕刻、侍女達に数人がかりでみさせられたトリンティアは、絹の夜着だけを纏ったうす姿でウォルフレッドの私室にひかえていた。

 せぎすの身体からだに、絹の夜着を纏ったトリンティアを見たイルダと、むかえに来たセレウスに、そろって「これは絶望的に……」と嘆息された時には、情けなさに消え入りたい気持ちになった。

 いくら高価な衣装を纏おうと、瘦せこけた身体ではみっともないだけだというのは、てきされずとも、トリンティア自身が誰よりも知っている。

 なぜトリンティアなどに絹の薄物を着せたのか、セレウスの意図はさっぱりわからない。

 セレウスに命じられた通り、てんがいのある大きなしんだいのそばでひざまずいたトリンティアはきようと混乱にふるえながらウォルフレッドのおとずれを待っていた。

 ひたひたと大理石のゆかの上をあしで歩む音に、トリンティアは額をこすりつけるようにさらに深くへいふくする。

不束ふつつか者でございますが、誠心誠意お仕えさせていただきます」

 来る前にセレウスに教えられた口上を、震えながらもなんとかちがわずに言い終える。わずかに気を緩めた瞬間、床からいあがってくる冷気に、思わずくしゃみが飛び出した。秋も深まってきた夜に薄物の夜着だけというのは、さすがに寒い。

 頭上からウォルフレッドのいきが降ってきて、トリンティアは身を硬くした。恐怖に気が遠くなりかけたトリンティアの耳が、かすかなきぬれの音をとらえる。かと思うと。

「着ろ」

 ばさりと大きな布地がトリンティアの上に落ちる。おどろいて顔を上げると、頭に乗っかった布のすきから、ウォルフレッドの姿が見えた。

 ひざたけの夜着のズボンだけを穿いた上半身はだかの姿。見てはいけないものを見てしまった気がして、ふたたび平伏し、身を縮める。

「で、ですが、陛下のし物を私などがうばうわけには……っ!」

 身動きせずに平伏していると、いらった声が降ってきた。

「聞こえなかったか? 着ろと言っている。……お前に風邪かぜをひかれるわけにはいかぬ」

 少し、困ったような声。わけがわからず、おずおずと顔を上げると、ずるりとずれた布地が視界をふさいだ。

「ですが……。私がこちらをお借りしたら、陛下がお寒いのでは?」

 トリンティアの言葉に、ウォルフレッドが、はん、と鼻を鳴らす。

「その程度で風邪をひくほどやわではない。わかったらさっさと着ろ。時間のだ」

「あ、ありがとうございます」

 本当に着てよいらしい。トリンティアはていねいに礼を述べると、急いで絹の夜着にそでを通した。大きすぎてぶかぶかだが、身体の線が隠れてほっとする。いだばかりの夜着のあたたかさに緊張がわずかにほどける。

 夜着で私室に控えるように言われた時はまさかと思ったが、服を着ろと言われたということは、やはり何か手違いがあったのだ。いつかいじよにすぎないトリンティアが、こうていのそばにはべるわけがない。ほっとして、いとまごいをしようとした瞬間。

 トリンティアは力強い腕に荷物でもかかえるようにき上げられ、大きな寝台に投げ出されていた。やわらかなとんが、トリンティアの瘦せこけた身体を受け止める。

「あの……っ!?」

 声を上げた時には、ウォルフレッドも寝台に上がっていた。かけを引き上げながらのしかかってくるウォルフレッドのむないたを、本能的な恐怖で押し返すが、力でかなうわけがない。

 必死のていこうなど物ともせずに、となりころんだウォルフレッドの力強いうでが、混乱と緊張に強張る身体をぎゅっと抱き寄せる。と。

「固い」

 不満この上ない声がれる。

「何だこれは? 骨と皮だけか? 薄物の上から見た時もたいがいだと思ったが、見た目以上にひどいぞ」

 だが、トリンティアは答えるどころではない。額やほおにぴったりとくっついたウォルフレッドのはだに、ずかしさのあまり、気を失いそうだ。

 じやこうだろうか。あたたかな素肌からは、かすかに甘く、それでいてのうこうかおりがかおってきて、頭がくらくらする。

 無理。無理だ。このままでは、心臓がこわれて死んでしまう。

「あ、あの、陛下……っ」

 何とか腕がゆるまないだろうかともがくと、「動くな」と𠮟しつせきされた。

「お前が動くたびに、骨が当たって痛い。じっとしていろ」

「で、ですが……」

 しゆうが限界をとつして、息がうまくできない。麝香の香りをかぐだけで、思考がけて気を失いそうだ。

 息をめて身をかたくしていると、何か思うところがあったのか、ウォルフレッドの腕がわずかに緩んだ。トリンティアはほっとして、ひそやかに息をく。だが、どうの高鳴りはまったくおさまりそうにない。ぱくぱくぱくぱくと、鳴りひびく心臓の音がウォルフレッドにまで聞こえるのではないかと思う。

「言っておくが、お前に手を出す気はないぞ。いくらえていても、とりがらをしゃぶるほど落ちぶれてはおらん。そもそも、味わえるところ自体ないだろうが」

「で、でしたらお放しくださいませ……っ!」

 だが、こんがんに返ってきたのは、「何を言う?」とあきれ果てた声だった。

「セレウスから何も聞いていないのか?」

「こ、殺されたくなければ、陛下のこころに従うように、と……」

 部屋へ来る前に言いふくめられていた言葉をうっかり正直に答えてしまい、うろたえる。

 失言のせいでウォルフレッドの気が変わってしまったら大変だ。トリンティアのせいさつだつ権をにぎっているのは『れいこくこうてい』なのだから。

 いま身体に回されている力強い腕は、その気になればそくにトリンティアをくびり殺せるに違いない。石になったつもりで息をひそめた耳に聞こえてきたのは、嘆息だった。

「セレウスめ。何も説明していないではないか」

 緩んだと思った腕が、ふたたびトリンティアを強く抱き寄せる。

「うむ。やはり、お前にふれていると痛みが消えるな」

「ひゃっ」

 抱き寄せられたひように、あたたかな吐息が首筋をで、思わず声がこぼれる。ウォルフレッドの耳に心地ここちよい低い声が、静かに告げた。

「お前を殺すわけなどなかろう。ようやく見つけた『花の乙女』なのだから」

「花の……、乙女?」

 そういえば先ほどもそんなことを言っていた気がする。ぼんやりとおうむ返しにつぶやくと、ウォルフレッドがあおい目をすがめた。

「まさか、知らぬのか?」

「い、いえっ! 知っております! で、ですが、私が『花のおと』だなんて……っ! そんなこと、ありえませんっ!」

「自分の出自もわからぬのに、なぜそう言える?」

 わずかに身をはなしたウォルフレッドに、くような視線を向けられ、トリンティアは身体をこわらせてふるふると首をる。

「で、ですが……っ! 『花の乙女』というのは、もっと清らかで美しくて……っ! 絶対に、私などではありませんっ!」

「だが」

 ウォルフレッドが、宝物にふれるかのようにトリンティアの瘦せた身体を抱き寄せる。

「お前が、わたしの痛みをいやすのは確かだ」

「え……?」

 わけがわからずきょとんと呟くと、ウォルフレッドがうすく笑った。どこか、苦みを帯びたみで。

「『花の乙女』が何のために皇帝や皇族のそばに侍ると思う? 『花の乙女』自身と、彼女らが作る秘薬『乙女のなみだ』には、皇族を癒す力があるからだ。人の身に余るぎんろうの力を宿すがゆえに、常に苦痛にさいなまれる皇族を……」

 初めて聞く話に固まっているトリンティアの首筋に、ウォルフレッドが顔をうずめる。広いえりぐりからのぞく素肌に呼気がふれ、トリンティアは無意識に身体からだを震わせた。

「セレウスからも聞いたが、お前は『乙女の涙』を作ることはできぬのだろう?」

「も、申し訳ございませんっ! その、『乙女の涙』が何かすら存じあげず……っ」

 ウォルフレッドの問いかけに謝罪する。『乙女の涙』という言葉自体、初めて聞いた。

 セレウスによると、いつぱん民衆には知らされていないが、皇族男性の苦痛を取りのぞくために『花の乙女』が作る秘薬・『乙女の涙』がひつなのは、貴族達にとっては常識らしい。

 はくしやくの養女とはいえ、下働きと変わりない暮らしをしていたトリンティアは、まったく知らなかった。

『乙女の涙』は材料も製法も『花の乙女』しか知らぬそうで、「本当に作れないのか?」とセレウスに厳しく問い詰められたが、知らないものはどうしようもない。

「よい。予想はついていた。自分が『花の乙女』であることすら知らぬ者が、材料や製法すら秘された『乙女の涙』を作れるはずがないからな」

 低い声で呟いたウォルフレッドがさらに強くトリンティアを抱きしめる。

「だが、お前に『花の乙女』の資質があるのは確からしい。……お前にふれていると、絶え間なく響いていた苦痛が消える……」

 ほう、と深くいきするさまは、熱にうかされる重病人が、ひとくちの清水をようやく口に含んだかのようなあんに満ちていて、トリンティアの胸まで切なくうずく。だが。

「あ、あの……。ずっと抱きしめていないといけないのでしょうか……?」

 不敬罪でばつされるわけではないと知ってほっとする。とはいえ、こうして抱きしめられていたら、早晩、心臓が壊れそうだ。

「ああ。見知らぬ者をしんだいに招き入れるなど、確かに、不用心この上ないな……。だが」

 不意にウォルフレッドがどうもうに笑う。きばおおかみのように。

「仮にお前が敵からつかわされたかくだとしても、お前の細い首など片手でもへし折れる」

「っ!」

 いつしゆんで背中があわち、冷やあせがにじむ。『冷酷皇帝』というあだ名が、頭の中をぐるぐるとめぐる。

「わ、私は決して刺客などでは……っ」

 きようにひりつくのどからかすれた声をしぼり出すと、ウォルフレッドが小さく息を吐いた。だが、あつかんはまったく減じない。

「ああ、そうであることを願うぞ。せっかく手に入れた『花の乙女』を殺すのはしい」

 恐怖にされたまま、トリンティアは壊れたあやつり人形のようにこくこくうなずく。

 自分が今いるのは、狼のあぎとの中だ。狼がものの喉笛をくだくように、ウォルフレッドの気分ひとつで、トリンティアの首はどうから離れる羽目になるだろう。

「しかし……。もう少し肉をつけろ。骨が痛くてかなわん」

「も、申し訳ございません……」

 ウォルフレッドがぜんと告げるが、身を縮めることしかできない。これでも自分では、王城へ来てからそこそこ肉がついたと喜んでいたのだが。

 サディウム領では領主のやかたで働いていたが、れいのようなあつかいだったのだ。失敗したり、伯爵の気にさわるようなことをすれば、ただでさえまつな食事を抜かれることだって、たびたびだった。王城に来て一番うれしいことはと問われたら、毎日、ちゃんと三食を食べられることだと即答できる。

 と、不意にウォルフレッドが首筋にうずめた鼻を、すんと鳴らす。

「ああ……。薔薇ばらこうか。『花の乙女』にふさわしい。イルダはよい仕事をするな……」

 あたたかな吐息が肌をくすぐり、恥ずかしさに思考がふつとうする。

「あ、あの……っ」

 不敬と𠮟しかられようが、これ以上はえられない。ぐいぐいとウォルフレッドを押し返そうとして、洩れる呼気の気配が変わったのに気づく。深くおだやかなこれは……。

「へ、陛下……?」

 首をひねってウォルフレッドを見ると、すぐ目の前にせいかんに整ったおもがあって、鼓動がねる。

 鋼をほどいたような銀のかみが、ろうそくのほのかな光を反射してにぶかがやいている。目を閉じてすこやかないきを立てる表情は、『冷酷皇帝』とおそれられている青年のものだとは信じられないほど安らかだ。

 まさか、こんなにあっさり寝入るとは予想外だったが、とにかく助かった。

 うでの中から抜け出そうとするが、押しても引いても、まったく全然、動かない。細身だが筋肉質な腕は丸太のように固く、ゆるむ気配がまったくない。

(どうしよう……。げられない……)

 異性の、しかも雲の上の身分の青年の腕の中で一晩を過ごさなければならないなんて、いろいろな意味で心臓に悪すぎる。たんせいな面輪は目をつむれば見えないが、はなやかで甘いじやこうかおりが、逃げられないと思い知らせるかのように呼吸するたびにからみつき、いやでも鼓動が速くなる。

 トリンティアは固く目を閉じ、一刻も早く時が過ぎるのをひたすら願い続けた。


    ● ● ●


「ん……」

 窓から差し込んだ朝日がトリンティアのまぶたを撫でる。

 起きてたくをしなければ。おくれては𠮟られてしまう。だが、ひどく身体が重くて、動かせない。むぅ、とめいりように呟きながら、重いまぶたを開け。

「っ!?」

 眼前の光景に息をむ。思わずれずにはいられない端整な面輪が、目の前にあった。

 飛び出しかけた悲鳴を飲み込んだひように、おのれが置かれたじようきようを思い出す。

 そうだ。夕べ、ウォルフレッドにお前は『花の乙女』だと言われ、きしめられて……。

 目をつむってじっと身を縮めていたのだが、いつの間にか、寝入ってしまったようだ。われながら、意外と図太いものだと感心する。

 ウォルフレッドはまだ夢の中にいるらしい。穏やかな寝息がトリンティアのほおを撫でてくすぐったい。

 起きている間は『れいこくこうてい』の名にふさわしく威圧感に満ちているが、ねむっている今は、しんたんを寒からしめるようなすごみはさんしている。

 トリンティアはなんとかウォルフレッドの腕の中から抜け出せないかとじろぎしたが、眠りに落ちる前と同じく、まったく緩む様子がない。

 というか、ウォルフレッドは本当にトリンティアを一晩中、抱きしめていたのだろうか。そう考えると、ずかしさで、かぁっと頬が熱くなる。

 困って視線を彷徨さまよわせたトリンティアは、気づく。さくうすぐらくてわからなかったが、朝の明るい光の中で見るウォルフレッドの身体には、大小さまざまのきずあとがついていた。

 いくさの中でついた傷なのだろうか。どれもすでに治りきって、うっすらと白い跡が残るだけだが……。数がじんじようではない。

『戦では常にせんじんに立ち、自らとつげきして敵の大将をほふっていた』

『冷酷皇帝』についてのうわさのひとつが、のうよみがえる。人によっては、恐怖とけんまゆをひそめる者もいるだろう。だが、トリンティアの心にかび上がったのは。

(この方は、ご自身の手で皇位を勝ち取られたんだ……)

 じゆんすいきようがくと尊敬の念だった。

 こんな貴族は、初めてだ。トリンティアが知る貴族達は、連綿と受けぐ貴族の血と権力を当然のものとほこり、毎日、いかに安楽でぜいたくに暮らすかにしつしていて……。

 ごうしやな王城に暮らす皇帝は、その最たるものだろうと思っていたのに。

(痛んだりは、しないのかな……?)

 痛みに苦しまねばならぬのが、どれほどつらいかは、トリンティアにもよくわかる。

 ウォルフレッドのひだりかたからむなもとにかけては、ひときわ大きな傷跡がある。少し引きつれた白い傷跡に、トリンティアは無意識に手をばした。ふれた肌はあたたかく、手のひらにとくとくとどうが伝わってくる。と。

「陛下? まだお休みでいらっしゃいますか?」

 とびらの向こうから、ノックの音とセレウスの声が聞こえた。たん

「ひゃっ!?」

 突然、かくせいしたウォルフレッドが目にもとまらぬ速さで身を起こし、まくらもとに置かれていたけんを取る。ほうり出されたトリンティアは、思わず悲鳴を上げた。

 険しい顔で扉とトリンティアにばやく視線を巡らせたウォルフレッドが、状況を理解したのか、大きく息をつき、剣のつかから手を放す。

「思いがけなく寝過ごしたようだ」

 扉の向こうへ告げたウォルフレッドの声に、「失礼いたします」とセレウスとゲルヴィスが室内に入ってくる。

 が、寝台にへいふくし、ふるえるトリンティアは、二人を見るゆうなどなかった。ようやく腕の中から解放された喜びより、動けば問答無用でられそうな恐怖が心をめている。

「陛下がのぼり始めても起きてらっしゃらないなんて、めずらしいっすね」

 ゲルヴィスの意外そうな声に、ウォルフレッドが応じる。

「痛みなく眠れるのがこれほど安らげるとはな。思わず、前後不覚に寝入ってしまった。このむすめは『花のおと』でちがいないらしい」

 視線が集中するのを感じるが、平伏するトリンティアは身を縮めることしかできない。

「……が」

 ウォルフレッドの声がげんそうに低くなり、トリンティアはぎゅっと目をつむる。もしかして、寝ている間に何かそうをしてしまったのだろうか。

「セレウス。わたしを見くびるな。いくら何でも、とりがらに手を出すほど、えてはおらぬ。薄物はやめろ。骨が当たって痛くてかなわん。夜着は厚手のものにしろ」

 一方的に命じたウォルフレッドが不意にトリンティアを呼ばう。

「おい、鶏がら」

 言われなくとも、自分のことだとしゆんさとる。

「これからしばらく、お前は抱き枕だ。ひとまずお前は肉をつけろ」

「だ、抱き……っ!? は、はいっ!」

 抱き枕なんて仕事があるのだろうか。だが、『冷酷皇帝』相手に疑問など口に出せるはずもなく、トリンティアはとんに顔をこすりつけるようにしてぬかずいた。

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