新人
「なんだ、それじゃあ、言ってくれればよかったのに。」
「それが言ったんですど…」
と、長良 正平は肩をすくめる。それを隣の男が余計なことを言うなと足を踏んだ。思い出せば、確かに、目の前にいる青年は朝に何やら話してきた…気がする。
「庄内さんって朝、すこぶる機嫌が悪いじゃないですか。」
「そうねー、ほんとなんも聞こえてないから、今度から朝に私に関わらない方がいいよ。んで、君の名前は?」
先程長良と名乗った新任の横の男に顔を向ける。朝の庄内の不機嫌を知ってるからには、この施設にある程度はいるはずだが、庄内には全く心当たりはない。
「揖斐って言います、今は違う配属なんで、直接会ったのは初めてです。どうも。」
軽くぺこりと頭を下げて男は笑う。
「庄内さんの朝嫌いの噂は相当広まってますから、知らないのはこいつくらいですよ。」
「へえ、長良くんはここに来てどのくらい?」
「ちょうど二年くらいです!」
「二年かぁ…。」
ここ、崎臨研究所では入ってから一年は研修として過ごす。一年目の初めは研修員で集まって行動することが多いが、後半部分は研究員の元で助手として現場に慣らし、ようやくそれぞれの配属について一人前の研究員として認められる。二年と言ったら、まだまだひよっこだ。長良には悪いが、庄内には誰かの世話ができるほど器用ではない。
(あれほど助手はいらない、と言っておいたじゃないか…)
上司の顔を思い浮かべ、心内で毒づく庄内とは裏腹に、長良はワクワクと瞳を煌めかせている。これも新任の特徴だ。それを新鮮に受け止めつつ、自分に割り当てられた研究室の前で立ち止まる。
「さ、汚いけど、ようこそ我が研究室に。」
ポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。研究室に足を踏み入れた瞬間、落ち着く空気が庄内を出迎えた。それをめいいっぱい吸い込んで吐き出す。後からひょっこり顔を覗かせた長良が「おお。」声を漏らす。窓に近づくと手にある程度の力を込めて軋む雨戸を開けた。すっかり東の空から上空に登った明るい日の光が部屋に差し込んでくる。最後に一息雨戸を強く押し込み、振り返った。
「電気消して。」
「あ、はい。」
電気の光ほどではないが、日光である程度の物は見える。この状態が庄内にとって最も集中できる場なのだ。
「先に言っとくけど、これが、私のスタンスだから、通常はこれで行く。」
「はい。」
神妙に頷く長良に座って、と書類に埋もれた椅子を指さした。本来それは置き場がなく仕方なく机がわりに使ってる物だ。長良は恐る恐る書類をどかし、左右を見渡してから、少ないスペースになんとかおいた。その際に何かが見えたのか、長良の頭の上に疑問符が浮かぶ。それから、何かを理解したらしく、顔を綻ばせた。
「どうした?」
「いえ、こんな方向からの開き方があるなんて知りませんでしたから、ちょっと驚いただけです。」
腰掛けて満足げに言う。彼が目を通した書類に目を向けると、数週間前から集めだした資料の一つだった。なるほど、二年で早々に庄内の下に配属されただけあるようだ。あんなに助手入らないと念押ししても無理に配属させたのだから上にも何か考えがあるのかもしれない。
「私はいつも通りに続けるから、好きなことしてな。」
「はい。あ、今日の予定を伺ってもよろしいでしょうか?」
「今日の予定といえば、昼食あとくらいに上から呼び出されたことくらいかな。」
「わかりました。」
⚙️
それから沈黙が落ちる。手持ち無沙汰になった長良は好きなことをしてな、と言われたことを思い出し、床に散らばる書類に気をつけながら、本棚へと向かう。端の方に立てかけられていたファイルを手に取ると、パラパラとまくってみる。どうやらそれは庄内の過去の研究内容の記録のようだった。一年目の研修のおかげで、ところどころは内容はわかるが、細部まで見ると長良には手に負えないような内容のメモがぎっしりと記録されている。それでも、一つの希望をかけ、丹念にめくっていると、ようやく目当てのページにたどり着いた。胸が高鳴るのを感じながら、口の中でつぶやく。
『ヒトとAIの差異について』
なんともシンプルな題が論文の最上部に記載されている。それは長良にとって、苦しくも懐かしい日々を思い出させる。大学卒業論文。長良は、この論文を先行研究として、さらにこの道を選ぶと決めたのだ。ようやく庄内夏樹の元へ下に配属すると言う形ですることができた。今は自分が至らぬところが多々あるから、こんなに庄内も扱いが冷たいのかもない。
早く色々なことを身につけて役に立たなくては。
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