第3話
猫が落ちた……。
あれから数時間が経った。
あの後、どうやって帰ったかあまり記憶がない。
僕は自宅アパートに帰るなり、倒れこむように床に伏した。
頭の中で、何度もあの光景が繰り返し、繰り返し再生される。
手を伸ばせば届いたかもしれない距離、あの時立ち止まってなどいなければ……。
僕は、かけがえのない一つの小さな命を目の前で見殺しにしてしまったのだ。
思考も同じところをぐるぐると周り続ける。
僕は、真っ暗な部屋の中で、後悔と懺悔を幾度となく繰り返していた。
『――5月12日、ただいま入ってきたニュースです。俳優の○○さんが、本日自宅マンションにて自殺しているところを関係者が発見しました。○○さんとは一昨日から連絡が取れておらず、不審に感じた関係者が……』
床に倒れこんだ時にリモコンに触れたのだろう、いつの間にかテレビがついていた。
「自殺……」
あの猫も、自ら進んで命を絶ったのだろうか。
まさかあの状況で足を滑らせた、なんてことはあるまい。
それにあの落ち方。あれは、本当に、まるで……。
どちらにせよ、目の前の命を救えなかったという事実は変わらない。
もう過ぎた事、にするしかないのだ。
そう無理やり自分に言い聞かせて、僕はようやっと思考のループから抜け出す。
その日はいつもより大分早く布団へ入った。
身体は疲れているのに、頭だけは妙に冴えていて、中々寝付けなかった。
――次の日の朝、は来なかった。
初めに違和感を感じたのは、布団から出てテレビをつけた時だった。
『5月12日木曜日、今日の天気のコーナーです――』
おや?と思った。
確か5月12日は昨日じゃなかったか、と。
携帯電話を見る。日付表示は、……5月12日。
慌てて、北川とのメールを開く。昨日大学で落ち合う前にやり取りをしたはずだ。
……ない。
北川と交わした直近のメールは、一昨日のものだった。
違和感は、現実を受け入れまいとする僕の肩を掴む。
それを振り払うかのように、僕は鞄を引っ掴んで大学へと走った。
違和感は次第に確信へと変わる。
講義室で行われた授業は、昨日のものと全く同じだった。
北川の話す内容もそうだった。(「なあ、知ってるか?……」)
食堂で三浦さんと会うタイミングだって一緒だ。(「やあやあ、労働者諸君。」)
北川の少し砕けた物言いも、三浦さんの爽やかな笑顔だって、いつも見慣れたそれだった。
まるで、一晩寝れば明日が来るように、どうしようもなく当たり前なくらいに。
僕は一晩寝ても明日は来なかったよ。と、心の中で呟く。
……そうか、僕は昨日をもう一度繰り返しているのか。
拍子抜けするくらいに、急に腑に落ちた。
そして、はたと気が付く。
もし本当に昨日を繰り返しているのだったら、またあの猫が落ちるのではないのか、と。
僕は迷った。
今自分に降りかかっているこの奇妙な現象について、二人に話すかどうか。
二人はどんな反応をするだろう。
きっと、その場では軽くあしらうように笑った後、結局最後には「何かあったのか」と心配してくれるのだ。
そして、僕が「何もないよ」と言うと、こっそり裏で二人で相談し合うのだ。
どこまでも純粋に、真っすぐに、一人の友人のためだけに。
あの二人は、そういう人間なのだ。
だからこそ。
だからこそ僕は話さなかった。いや、言えなかった。
このかけがえのない友人たちに、無駄な心配はかけたくない。
彼と彼女にとっての、一度きりの今日という日のためにも……。
数十分後、僕は再びあの橋にいた。
今日もいる。あの時と寸分違わない姿勢で、やはりジッと川面を見つめていた。
「救うんだ」
僕は手を伸ばす。
刹那。僕の頭の中で記憶と思考が巡る。
『……自宅マンションにて自殺しているところを――』
果たして、あの猫は救われることを望んでいるのだろうか。
あの猫自らの意思で、あの猫なりの思考で、結果あのような行動をとる判断したのではないのか。
僕が今差し伸べているこの手は、一体誰のためか。
悲しみたくないから、悩みたくないから、ただ自分のためだけに。
結果はどうなろうが、「助けようとした」という事実を自分の中で持つためだけに。
僕が今からする事は、あの猫の、あの友人たちの、そしてこの世界にとって本当に有益な事なのだろうか。
思考で動きが止まる。
時すでに遅し。
いや、本当はわかっていた。怖かったのだ。
手を伸ばす事で、この件に関わってしまう。
手を伸ばしても尚、あの猫を掴めなかった時。
きっと僕は、一生涯後悔するだろう。
それが、怖かったのだ。
昨日、いや、一回目の今日と同様に、猫は落ちた。
どうしようもなく、世界は運命に従順だった。
何かの間違いで猫は落ちませんでした、なんて甘い想像をした僕を嘲るように。
僕は薄々感づいていた。
きっとまた明日は来ないだろう。
これはきっと、僕に、僕自身に原因があるのだ。
小さな小さな、偽善者が笑う。
目が覚める。
――やはり明日は来なかった。
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