第54話

「君の中の【蜘蛛】はまだ全ての力を出していない」


 それは病院のソファで高麗に言われた言葉だった。


「そもそも邪霊というのは生贄の体に憑依して異能を生ずるものだ。ただし君の中の【蜘蛛】は君の体内に取り込まれたことによって邪霊の特性が大きく変質している」


「変質って……?」


 高麗はしばらく悩み、そして諦めたかのように晶に答える。


「【蜘蛛】は君で、それはつまり、君自身も【蜘蛛】なんだ。君は自我を保ったまま、もう一段階上のレベルで【蜘蛛】の能力を使えるはず。簡単に言うと――


【蜘蛛】に成れる」


「それが邪霊を成仏させる唯一の手段だ」


 ▽


 若菜は目を瞠った。晶の体が見るも明らかに変態し始めていたからだ。


 晶の口から漆黒の霧が噴き出すと、それは八ツ脚とともに晶の体を包み込む。


 そしてゆっくりと大きな球状の物体へと変化した。


「本野……!?」


 斗真が黒い塊になってしまった晶を呼ぶが応答はない。


 ただ、これまでにない大きな霊力が封印の間に満ち、それは全て晶だった塊から発せられていた。


 その間も【猿】は結界を喰らって外に出ようともがいている。


「まさか」


 星野が黒い球体を見上げて戦慄する。


「【蜘蛛】に体を明け渡すつもりか!」


「ど、どういうことだよ!?」


 斗真の焦った声がその場に響き渡る。


「なるほど」と若菜が黒い球体から目を離さず言う。


「晶ちゃんはその存在自体が呪器として機能している。これまでは彼女の意思で【蜘蛛】を完全に抑えつけていた……それを解放しようというのか!」


 若菜の顔に焦りが見える。


 黒い球体の中身がもぞもぞと動き出すと、その場の全員が凍りついたように動けなくなった。


「さあ……ホンモノの【蜘蛛】のお目見えだ」


 バキンッと異音が鳴ると同時に、【猿】が結界から飛び出した。


 凪の体はまっすぐに黒い球体に襲いかかり、鋭い爪で何度も何度も表面を切り裂く。


 しかしその傷はすぐに修復されてしまった。


 小さな地響きが起こり、封印の場の地面がボコボコと線を描くように盛り上がっていく。


「これって……!」


 強烈な邪気とともに地面に浮かび上がったのは【蜘蛛】の呪画だった。


 八つの眼窩が赤く輝き、ギョロリと【猿】を注視する。


「伏せろ!!」


 涼のかけ声とほぼ同時に、黒い球体から巨大な脚が勢いよく生える。


 その衝撃で凪の体は吹っ飛ばされた。


『ぎゃんッ!!』


 黒い球体は更に変化し続け、ついに完全な【蜘蛛】の姿へと成った。


 その圧倒的な大きさと圧力に辰海が唇を震わせる。


「これが、これが【蜘蛛】の邪霊――晶さんはどうなった?」


「邪霊の気配の中に本野の気配を感じる。あいつ……考えがあるってこういうことかよ」


 凪を追う前に理事室で晶が言ったことを涼は思い出す。


『高麗先生に言われたんだ。私はもう一段階【蜘蛛】の力を出せるって。それをやりたい。お願い、協力して。それが邪霊を成仏させることにも繋がるから』


 涼は破魔弓を強く握りしめた。


 晶はああ言ったが、目の前で起こっていることはどう考えても晶を生贄に【蜘蛛】が復活したとしか思えない。


 もしも晶の気配が消えたら。


 その時は自分達が【蜘蛛】を倒さなくてはならないのではないか。


「俺は本野を信じるぞ」


 強い意志を秘めた目をして斗真が言った。


「あいつがいなかったら俺もお前らも死んでた。あいつは俺達の英雄ヒーローなんだ。だったら俺はあいつのことを信じて、言われたことをするだけだ!」


 斗真はそう言い放ち、地面から起き上がろうとする【猿】を再び炎の柵で囲った。


「【蜘蛛】を援護するぞ!」


 斗真の言葉にはっとした辰海と涼は顔を見合わせて大きく頷いた。


 頭上ではゆっくりと動きを確かめるように【蜘蛛】が脚を伸縮させている。


「は、はは。ハハハ! 晶ちゃん……そんな姿に成って、世界でも滅ぼすつもりかい? もはや邪神じゃあないか!」


 若菜は喉を引き攣らせながら高笑いをした。


 そんな若菜に対して星野が素早く細く煙を吐いて捕縛を試みる。しかし若菜はスーツの裾で煙をはたき落とし、宙を舞って星野と距離を取った。


「ならばこちらも邪霊の力を最大限使わせてもらおう。【猿】!」


 若菜が【猿】に命令を下すと、凪の体に縫い付けられた札が鈍く発光し始めた。


 それはみるみるうちに凪の体を変質させていき、ついには【蜘蛛】と同等の大きさにまでに膨れ上がった肉の塊に成った。


『ボォぉぉぉぉ――ッ!!』


 もはや人間の声ではない、【猿】の発する超音波が封印の場の壁にヒビを入れていく。


「和屋ァーーー!!」


 原型を留めない凪に悲痛な顔をした斗真が叫ぶ。


 しかしその声は届かず、【猿】は腕のようなブヨブヨした肉を斗真目がけて振り落とした。


「くっ!」


 すんでのところで攻撃を避けた斗真の横で、涼が破魔矢を連射する。


 矢が腕に刺さると【猿】は轟音を発しながら悶え、だらりと腕を脱力させた。


「よし! 涼、もっと撃て!」


「んなこと言ったってあと五本もねーんだが!」


「四肢を狙うんだ!」


 辰海が冷気で【猿】の関節を凍らせ、一瞬の隙を作る。


 涼は言われるがまま手足を狙った。


『ぎゃうううううう!!』


 【猿】は破魔矢を受けて地に沈み、その巨躯を叩きつけるように地面を転げ回る。


 その間【蜘蛛】は腹を上下させながら、赤い目玉で周辺を見回していた。


「頑張るねえ」


 その時、星野と激しい鍔迫り合いを繰り広げていた若菜が生徒達を嘲笑った。


「晶ちゃんのためにってか。でもさー、君達晶ちゃんの一体何を知っているの?」


 星野の短刀を鞭で受けながら、若菜は続ける。


「ねえ? 先生もちゃんと教えてあげればいいのに。本当は晶ちゃんがどんな子なのか。かわいい顔して暴力で警察沙汰を起こした大問題児じゃない。君達、晶ちゃんに騙されてるんだよ! あはは!」


「なっ」


「は?」


 若菜の挑発に斗真と辰海が思わず動きを止める。


 若菜はにやりと口角を上げ、再び【猿】に命令を下した。


「やれ!」


【猿】は足の肉をバタつかせて、地面を波立たせた。


 それは封印の場が崩れ落ちる勢いで、天井からガラガラと瓦礫が降り注いだ。


 立っているのもやっとの状態で涼は再び破魔弓を構える。


「暴力? 警察沙汰? ンなこたぁ承知の上だ。何があったかも知らないで、テメェがあいつを語ってんじゃねえ!」


 ビシッと弦が弾ける音がした。


 目が眩む程の輝きを放つ矢が、【猿】の巨体へ放物線を描いて迫っていく。

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