第40話

 この感覚を晶は知っていた。


 慌てて視線を白鷺から扉に移す。


 期待と不安が入り混じり、晶は唇を引き結んだ。


 一拍後、バンッと大きな音を立てて石の扉が開かれた。


 同時に大量の霧が勢いよく石室内に流れ込む。


 無形の霧は数多の手に形を変え、まっすぐに晶に伸ばされる。


 しかしそれを見越したように張られた結界に阻まれ、白い腕は文字通り次々と霧散していった。


「これは……なんて酷い邪気を纏った霧だ。晶ちゃん、あまり吸わない方がいいよ」


 若菜の忠告も耳に入らない様子で、晶は霧の向こうにじっと目を凝らす。


 そして霧で覆われた視界の端に現れた人物に、晶は思わず声を詰まらせた。


「辰海くん!」


 霧の中から悠然と近づいてくるのは、大きな眼鏡で顔を隠した辰海の姿。


 しかし、器用に霧の流れを操る様は常人ではない事を示している。


 改良された十字架は辰海に【鯨】の持つ『凍てつく力』を与えたのだ。


 辰海は素早く視線を走らせ、その冷たい眼光をさらに厳しいものにする。


「その子を放してくれる?」


「嫌だと言ったら?」


 邪霊の力を使う辰海を前にしても、若菜は悠々と言葉を返した。


 しかもわざわざ辰海の勘に触るような言い方を選ぶ。


 若菜はわざと辰海を挑発しているのだ。


 なんとか若菜を止めようと自由の利かない体を捻るが、呆気なく口を塞がれてしまう。


 辰海はそれぞれ晶と白鷺と【蜥蜴】を見て、瞬時に置かれた状況を把握し忌々しそうに口を開いた。


「それで? アンタは何がしたいわけ。すぐに強い霊能力者が来るよ。さっさと退散した方がいいんじゃない?」


「今晶ちゃんと大事な話をしてるんだ。邪魔しないでくれるかな」


「人質とって何が話だ。分かってンの? 今ここに邪霊三体いるんだけど。どっちの分が悪いか少しは考えなよ」


 辰海のあからさまな態度に若菜は「生意気ィ……」とぼやきつつ、足元の【蜥蜴】を示すように靴先で地面をコツコツと叩く。


「こいつはなんだか弱っているようだし、ここには贄になる生徒もいない。君との交渉は晶ちゃんの後だ。【鯨】のうつわ。大人しくしていろ」


 ピンと糸が張り詰めるような緊張感が場に漂う。身動きの取れない晶、意識のない白鷺。


 対峙する若菜と辰海はお互いに見えない何かをぶつけ合うかのように睨み合う。


 そんな中、ドタバタとした足音が石室に響き渡るとはその場の誰もが想定していなかった。


 緊迫する状況下、忙しなく階段を駆け下りる音がその場にいる全員の注意を引く。


 晶は一瞬だけもう一人の仲間である斗真の姿を思い浮かべた。しかし果たして斗真の足音はこんなにもけたたましかっただろうか。


 騒音の主はすぐに判明した。


「転校生ー!! どこだコラァ!」


「この声は……!?」


 霧の中から響く声の持ち主に気付いた晶は、最悪の展開に顔を青ざめさせる。


「涼くん!? 来ないで!!」


 何故涼が地下にいるのか。何故大声で晶を呼んでいるのか。何も分からないままに叫ぶ。


 最悪なのは、涼が生贄の条件を満たしているということだった。


 本殿では涼に取り憑かずに逃亡を図った【蜥蜴】だったが、今は若菜が居る。


 晶と同じように邪霊を無理矢理飲み込まされる危険があるのだ。


 晶の願いも虚しく、涼は駆け足のまま晶たちのいる石室内に飛び込んで来た。


「ここか! ……って辰海!? なんでここに!?」


「それはこっちの台詞なんだけど」


 そのまま辰海に詰め寄り声を上げる涼。


 だが徐々に周りが見えてきたのか、若菜に拘束される晶、そして死んだように動かない白鷺へと目を向け絶句する。


「な、な、なんだこりゃ!?」


「いらっしゃい。晶ちゃんの友達? グッドタイミングだ」


「涼くん逃げて!」


 晶の剣幕に戸惑いながら、涼は霧を遮る見えない壁をガンガンと叩く。


「これは結界か……? おいお前、転校生に何してんだ!」


「別に話をしているだけだよ。君が僕の言うとおりにしてくれたら晶ちゃんは放してあげる」


「ダメ! 逃げて!」


「どうなってんだよこの状況!」


 訳が分からないといった風に涼は頭を抱えしゃがみ込む。


 その手に握られているものを辰海の視線が捉えた。


「涼、それ何」


 涼の手にある破魔弓に視線を注ぎながら辰海が問う。


「は? これは邪霊を祓うための弓矢だ」


「撃て。援護する」


「はあ?」


「この邪魔な結界をぶっ壊すんだよ」


 瞬時に辰海の体から大量の霧が生み出され、結界の外を真白く塗り潰し始めた。


 晶は二人の姿が見えなくなってしまったことに困惑するが、耳元で聞こえる若菜の笑いを噛みしめるような声にぶるりと身を震わせる。


「ふふ、さあ何をするつもりなのかな?」


 大きな渦を描きながら霧が一点に収束する。


 霧が凝縮され、古びた矢尻の先に集まっていく。


 霧の持つ邪気と破魔矢は相反する力を持ち、互いに反発し合う。


 強烈な力のぶつかり合いに弾き飛ばされそうになりながら、涼はやっとの思いで弓を引いた。


「今だ!」


 辰海の合図とともに矢が放たれる。


 大きな力のうねりを伴いながら空を切り裂き、鈍色の矢尻が結界に突き刺さった。


 何もないはずの場所からバキンバキンとひび割れる音が立つ。


 晶の目に映ったのは、阻まれていたはずの霧がひび割れに沿って徐々に漏れ出す様子だった。


 そして最後に大きな音を立てて結界が崩れ去る。


 若菜は目を見開いて口元を吊り上げた。


「ワーオ。何それすごい」


 地に落ちた破魔矢を一瞥し、晶を抱えたまま若菜は身を翻した。


 同時に霧の大波が二人を襲う。


「辰海くん! 理事長を」


「そうやって人の心配をしている場合かな?」


 不意に晶の首元でガチャリと無機質な音が鳴った。


 映画やドラマでしか見たことのないそれに、晶の体はなすすべもなく固まる。


 若菜目がけて迫った霧もピタリと止まった。


「銃、なんて。あなた本気なの?」


「モチロン全部本気さ。まずは霧を消してもらおうか、【鯨】の器。邪気で悪酔いしそうだ」


 深い霧の中に舌打ちが響く。


 しばらくすると霧が忽然と消え去り、苦々しい表情をした辰海と呆気にとられた涼の姿が浮き彫りになった。


「女子高生に銃突きつけて恥ずかしくないの」


「生憎仕事なんでね」


 結界一枚破ったところで若菜には少しも焦りの様子はない。


 銃を隠し持っていたのだから若菜は初めから有利であり、あえて辰海達を好きにさせたのだ。


 目の前の邪霊憑きから少しでも情報を引き出すために。


「おかしな話だ。君達邪霊に取り憑かれて困っているんだろう? その邪霊を楽しく有効活用しようって言ってるのに何が不満なんだい」


「あんたのやり口が気に入らないんだよ」


「私達はそんな事望んでない!」


 銃を突きつけられながらも食ってかかる晶に若菜は盛大なため息をつく。


「子供には分からないか。残念だ。さあ、結界も通用しないみたいだしさっさと始めようか」


 そう言って若菜は銃口を下げ、石の床の中で丸くなる【蜥蜴】にまっすぐ狙い定めた。

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