第37話

「お、親、親父呼んでくる!」


「待って涼く――」


 晶の耳にはボタボタという水音と、何かが床を移動する音が聞こえていた。


 それは涼が向かおうとする本殿から発せられている。


 晶がそれを説明する前に、本殿からビシビシッと木の裂けるような異音が鳴り響く。


「ラップ音まで……」と青ざめた涼が呟いたその時だった。


「ぐあーーッ!!」


 本殿の中から男性の叫び声が響いた。


「親父!?」


 涼が本殿へと駆け込むのを晶も追う。


 嫌な予感がひしひしと押し寄せていた。


 靴のまま木でできた廊下に上がり、参拝時には入れない本殿の奥間へと二人は走る。


 ズリッ……


 不意に何かを引きずるような音が響き、晶は足を止めて周りを見回す。


 本殿の明かりが奥から順に消えていく。


 背筋がどんどん寒くなる。


 晶は足を動かそうとするが、一歩が鉛のように重い。


 またどこかからズリズリと音が響く。


「なんだってんだ……」


「涼くん、離れないで」


 視界がどんどん暗くなっていく。


 それにつられるように、晶の呼吸はどんどん浅く速くなっていった。


 ズル、ズルッ……


 音だけがする。


 大きな何かが床に擦りながら移動する音。


 明らかに近付いてきているそれだが、視認できない。


 逃げようにもどこに逃げればいいのか分からなかった。


 そしてついに、それは現れる。


 視界の端、床と壁の繋ぎ目から、ぬるりと何かが這い出た。


「――っ」


「うわああああ!?」


 ソレはボタリボタリと自らの体から濁った液体を落としていた。


 涼が飛び上がって驚く横で晶は半歩下がって構える。


 何度遭遇しても慣れることはない非現実が、地を這って迫ってくる。


 二人の視線の先では、手足がおかしな方向に曲がった人間がずるずると廊下に這いつくばっていた。


「ひ、ひ、人なのか?」


「違う、と思う」


 【蜂鳥】の時と同じだ。と晶は頭の片隅で思った。


 あの時も人間の形をしたモノが邪霊に成った・・・


 目の前の恐ろしい物体もきっと、何かに成ろうとしている。


「二人とも下がりなさい!」


 切羽詰まった声とともに、ソレを追いかけるように死角から覚が現れた。


 作務衣がボロボロになって体に血が滲んでいる。


「親父!」


 片目から血を流す覚が手にしていた弓矢を放った。


 ビンッと弦が鳴り、矢は標的の曲がった脚部に命中する。


『ぎゃ あ゛あ゛あ゛あああーーーーッ!!』


 矢を受けたソレは絶叫し、本殿の床で溺れるようにバタバタと四肢を暴れさせる。


 そして徐々にその身を床に沈ませながら、衝撃波のような風を巻き起こした。


「くっ……! 風が、」


 晶はあまりの暴風に目を閉じる。


 風が止み、晶はゆっくりと目を開ける。


 次に目に入ったのは、本殿の五角形の床にみっちりと身を収めた爬虫類だった。


「四つ目の、呪画……!!」


 シンプルな点と線に黒い眼窩を持つ四つ目の呪画、【蜥蜴】。


 木の床に裏側から貼り付くように腹を見せて、グネグネとその身を捩っている。


 床の中で身悶えする【蜥蜴】の尾には、覚が放った古い矢が突き刺さっていた。


 それが床と【蜥蜴】を縫い留めているようだ。


 特殊な矢なのか、ジタバタと逃げ出そうとする【蜥蜴】の動きを封じている。


「親父、無事か! なんなんだよこれ!」


「ああ。アレが急に現れたものだから捕らえようとしたんだけど……こっぴどく抵抗されてこのざまだよ。すぐに白鷺家に連絡を。これは白鷺家が管理している邪霊だ」


 【蜥蜴】はつんざくような叫び声を上げながら、床の中でバタバタと暴れ回っていた。

 晶は「すごい……」と思わず声を漏らした。


 覚は呪画の状態の邪霊を矢一本で動けなくしたのだ。


 感嘆する晶に涼が一喝する。


「白鷺に連絡!」


「う、うん!」


 晶はハッとしてスマホを取り出し白鷺に電話をかける。


 数回の呼び出し音の後、通話が開始された。


「理事長! 大変です。神社で今――……?」


 晶の切羽詰まった呼びかけに、白鷺は反応しない。


 それどころか遠くからくつくつと笑う声が晶の耳に入ってきた。


 晶の背筋がゾッと冷える。


 電話の相手が白鷺ではないと晶が気付いた瞬間、通話口から聞いたことのある声が響いた。


『晶ちゃん? わあ、ほんと丁度いいところにかけてくるね』


「――っあなたは」


『うん、僕。若菜だよ。白鷺理事長はね、捕まえちゃった。返してほしかったら、地下封印の場に一人でおいで』


 晶は頭の中が真っ白になった。


 白鷺が若菜に捕まった。そして晶の身柄まで押さえようとしている。


 晶はギリッと歯ぎしりをし、目の前の邪霊と電話口の若菜を天秤にかける。


 怪我人の覚、邪霊に狙われる恐れがある涼、そして【蜥蜴】の呪画。


 怨み屋に捕まった白鷺。


 晶は決断した。


 これまで白鷺とともに積み重ねてきたことから考えれば当然だった。


 伏せていた目を開き、若菜に向けて言い放つ。


「今忙しいんで無理です!!」


『は?』


 晶はそのまま勢いよく通話終了を指でタップし――本殿の床にスマホを叩きつけた。


 ビシッと音を立てて画面にヒビが入るのを気にも留めず、晶は苛立ちをあらわにする。


「クソ!!」


「お、おい……?」


 怒りで瞳孔が開きっぱなしの晶は自分自身を宥めるように大きく深呼吸をした。


 状況は悪い。若菜の誘いを蹴って目の前の邪霊を優先した以上、時間を無駄にすれば白鷺の身が危険だ。


 晶は割れたスマホを拾い上げ、すぐさま高麗に連絡を入れようとする。


「!! 危ないッ――!」


 スマホを見ていた晶は涼の声に顔を上げた。


 そんな晶の目の前に、剥がれた床の一部が襲いかかる。


「きゃあ!?」


 バランスを崩した晶は間一髪で床材を回避する。


 唐突に飛んできた床材には、切り取られた【蜥蜴】の尾と、それを刺したままの矢が付いていた。


 晶はスマホを取り落としながらもなんとか体勢を整える。


「まずい! 尾を切り落とした!! 本体が逃げる!」


 尾を自ら切り離して自由になった【蜥蜴】の呪画は、床の中を猛スピードで這い回り、本殿の外へと飛び出していく。


 尾を切り消耗したのか、霊感のある生徒が目の前にいるにも関わらず逃亡を選んだのだ。


 ヌルヌルと地を這い、本殿から出た【蜥蜴】はある一ヶ所を目指して進んでいた。


「あっちには櫻岩が!」


 櫻岩は地下へと続く穴を塞いでいる。


 そっちに向かうということはつまり【蜥蜴】は地下に潜ろうとしているということだ。


「逃げられちゃう……!」


 覚のようにはできないかもしれないが、なんとか足止めしないと白鷺を見捨てた意味がなくなってしまう。


 しかし、晶の目の前で櫻岩が激しくなぎ倒され、【蜥蜴】は地下へと続く穴へと姿を消してしまった。

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