第35話

 ▽


 祭の後――。


 生徒たちの熱気が消え失せた静かな校舎に、こつんと革靴の音が鳴った。


 鳥の翼のようなデザインとメダリオンが施されたそのビジネスシューズは、窓から差す月明かりに浮かび上がってはまた影に沈んでいく。


 革靴を履いているはずの人間の姿はない。


 ただ革靴のみが自らの意思で廊下を歩んでいるかのように、音を鳴らし進み続けている。


 つま先から続く長い影だけは人の形をして、ゆらゆらと廊下を這いながらまっすぐにある場所へと向かっていた。


 漆喰のプレートに白い縁取りで書かれた『理事室』の文字。


 黒い革靴がその扉の前でピタリと止まる。


 音もなく扉が開く。そこに誰がいるか最初から分かっているかのように、革靴が喋り出した。


「こんばんは、よい夜ですね。白鷺理事長」


 理事室の大きな窓の前では、声をかけられた白鷺がゆっくりと振り向いた。


 突然の来客。しかも実体のない相手を前にして、白鷺の目がすっと細まる。


「君は何者だ? どうやって校舎に入った? どうして」


「部外者がここまで来れたのか。って? はは、そうだよなあ。警備厳重だもんな」


 白鷺の疑問を遮るように革靴が言った。何がおかしいのか、笑いながらその一歩を部屋に踏み出す。


 理事室の敷居を跨いだ瞬間、革靴から脚がぬるりと現れた。


 まるで透明なヴェールが溶けていくように、その姿が露わになっていく。


「この部屋は特殊ですねえ。術が効かないようになっている」


 黒いスーツを着た茶髪の男――若菜は、犬歯をちらつかせて笑った。


 いつもの芸能人風の装いはフリージャーナリストとしての姿、そして揃いのスーツをきっちり着込んだ今の彼が本業の姿だった。


「ちょーっと話しがしたいんですよ。白鷺理事長、あんたと大事な話を」


「断ると言ったら?」


「あんたにとって悪い話ではないはずだ。まあ、話を聞いてくれないのなら……このまま『転校生』の晶ちゃんのところに行くだけですが」


「正直どっちでもいいんで」と続ける若菜に、白鷺の鋭い視線が刺さる。


「もちろん個人的には? おじさんより女子高校生とお喋りしたい気持ちは大いにあるんですが。晶ちゃんには警戒されてるし、袖にされっぱなしだし、なんか変な用心棒がいるし……仲良くなりたいだけなのに、さっぱり上手くいかないから」


「彼女につきまとっている不審者とは君のことか」


 若菜は尚もケラケラと笑い声を上げながら「酷いなー」とぼやくが、その目は微塵も笑ってはいなかった。


 白鷺に見据えられ、若菜は肩をすぼめる。


 そして場を切り替えるように大きく息を吸い言った。


「佐倉ひなこは何故消えたのか」


 まるで舞台上にでもいるかのように天を仰ぎ、若菜は大袈裟に目頭を押さえて見せる。


「善良な教師だったそうじゃあないか。生徒たちに人気で、保護者からの信頼も厚かった。そんな人物がまさか、邪霊の封印を解いて消えた? いにしえからこの学園に巣食う邪霊を? そんなことが許されるのだろうか。白鷺理事長、もしも、あんたを悩ませる邪霊を我々が捕獲できると言ったら? この学園を救うことができると思わないか」


 若菜の芝居がかった回りくどい言葉に白鷺は合点がいったように頷く。


「君の目的は分かった。邪霊の力を欲しがっている集団がいることは知っている。しかし……それで取り引きを持ち掛けているつもりかな。君は私の質問に何も答えていない。それでは君の言葉を信じられないよ」


「これは失礼」


 若菜はスーツの襟を正し、仰々しく一礼した。


「歴史考古学的研究集団ハーリット所属、若菜ケンと申します。特殊な訓練を積んでおり、呪物の回収や邪霊の捕縛を専門としています。霊障に悩める皆様の味方です。ここにはかなり無理をして入りました。どうぞよろしく」


「君の素性は分かったが残念だ」


 白鷺は険しい表情のまま首を振った。


「歴代の理事長がハーリットと手を結ぶことを避けて来た。私もその流れをくむつもりだ」


 対して若菜は両手を広げて嘆くポーズを取り、声を荒げる。


「おいおい、だからこの学園は変わらないんだ! 我々に邪霊を差し出せばこの学園は救われる! これ以上、生徒を危険に晒してもいいのか!?」


「桜中央学園の三代目理事長として、邪霊を利用しようとする君たちと組むつもりはない。分かったら二度と私の生徒に関わらないでくれ」


「邪霊を庇うつもりか? ちっ……面倒臭い。気が変わることはなさそうだな」


「ああ、未来永劫ないね」


 毅然とした態度を取る白鷺に、若菜は苦い顔で再度舌打ちをする。


「完全に損な役回りだ。そもそもアイツ・・・が失敗しなければ……」


 ぶつぶつと恨み言を零しながら、若菜はスーツの懐に手を入れた。


 そしてコンマ数秒、目で追えない恐ろしい速度で白鷺との距離を詰める。


「……っ!?」


「分かり合えると思ったのにがっかりだよ」


 白鷺の目の前で振りかぶったその手には、銀色に光る小型銃があった。


 躱す間も無く、鈍い音と共に白鷺は床に倒れ込む。


 銃のグリップがめり込んだこめかみからは血が流れ、理事室の絨毯を赤黒く染めていた。


「邪霊を目覚めさせるには、生贄が必要ってね。丁度いい、あんたが庇おうとした邪霊に捧げてやるよ。本望だろう?」


 ぐったりとした白鷺の体を引きずりながら、革靴が廊下を歩く。


 その後を追うように残った血痕が、月の明かりを受け生々しく光っていた。


 煌々とした瞳の中には、欲望がドロリと溶けている。


 どんなに上手く姿を消しても、影と眼光は残ってしまう。


「佐倉ひなこは何故消えたのか」


 その口は同じ問いを繰り返す。


「佐倉ひなこは何故消された・・・・のか」


 その足はまっすぐに地下への入り口に向かう。


 そしてその目が見通しているものは。


「晶ちゃん。答え合わせをしよう。早くこっちにおいで」


 体育祭が終わったその日の夜、校舎には何かを引きずる音と、硬い革靴の音が響いていた。


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