第31話

 ▽


「上ノ原くん、今日買い出し行こう。それじゃ放課後」


「……は?」


 晶は頭一つ分以上高い位置にある涼の顔を仰ぎ見て言った。


 放課後そそくさと帰ってしまう涼を捕まえるために、朝から約束を取り付けることにしたのだ。


 相変わらずの目付きの悪さで晶を睨む涼。


 しかし晶は言いたいことだけ言って飄々と自分の席に戻る。


 最低限の接触で言いたいことを伝えられたはずだ。


 涼には霊感がある。つまり邪霊に狙われやすい。


 引き寄せてしまう晶達との学園内での接触は可能な限り控えたい。


 未だ息を潜めている二体の邪霊が居る中で、涼の安全を誰も保障できないからだ。


 学園外でゆっくり話せる機会はもうないかもしれない。


 なりふり構っていられない。晶の意思は固かった。


 そもそも邪霊と対峙している時点で、多少目付きの悪い人間に睨まれることなどどうということはないのだ。


 放課後になって脱兎の如く立ち去ろうとする涼に両腕でしがみ付くことでさえ、晶にとっては単なるやるべきことの一つだった。


「なんっなんだよお前は! 放せ! 俺はこれからバイトに行くんだよ」


「カフェのバイト十七時からでしょ。クラスの人数分のスポーツドリンク、私一人じゃ持てないよ」


「何で知ってんだ!? あーもうこれでもくらえっ!」


 洋服の裾を握って放さない晶に、涼は懐から出した何かを投げる。


 ぺしっと晶の額に命中したそれは、墨文字の書かれた紙。


 痛みはないが額に貼りついて取れない。


「何これ?」


「お札だお札! お前には効くだろ! 変なもん纏わりつかせてっからな」


「………………」


「な、なんだよ」


 お札を額に貼られたまま、晶は黙り込む。


 その目はじっと涼を捉えていて、瞬きすら忘れているようだ。


 涼はたじろいだ。さすがに悪霊扱いしてお札を出したのは良くなかったかもしれないと。


 僅かに良心が痛んだその時、晶が涼の腕を思い切り掴んだ。


「ねえ、どこまで見えてるの?」


「うっ」


「この前、お祓いに行けって言ってたよね。上ノ原くんには何が見えるの? 何を知ってるの? 教えて? そうしたらバイトに行ってもいいよ」


「な、何って……」


 晶はお札越しに涼を見て、そのままじりじりと廊下の隅に涼の体を追いやっていく。


 これには番長と呼ばれる涼も身をのけ反らせ、晶が一歩近づく度に一歩後退した。


 涼はなるべく晶を見ないようにしていた。


 見てはいけないと、本能で感じ取っていた。


 涼の目には、晶の背後に黒い影が覆いかぶさるように見えていたのだ。


 転校初日からずっと、小さな背に沿うように蠢く影があった。


 ブヨブヨと輪郭を波打たせるそれは、節くれだった八つの脚を持つ。


 晶が近づくと、必然的にその影との距離も近づいてしまう。


 涼は晶と関わりを持つつもりはなかった。


 ただ友人の斗真と辰海もまた妙な気配を纏うようになり、つい思わずお節介が口をついて出てしまったのだ。


 なりふり構わないと決めた晶は、とうとう涼を壁に追い詰める。


 同時に暗い影は明確にその細い脚を涼に向けた。


 段々と顔色が悪くなる涼に首を捻りながらも、晶は答えを急かす。


「教えてくれない?」


「……く、」


「く?」


「蜘蛛が……」


 近づく距離に根負けし、涼は呼吸の隙間で呟く。


 晶の背後から節足動物特有の歩脚が伸び、何かを確かめるようにゆっくりと涼の顎を撫でた。


 涼がぎゅっと目を瞑ると、ポンと涼の肩に晶の手が乗る。


 その瞬間涼は呼吸を思い出したように息を吐きだした。


「やりすぎたね。ごめん。さ、買い出し行こうか」


 涼ははっとした。完全に晶に圧倒されていたことに気が付いたのだ。


 自分よりも小さくて力も弱い女子に。


 全身に悔しさが走り、涼はギッと晶を睨みつけながら言う。


「付いて来い」


「え?」


「いいから来い! 転校生、お前を清めてやる!」


 びしっと晶を指差しながらそう言い放った涼は、そのまま勢いよく背を向けずんすんと廊下を歩いていく。


 晶は呆けながらも、そのまま買い出しに連行するつもりで大きな背中を追いかけた。 


 ▽


 程よい湿度を感じさせる澄んだ空気が肺を満たす。


 桜中央学園から徒歩十分程にある、緑に囲まれた小高い丘の上にそれは建っていた。


上櫻かみさくら神社……?」


 その名が示すとおり四方に桜の木が植えられたそこに、涼は迷いなく足を踏み入れる。


 葉桜が風に揺れる。晶は涼に従って一礼してから鳥居をくぐった。


 涼の言う清めるとは、神社参拝のことだったのだろうか。


 晶は黙ったままの涼をちらりと見るが、普段と同じ不機嫌そうな顔つきが目に入るだけだ。


 上櫻神社。地元では有名な歴史ある神社である。


 平日の夕方でも参拝客が訪れ、程よい高台にあることから散歩道が併設されている。


 晶が参拝の作法を思い出そうとしていると、涼は手水舎を通り過ぎ、まっすぐに一人の男性の元へ向かった。


「親父!!」


「えっ」


 涼の言葉に、晶は思わず驚愕の声を上げる。


 親父と呼ばれた男性は竹ぼうきを片手にゆっくりと振り返る。


 涼とは正反対のたれ眉とたれ目を更に困ったように下げて見せた壮年の男性。


「上ノ原くんの、お父さん?」


 戸惑いを隠せない晶は目を丸くする。


 涼とは似ていないが、それ以上に晶の度肝を抜いたのは、彼が神職用の作務衣を身に纏っていたからだった。


「まさか上ノ原くん、ここって……」


「うちの神社だ。あれはうちの親父。ここの宮司」


「わ、そうなんだ」


 実家が神社で、父親が宮司。お祓いを勧め、お札を持っている理由が判明した。


 身内に神職がいれば、そういうものに詳しくなるのも頷ける。 


 晶が目を白黒させている間に、涼の父、さとるが二人に寄る。


「驚いたな。涼が女の子を連れてくるなんて……しかも」  


 晶の頭の先からつま先までまじまじと眺めてから、覚はへらりと笑った。


「べっぴんさんだねえ」


「そうじゃねーだろこの色ボケ親父! 見えてるくせに!」


「ええと、はじめまして。本野晶です。上……涼くんとは同じクラスで、」


 覚に向けて頭を下げる晶。


 覚は礼を返し、隣に並ぶ涼と同じように晶を――正しくは晶の首筋の、後ろの辺りに視線を遣る。


「お嬢さん、よくないモノを憑けているね」


「だから言ってんだろ。お清めだお清め」 


「え……」


 よくないモノ。お清め。最早言葉には驚かない。


 しかし親子にそろって何もないはずの背後を見つめられると、足元が浮くような恐ろしい感覚が晶を襲ったのだった。  


あれよあれよという間に本殿を臨む小さな茶室に通され、晶は畳の上で小さく縮こまる。


「この部屋は僕の趣味なんだよ。春は桜がよく見えるんだ」


「はあ。あの、お仕事中では……?」


「大丈夫大丈夫」


 ゆったりとした所作で抹茶を差し出す覚は笑顔を崩さない。


 部屋の端では涼が蹲って何かを弄っている。


「上……涼くんは何してるの」


「盛り塩だ盛り塩! お前のせいで穢れが充満してるんだよ」


「け、穢れって」


「おいおいそんな言い方はないだろう。女の子には優しくしなさい」


 涼は険しい顔つきのまま、そのまま隅に座り込んだ。


 そして覚が晶に向き直り、一瞬、その場が静寂に包まれる。

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