二、蜂鳥の儀式
第8話
理事室から出た晶の横顔を西日が照らす。空を覆っていた雲は大方晴れ、美しい夕焼けが広がっていた。
旧館と呼ばれるこの校舎は校庭に面しており、部活動に勤しむ生徒たちの姿が見える。
晶はその様子を眺めながらゆっくり帰路についた。
穏やかな学園の日常。邪霊がいる場所とは思えない。
晶は握りこんだガムランボールを、軽く空中に投げて受け止める。ぼんやりとしながらその動作を繰り返しながら、ゆっくりと廊下を歩む。
異変が起きたのは晶が校舎の外に出ようとした時だった。
シャラン……
「え?」
掌の小さな物体が弱く振動し、小さな音を鳴らした。
晶は瞠目し、もう一度それを宙に投げる。
シャラン……
「な、鳴った! 何で急に」
晶は音の鳴る範囲をぐるぐると回り、あることに気が付いた。
晶が向く方向によって、音が大きくなったり小さくなったりしている。
金属の奏でるその美しい音色は、校舎入り口から少し離れた倉庫の方角で大きく鳴る。
片手でボールを放る動作にも慣れた晶は、いきなり霊杭に遭遇しないことを祈りながら、そのまま鈴の音が導く方向へ向かった。
校内にはまだ部活動をする生徒がたくさん残っている。いざとなったら大声を出せば誰かしら駆けつけてくれるはずだ。
シャラン……
シャラン……
シャラン……
シャリ――――ン!
「あっ」
鈴の音が突然質を変えた。
ガムランボールをリズムよく投げていた晶は、急な音色の変化にボールを受け止め損ねる。
地に落ちコロコロと転がっていくそれを慌てて追いかけると、倉庫の裏にたどり着いた。
その途端、甘い果実の香りがふわりと煙る。
そこには晶の見知った人影があった。
「あー……本野さん?」
「
短く整えられた黒髪と、四角い黒縁の眼鏡が印象的な若い男性。
晶のクラス担任の星野が倉庫裏の壁に身を凭れさせるように立っていた。
自身が担任する生徒の急な登場に驚いたのか、手に持っていたものをポトリと落とす。
「本野さん、何故ここに」
「先生こそこんなところで……ひょっとして煙草ですか」
「あ、ああ。このことは内緒にしてくれるかな。校内禁煙なんだ……」
どうやらここで隠れて一服していたらしい。
悪行を教師に見つかった生徒のように、星野は身を縮ませ落とした煙草を拾う。
「本野さんはもしかして迷子?」
「いえ、ちょっと――その鈴が転がってしまって」
「これ?」
星野の足元にまで転がっていたガムランボールは、拾い上げられると微かに鳴った。
「さっきから聞こえていたのはこの音か」
「すみません。うるさかったですよね」
「そんなことはないよ。はい」
そう言って星野は晶にガムランボールを差し出す。晶はそれを受取ろうと星野に近づいた。
「学校はどう? もう慣れた?」
「はいなんとか」
「まあ無理しないようにな。転校初日から倒れたり、不審者にも遭ったんだろ。教師で登下校のパトロールを強化することになったから」
「あ、ありがとうございます」
ガムランボールを受け取ると、星野の吸っていた甘ったるい煙草の香りが流れる。
その香りを吸い込むと、晶の舌にジリッと痺れる感覚が走る。
「どうした?」
「あ……? いえ、なんでもないです。失礼します!」
舌に熱湯が触れたような痛みはほんの一瞬で消えた。
煙草の匂いをかいでいましたとも言えず、晶はガムランボールを受け取りその場を去る。
星野がまだあの場所に居続けるのなら、これ以上の調査はできない。
ぱっと見渡したところ、霊杭のようなものもなかった。
晶は仕方がなく、今日のところは下校することにした。
「『転校生』、か」
この学園では珍しいことだ。
どこにでもいるような少女に見えて、家庭内暴力で隔離措置中とくれば教師陣が警戒するのも無理はない。
駆けていく晶の後姿を見つめながら、星野は再び煙草を咥えた。
▽
真っ赤な八ツ目がこちらをじっと見ている。
晶は暗闇に立って、その視線を全身に浴びていた。
ひとつは晶の正面に。ひとつは晶の足元に。
八つそれぞれ別の場所から、それはただ晶のことを見つめていた。
起きてるじゃん。と晶は思った。
眠ってなんかいない。沈黙しているだけだ。
それは晶が自分の中の【蜘蛛】を認識した瞬間だった。
「……ちゃん、晶ちゃん」
ポンッと頭に何かが乗った感触に、晶は勢いよく目を開いた。
隣の席の凪が「あ」の口のまま固まっているのが見える。
その視線は晶の頭上に注がれていた。
晶の頭を教科書で小突いているのは、クラス担任であり英語担当教師の星野だ。
目を開けた晶を確認すると、星野は最後にぐりぐりと教科書でつむじを押し、晶の覚醒を促した。
「よし、ようやく本野さんが起きたようなので、授業を始めようか」
「私……」
「当てるから寝るんじゃないぞ」
「す、すみません」
昨日は晶に校内での隠れ煙草を発見され小さくなっていた星野だが、授業となると至極真面目だった。
晶は几帳面な字で板書する星野の姿を見ながら、先程見た夢のことを考える。
あれが【蜘蛛】と呼ばれる邪霊の気配だったのか、それともただの夢なのか分からないが、不思議と八つの目に対する嫌悪感はなかった。
例えば指の爪が伸びることに違和感がないように、晶の中では腑に落ちていた。
敵意を感じなかったからかもしれない。
宣言どおり星野に当てられるまで、晶はそんな不思議な感覚に陥っていた。
「ごめんね、何回か起こそうとしたんだけど」
「ううん、私が熟睡していたのが悪いの」
英語の授業が終わり昼休みに入ると、凪は申し訳なさそうな表情で晶に話しかける。
晶は星野の注意を受けたことはさほど気にせず、手作りのサンドイッチを頬張る。
星野だって校内で隠れて喫煙していたのだからお互いさまだ。
口には出さずに、晶は昨日の星野の姿を思い出す。
授業中の真面目な姿よりも、昨日のような姿の方が親しみやすいと晶は思った。
「ねえ凪、星野先生ってどんな人?」
「どんなって別に普通の――」
凪は晶の問いに答えようとし、途中で止まる。
「もしかして晶ちゃん、年上好き?」
「もー。からかわないでよ」
「だって気になるよ。晶ちゃんのそういう話。私だけじゃないと思うけどなあ」
「凪だけだよそんな話聞きたがるの」
「そんなことないって! 前の学校に彼氏いないの?」
「ぶ、ごほっごほ! いないよ!」
晶は思い切りむせ返りながら慌てて凪の言葉を否定する。
「本当かなー?」
凪が片頬を引き上げた悪い笑みを浮かべていると、食堂から戻ったらしい斗真が自分の椅子に腰かけながら口を開いた。
「あんま虐めんなよ」
「虐めてませんー」
「本野は大変だったんだからな。転校早々不審者に遭遇したりぶっ倒れたり」
凪の表情は一変し、訝しげに歪む。
「え、例の不審者騒ぎ? 晶ちゃんだったの?」
「ああ、本野はあれから絡まれてないか?」
「うん、大丈夫。先生方が登下校中パトロールしてくれているみたい」
「そうだったんだ。なんで斗真はその事知ってるのよ」
「その不審者の件で先生達に色々聞かれたんだよ。本野が倒れた時、何か見てないかって」
「斗真くんが私を保健室に運んでくれたんだ。あの時は本当にありがとう」
「あ、はいはい。そういう事ね。ふふん」
「なんだよ」
サンドイッチを食べ終えた晶は若菜のことを思い返す。
人好きのする笑顔に、何かを見定めるような目。
晶が転校生だと分かると態度を変えた。
またねと言って去って行ったのが更に嫌な予感を抱かせる。
「また何かあったらすぐ言えよ」
「うん、ありがとう」
「あー斗真格好つけてる」
「お前は本当に黙ってろ……」
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