第4話
「えっ! う、うそ……消えた?」
晶は恐る恐る地面に触れる。確かにあったはずの地面の隆起も、指から滴っていた血の跡もなにもない。
夢でも見ていたのだろうか。
あまりにもリアルでグロテスクな腕が脳裏に浮かぶと同時に、得体の知れない何かを飲み込んでしまったことを思い出し、晶は一気に目眩と吐き気に襲われた。
「う、うぇぇ……」
一体どうしてこんなことに。ただ少し学校に来るのが早かっただけなのに。
校門の方から生徒の笑い声が響いてくる。
どうやら若菜は開門時間が迫ったから退散したようだ。絶対にただのジャーナリストではない。
「やば、視界がゆれる……あ」
ドサリと砂ぼこりをたてながら、晶はとうとう校庭に倒れ込んでしまった。転校初日から散々な目に遭い、既に限界だったのだ。
「おーい!? 大丈夫か!! おい、しっかりしろ!」
遠くからかけられる声に反応することもできず、晶はストンと落ちるように意識を失った。
▽
――蜘蛛がいる。
それは晶の影に隠れている。
八つの脚で晶が感じるものを知覚し、八つの目玉で晶の思考を読み取る。
それそのものの敵意は、『転校生』である晶に飲み下された瞬間消失した。
蜘蛛はもう晶の一部になっていた。
例え晶が拒絶したとしても。
▽
晶が目を覚ましたのは真白い部屋のベッドの上だった。
横に寝かされ、タオルケットでくるりと体を包まれた状態で、晶は二、三回瞬きをする。シーツに手をつきながら体を起こすと、ベッドのフレームがぎしりと音を立てた。
「私……倒れて、それから」
地面から生える腕、口の中に侵入する黒い霧。酷くグロテスクな夢を見ていた気がする。
晶はぼんやりと、ここが保健室であることを理解した。もうとっくに始業式は終わってしまっているだろう。転校生デビューに大失敗したことは間違いない。
「ああ、起きたかな」
晶が深くため息を吐いたその時、静かな部屋に柔和な声が響いた。
シャッと音を立ててベッドを仕切るカーテンが引かれる。続いて丸眼鏡をかけた男性がひょっこりと姿を現した。
白衣を着ていなければ生徒に見間違える程若く見えるその人は、ぼやーっとする晶に体温計を差し出す。
「とりあえず熱測ろうか。君は今日から転校してきた子だね。気分はどう? 朝イチ校庭で倒れちゃったんだってね。どうして校庭にいたの? 迷っちゃったかな。僕はこの学園の保健医の
「あ、ええと。高麗、先生? あの……」
矢継ぎ早に問診され答えに詰まる晶だが、高麗は気にせず内診を続ける。
「はいあーんして」
「あー」
ライトで晶の口の中を照らした高麗が、何かに気が付き眉を顰めた。
「あーーーーー……??」
念入りに口中を診られてから、晶はライトから解放される。
先程の問診から一転、黙り込んでしまった高麗は、晶に背を向けてなにやらガチャガチャと診察器具を用意し始めた。
まだ頭が働かない晶はぼんやりと首を傾げる。
「あのー?」
医療用マスクと手袋まで装着し始めた高麗に、晶は恐る恐る声をかける。
高麗はくるりと晶に向き直り、努めて優しい声で言った。
「これから舌除去手術を始めます」
「舌……え゛!?」
その信じ難い宣言に晶は覚醒し、ベッドから飛び退いた。
「じ、冗談ですよね」
ジリジリと後ずさる晶に高麗は一歩ずつ詰め寄る。眼鏡が逆光を受け、その表情は読めない。
「大丈夫。まずは表面を少し焼いてみよう」
「ひぇっ。無理無理無理無理!」
あろうことか電気メスと
「おや、思ったより元気そうだ」
ガチャリとドアが開いた。静かな動作でドアから体を覗かせたのは、背の高いスーツ姿の男性。
歳は五十半ばほどだろうか。白髪の混じる髪を綺麗に整えている。
「具合はどうかな」と晶に問いかけるその男性は、紳士という言葉がぴったり当てはまるだろう。
ぽかんと呆ける晶は、ドアノブに伸ばした手を引っ込めることも忘れ固まっていた。晶はどこかでこの紳士を見たことがある気がしたが、思い出せない。
紳士は晶の身長に合わせて屈み、顔色を確認するように覗き込む。
「ふむ、まだ良くないようだね。高麗先生」
「はい、理事長」
理事長。
その呼び名を聞いて、晶はあっと口を抑えて思い出した。目の前の紳士はリモート転入試験の際、晶の面接を担当した人物。
この学園の理事長の
「改めて、ようこそ桜中央学園へ。理事長の白鷺です。転校早々災難だったね」
「り、理事長助けてください! この人いきなり手術とか言って」
「理事長、これを見てください」
「あえ」
晶の抵抗も虚しく、高麗は白鷺に見えるように晶の口腔に舌圧子を突っ込んだ。
先程から何故こんなにも口の中を見られるのか、晶には全く理解できない。
しかし白鷺はそれを見た瞬間、険しい表情を浮かべた。
「これは……」
「間違いなく、
「ゅが(呪画)?」
疑問符を浮かべる晶に、白鷺が壁掛けの鏡を指し示す。
「自分で見てごらん」
言われるがまま鏡の前で口を開けた晶が見たものは、
自分の舌の上に刻まれた、【蜘蛛】の形をした痣だった。
「ひっ! な、なにこれ?」
舌の中央から黒い八ツ脚が広がる。まるで校庭に描かれていた【蜘蛛】の絵のように。
晶は倒れる前に起こった出来事を思い出し、口元を抑えた。
晶が見たものは夢ではなかったのだ。
混乱する晶を見て、白鷺と高麗は顔を見合わせる。
「ちなみに舌にタトゥーを入れた覚えは?」
「あ、ありません! 朝歯を磨いた時にはなかったのに。あ、取れない……」
「だから手術して取ってあげるのに」
「嫌です!」
「まあ落ち着いて。では、朝から今までの行動を教えてもらおうかな。転校生の本野晶くん」
▽
「つまり――叫び声を聞いた君と、『オカルト系フリージャーナリスト』を名乗る男が校庭に向かった。そこには人間の腕が埋まっていて、校庭一面に【蜘蛛】の地上絵が描かれていたと」
「本野さんはその男に何かを飲まされ、連れ去られそうになって抵抗。そのまま校庭に倒れてしまった」
「そうです。ただ、おかしな話なんですけど、倒れる前には腕と蜘蛛の絵はすっかり消えていたんです」
モゴモゴと口の中の蜘蛛の痣を気にしながら、ベッドに腰かけた晶が説明を終えた。
その間、晶の証言を高麗がパソコンで記録し、白鷺は晶の話を極めて冷静に聞いていた。
驚くことに二人とも晶の非現実的な話を疑わなかった。
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