第3話

 晶は見間違いであることを祈りながら、急いで校庭に降りた。若菜もそれに続く。


 校庭の中央にたどり着いた時、晶はあまりの光景に言葉を失った。


「な、にこれ」


 最初は目を疑ったが、どう見てもそうとしか見えない。


 明らかに二本の腕が、まるでそういう花であるかのように、校庭に埋まっていた。


 肘から上をピンと伸ばし、手の甲同士を合わせた状態で、赤黒く変色した指が色々な方向に折れ曲がっている。


 両親指は鋭利に切り落とされ、地面に血が垂れていた。


「あ、あ……」


 晶がソレを認識した瞬間、若菜が晶の両目を手で覆った。


「見なくていい」


 もう遅かった。晶は全てを視認していた。


 校庭の中央に咲く二本の青白い腕と、それを取り囲むように描かれた奇妙な絵を。


 まるで地上絵のように、地面を盛り上げて造られた、校庭を埋め尽くす程の巨大な【蜘蛛】の絵を。


「嗚呼、【蜘蛛】だね。素晴らしい」


 若菜はこれが何か知っているような口振りで言った。


 晶と同じモノを見ているはずなのに、その声色には恐怖も困惑もない。


「まあ、予想はしていたさ。君が現れること以外は。でも連れてきて正解だったな」


 まるで予定調和とでも言いたげな若菜の様子に晶はゾッとする。人間の腕が埋まっている予想など、犯人以外にできるはずがない。


「アレは、あなたがやったの!?」


「まさか。こんなこと人間にできるわけない。やったのはホラ、そこにいる……」


 その時、ぞろりと晶の足元を何かが這った。


「ひっ」


 晶は今確かに目を塞がれている。それなのに強烈な視線を感じていた。


 若菜ではない。もっと強大で、邪悪な何かがじっと晶を見ている。


 地面の中から、晶を引き摺り込もうとその手を伸ばそうとしている。


 体中を探るような嫌な感覚が這い回っていた。


「転校生ちゃん。……君が本当に『転校生』なのか、確かめさせて」


「あ゛!?」


 背後の若菜が晶の口に指を突っ込んで無理矢理開かせた。


 途端、ずるずると何かが晶の体を這い上がり、導かれるように開いた口から侵入し始める。


 視界を解放された晶の目に飛び込んできたのは、ただひたすらに濃い闇の色。


「ひ、」


 それは八つの脚を持つ、黒い霧でできた【蜘蛛】だった。


 人間の上半身程の大きさのそれが、晶の体に脚をかける。


 そしてぞろりと晶の喉奥に跗脚を差し込んで、晶の体内に無理矢理侵入しようとする。


「う゛、あ゛、あ゛あ゛」


「ホラ、頑張って」


 重い空気の塊を、無理矢理飲み込まされるよう。晶の感覚はまさにそうだった。


 自分が何にどうされているのか全く分からない。その何かを掴もうとしても、黒い霧が形を変えるだけだ。


 小さな口をこじ開けられ、脚の節が細い喉を通る度に、晶はたまらず仰け反った。金縛りにあったかのように体が動かない。


 晶の手足は針金が入っているかのように真っ直ぐに伸びたまま、背中を若菜に支えられた状態だ。


「ぐ、う゛! ん゛ーー!! あ゛、あ゛」


「まだ半分だよ。頑張れ頑張れ」


「がっ、あ!」


 能動的に侵入するソレを半分飲み込んだ頃、晶は自分も腕の主のようになってしまうのではないかと恐怖し、涙を滲ませる。


 目を見開き【蜘蛛】を飲む少女を、若菜は恍惚の表情で見つめていた。


 ゼロ距離で行われる神聖な儀式に、「ほう」と感嘆の声を漏らす。


「まさかこの目で【蜘蛛】の儀式が見られるとは」


「ん゛ーー! ん゛ーー!」


「大丈夫。君が【蜘蛛】に成っても成らなくても、僕が連れて帰ってあげる」


「あ゛、あ゛、ああ゛ッッ!!」


 最後の脚がずるんと晶の口の中へと消えた。ガクガクと晶の体が痙攣し、脱力する。


 若菜は晶の体をゆっくり地面に横たえ、嬉しそうに晶に話しかけた。


「さあ、答えてくれ。今の君は『転校生』か。それとも生贄の儀式により生徒に憑依した【蜘蛛】か?」


 息を切らせて虚空を見つめる晶は、若菜の問いかけに答えられない。しかし若菜は機嫌良く晶の乱れた前髪を掬った。


「どちらでもいい。どちらでも素晴らしい。僕は今感動しているんだ。邪霊憑依の儀式を目の前で見た! 贄はやはり生徒でなくてはいけなかったんだ!」


 興奮を隠さない若菜の影で、晶が短く呻く。


「う……」


「さあ教えてくれ。君の名前を!」


 若菜の呼びかけに呼応するように、晶の目がカッと開かれた。ゆらりとその上半身が起きる。


 そして晶の口から答えが発せられた。


「おえ゛っ! ごほっごほっ! 飲んだ! 最っ悪!!」


 必死に飲み込んだモノを吐き出そうとするその姿は、【蜘蛛】を飲み込む前となんら変わりのない晶だった。


 若菜は一瞬呆けた後、その顔を歓喜に歪ませる。


「そうか……そうか! やはり『転校生』というわけだ。【蜘蛛】を飲み下すとは恐れ入ったよ」


「げほっ。さっきのは何!?」


「もちろん全部教えてあげる。だから一緒に行こう」


「ごほっごほっ! 行く……ってどこへ?」


 若菜はへたり込んだままの晶にゆっくりと手を差し伸べて言った。


「君と【蜘蛛】の在るべき場所に」


 ぞわりと晶の背筋を冷たいものが走った。


 おかしい、何もかもがおかしい。目の前の男の全てが絶対におかしい。


 そもそも地面に生えた腕に一瞥もくれず、ずっと晶しか見ていないのがおかしい。


 黒い霧のようなモノもこの男には襲いかからなかった。


 ふらりと自力で立ち上がった晶の肩に、若菜の手が添えられる。


「じゃあ僕についてきて――」


「……ないで」


「ん?」


 俯いていた晶がぱっと顔を上げる。


 その瞳には、相手を射殺す程の怒気が宿っていた。


「触らないで変態!!」


 次の瞬間、晶は目の前の男に掌底を叩き込んだ。


「うっ!?」


 ミシッと骨が軋む音とともに、若菜は地面に倒れ込む。しかしすぐに猫のように体勢を整えた。


 晶は深く呼吸をし、続いて下段に構える。


「あなたとは行かない」


「これはまた予想外」


 防御した手をぶらんと垂らし、若菜は不敵に笑った。


 若菜には見えていた。


 晶の背後からこちらを威嚇する、八本の黒い脚が。


「【蜘蛛】を従えたか。まあ、今日のところはタイムアップかな」


 若菜はおどけるように両肩をすくめ、瞬きひとつの間にもうバイクに跨っていた。


「またね、転校生ちゃん♪」


 そう言って片手を上げ、若菜はあっという間に去っていってしまった。


 晶は信じ難いものを見る目で若菜の背中を見送る。


 そして、すぐに地面に生える腕のことを思い出した。


「そうだ、通報!」


 しかし、振り向いた晶が目にしたのは、腕も蜘蛛の絵も何もない、ただのまっさらな地面だった。

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