第2話☆

「君さぁ、もう五年目なんでしょ?ホウレンソウってわかるよね。野菜じゃないよ?ホウレンソウのレンは連絡のレ・ン!」



真澄は朝から営業部に呼び出されていた。

時計は見えないが、かれこれ三十分は経っているだろう。


「先ほどもお伝えしましたが、その件は先月上旬に中村係長にも連絡しています。メールのご確認を」

「あのね、一日に何十件メールくると思ってんの?メールだけで連絡した気になられてもねぇ」


食い気味に話を遮る粘着質な声と言葉。

一日のうちのどの時間帯に聞いても嫌気がさすが、午前中だと尚更不快に感じる。


(朝から勘弁してくれよ。毎回毎回ねちねちうっせーな。本当にこいつ嫌いだわ)


事の発端は、提出期限が迫っている書類が営業三課だけ出されておらず、確認のため連絡してみると「そんなの聞いていない」と駄々をこねられたのだ。


繁忙期でほとんどの人は出払っていて、営業部のフロアにいるのは三課の係長である中村と数人の事務担当くらいだった。


「明日の今日で連絡もらったって出来るはずないだろ?君のところと違って営業は忙しいんだから」


上司が出張で不在のせいか、いつにも増して横柄な態度だ。

未だ年功序列制度がうっすらと残るこの会社で、この男が係長まで昇進できたのは年齢のおかげだろう。


(知っらねーよ!メール読んでないお前が悪いんだろ。全支社にも送ってんのに提出されてないのお前んとこだけだわ、このダボが。こっちだってこれから会議でお前にかまってるヒマねぇんだよ)

「お忙しいのは十分承知していますが、皆さんすでにご提出いただいています。明日までにお願いします」


散々脳内で罵りながらも、口からは全く別の言葉を出せるのは、もはや自分の長所だと思っている。


「はぁ?週明けまでにしてよ。これくらいのイレギュラーには対応出来ないと。顔だけじゃ出世できないよ」


それほど騒がしくなかったフロアから、一瞬、音が消えた気がした。

こちらの反応を試すように、中村は半笑いを浮かべた顔で見てくる。


(だれか、長い紐状のもの持ってきてくれ。こいつの首に巻き付けて窓から吊るしてやるから)


内に秘めた殺意が表に出ないよう、どうにか冷静に反論しようとした時だった。


「おーい、佐野君。もうすぐ会議始まるぞ。何かあったか?」

新谷しんたに課長」


真澄の直属の上司である新谷がこちらへやってくる。

フロアの空気が一変した。


営業部のフロアに来ることが珍しいからか、女性事務員達がソワソワしているように見える。


「ずっとここにいたのか?」

「はい…」

「あ、いや、新谷課長、佐野君に少しアドバイスをしていたところだったんですよ。総務のエースの今後を思って…」


中村はしどろもどろになりながら御託を並べている。

その様子を見て、新谷は状況を察したようだ。


「そうだったのか。悪いけど、今後は長時間のアドバイスが必要な時は私を通してくれないか。部下に関わることは、私も知っておきたいからね」


新谷は深くて優しい、低い声ではっきりと言う。


「…はい」


先ほどまで尊大な態度だった中村が、明らかに威勢を失っている。


「そうそう、明日までの書類あったよね。出してないの君のところだけなんだけど、どうなってる?」

「え、そのー…」

「あれは週末の経営会議で使われるんだよ。期限は明日までだって課長クラスには全員周知されてるから。忙しいだろうけど、よろしく」

「…はい」


行こうか、と新谷は何事もなかったようにフロアを出て行く。

失礼します、と言って新谷の後に続こうとした時、中村から舌打ちが聞こえた気がした。





「課長、ありがとうございました」


廊下にでるとすぐに、前を颯爽と歩く新谷に礼を伝えた。

人嫌いの激しい真澄だが、そんな真澄が信用している数少ない人間の一人が新谷だ。


「いいや、君こそ朝から災難だったね。もっと早く気付けば良かった。あの係長にはこれからも注意を払うようにするよ」


例の係長とは真逆の、歯切れの良い話し方は聞いていて心地良い。

良い顔、良い声、良い体。

それでいて人格者で愛妻家となると、社内で神格化されるのも無理はない。

昔、新谷が結婚を公にした際には欠勤者が続出して業務が数日滞った、という伝説もある。


「それと、お礼なら三木君に言ってくれ。佐野君の様子を見てきて欲しいと頼んだのは彼女だからね」


三木は真澄の二つ上の先輩だ。

仕事が早く的確で気配りも出来るが、決して目立とうとはしない「くノ一」のような仕事ぶりは、真澄も一目置いている。

何より三木に好感が持てるのは、おかしな色目を使ってこないことだ。


見た目が良い、という自覚がある真澄だが、下心を持って接してくる人間にはうんざりしている。

ベタベタ近づいてくるのはもちろんのこと面倒だし、こちらを必要以上に見てくる視線だけでも充分不快だ。


しかし、三木は常に一定の距離を保ち、視線を感じることがない、というより目を合わせようとしてもなかなか合わない。

むしろ嫌われているのでは、と思わないこともないが、不思議と相手からの嫌悪感は感じられない。

仕事に支障が出ていないどころか、真澄にとっては仕事がしやすい状況なので特に気にしたことはなかった。




会議が終わり、さっそく三木にも礼を伝えに行った。


「佐野さんが困ってるみたいだと聞いたので。あの係長、上の人の言うことしか聞かないらしいので、新谷課長に頼みました。余計な事だったならすみません」


三木は想像していた通りのそっけない反応だった。


「いえ、とっても助かりました。どなたか営業部の方から聞いたんですか?」

「はい。洲崎さんです」


意外な名前が出たので驚いた。

偶然会社に戻っていた洲崎が、営業部での真澄と係長のやりとりを目撃していたらしい。


「そ、そうですか」


(洲崎か。全然気付かなかった。出来るやつっていうのは間違いないみたいだけど、知らないうちにこっそり手助けされるとなんだか腹立つな。ていうか、あいつに借りを作ったことになるな…)


助けられたにも関わらず、感謝のほかに若干の不快感が混ざるのは、出来る男への妬ましさからなのか羨ましさからなのか。


しかしながら、助けられた時には礼を言わなければならないのが社会人だ。

筋を通さなければいけないことを疎かにしてしまうと、後々やっかい事に巻き込まれる可能性もある。

面倒なことは大嫌いな真澄だが、早いうちに洲崎にも礼を伝えることにした。



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