デレるくらいなら死ぬ

波辺 枦々

デレるくらいなら死ぬ

第1話☆

初めて、複合機が紙を吐き出す音がありがたいと思った。

帰りたいという雑念を、反復する響きが宥めてくれる。


午後九時になっていた。

女が二人と男が一人。

この時間に社内のフロアに残っているのはそれだけ。


「ありがとうございます~!仕事早くて助かっちゃいました」

「さすが佐野さんって感じ」


おそらく地声よりもワントーン高いであろう声が疲れた体に追い打ちをかける。


「お役に立てて良かったです」


そう言って微笑むと、女子達の体温が一気に上昇したように見えた。


「お礼したいんですけど、このあとご飯とか行きませんか?」

「ちょっと、抜けがけしないでよ。わたしも行きたい」


距離を詰められそうになったので、気付かれないようにそっと離れる。


「あー、残念。まだ少し仕事が残ってるんです。それより、今夜は雨が酷くなるみたいですよ。急いで帰ったほうが良いかもしれませんね」


心底残念そうな顔をしながら外を指差す。

その先で、雨粒がポツポツと窓ガラスにぶつかっていた。


「やだ!傘持ってきてないんだけど」

「ざんね~ん。でも今度絶対、絶対行きましょうね!」


二人はワーだとかキャーだとか言いながら、慌ただしく帰っていった。


「ふぅ」


佐野真澄さの ますみは、誰もいないフロアで深くため息をついた。


(クソ、せっかく早く帰ろうと思ったのに。誰が飯なんか行くかっつうの。鼻ひん曲がるくらい香水つけてんじゃねぇよ。あれじゃどんなうまい飯もまずくなるだろうが。てか一日中ペチャクチャしゃべってるから仕事が終わんねぇんだよ)


心の中で最大限に悪態をつきながら、服に移った気がする残り香を手で払った。


女性は苦手だ。

というより、人間全般が苦手なのかもしれない。

面倒、その一言に尽きる。

そんな感想を持ってしまう原因は自分にある、となんとなく自覚している。

でも、面倒なものは面倒なのだ。


しかし、それを表に出すことはない。

外面を保つことにかけては、自分より秀でるものはいないと思っている。


今も本当のところは特に仕事は残っていなかった。

けれど、仕事終わりに面倒そうな人間と食事に行くなんて拷問に近い。

絶対に避けたい。

だから、そうとは解らせないように煙に巻いたのだった。


ただ、仕事を言い訳に使った手前、時間をずらして帰らざるを得なくなってしまった。

ほどよく暇を潰せそうな雑務をみつけて終わらせた時には、十時を過ぎていた。


(あぁ、見たいテレビあったのに間に合わないじゃねぇか。まぁ明日は休みだし、テレビでも見ながら酒飲んで寝よ)


電気系統の消し忘れがないかを確認してからフロアの鍵を閉める。

総務課に属する真澄は、若手故に一番最後に帰ることも多い。

この作業はもはや、毎日のルーティンみたいなものだ。

最後に一階の管理室に鍵を預けて業務終了。


「お疲れ様です。鍵、お願いします」

「今日も遅くまでお疲れ様だね」


顔馴染みの守衛のおじさんに挨拶して帰ろうとした。


「お、さわやか王子の次はワイルド王子のおでましだ。今夜は豪華共演だなぁ」


急にテンションが高くなったおじさんの視線の先には、同期の洲崎友介すざき ゆうすけがいた。

「ワイルド王子」と呼ばれるだけあって、日に焼けた肌と逞しい骨格は遠目に見ても様になっている。

しかも雨に降られたらしく、黒い短髪が水に濡れた姿は野生の生き物のようだった。


(おいおい…西海岸のサーファーかっつーの。ワイルド大爆発って感じだな、ってワイルド王子とかさわやか王子って一体何なんだよ。ネーミングのセンス壊滅的だろ。まぁ、社内の暇人どもが名付けたんだろうけど)


洲崎とは同期だけれど同期であること以外にたいした接点はない。

営業一課所属のため、働くフロアも別だからほぼ会う機会もない。

会えば挨拶を交わす程度の仲だ。


「久しぶりだな。遅くまでお疲れ」

「洲崎こそ、お疲れ様」


さわやか王子の名に恥じない渾身の笑顔を纏う。

真澄が脳内で悪態をついているとは知らず、洲崎は本心から労わるような視線をむけてきた。

洲崎は取引先から戻ってきたところのようだった。


「鍵、借ります」

「はいよ。いつも大変だね」


洲崎は慣れた様子で守衛と言葉を交わすと、最後に


「佐野、気をつけて帰れよ」


と、女子が聞いたら「好きになっちゃう…」ような一言を残して社内に消えた。


(な、なんだ、その台詞は。俺はれっきとした成人男性だぞ?あいつ、営業のしすぎで全方位に好感度振りまく病気にでもなったんじゃねえのか)


洲崎はその外見から人目をひく存在だったが、その上、仕事も出来るとあって度々社内で話題にあがる。

どちらかと言えば口数は少なく、話し上手という印象はないが、着実に結果を残しているらしい。

真澄の元にも噂話が届くことがあったが、悪い話は聞いたことはなかった。


(良いよなぁ、本物の王子様は。どうせプライベートでは女を喰い散らかして、最後にあの顔で「気を付けて帰れよ」って言ったら後腐れなく上手にお別れ出来るタイプなんだろ。クソ、なんか腹立ってきたな)


洲崎によって少しイライラさせられた気分を紛らわせるため、帰りの道中にあるコンビニに寄って、いつもより多めに缶ビールとつまみを買って帰る。


古びたアパートが視界に入ってようやく、真澄はネクタイを緩める。

学生時代から住むワンルームのアパートは、築年数はだいぶ経っているが部屋が広くて気に入っている。

真澄としては、なんといってもスペースの確保が重要だ。

部屋は広ければ広いほど良い。


歩くたびに軋む外階段を登り、玄関を開けるとそこには「さわやか王子」の印象とはかけ離れた光景が広がっている。


(相変わらず汚ねぇな、って自分の家だけど。でも今日も片付ける気力ないもんね)


玄関や廊下にまとめて置いてあるゴミ袋達を足で器用に退かしながら居間に入る。

家具は少ないが、物は多い。


特にテレビの前には空き缶がまるで宗教儀式の祭壇のように並べられている。

実際には並べたわけではなく、飲んだあと適当に放っておいたら、いつのまにか追いやられてテレビ前に落ち着いた感じだ。


面倒ながらもスーツだけはしっかりハンガーにかけ、その他の衣類は週末にまとめて洗濯予定の、部屋の片隅にある服置き場(仮)へ、脱ぐ毎にぶん投げる。

そうすることによってストレス発散できるし運動にもなって一石二鳥なのだ。


適当に風呂に入り、生まれたてに近い姿になった。

パンツ一丁、が真澄の基本的なお家スタイルだ。


「よーっしゃ、今日も嫁とよろしくやるぞぅ」


にやつきながら手に取ったのは、買ったばかりの缶ビールだ。

慣れた手つきでプルタブを開けて、喉を鳴らしながら飲む。


「かー、うめぇ!うちの嫁最高」


真澄にとっての嫁、それは缶ビールだった。

結婚なんて面倒すぎて想像すら出来ない。

そう考えている真澄は、最愛の缶ビールを伴侶として生涯添い遂げる覚悟でいる。

他人から見れば寂しい人生に映るかもしれないが、本人はいたって満足している。

今の真澄には、恋人も友人すらも必要ないのだ。


今夜も、年季が入ってくたびれた座布団を敷き、胡座をかいてビールをあおる。

お笑い番組を見ながらつまみを食べる。

そして、いつのまにか寝る。

真澄の至福の時間だ。


このひとときを守るためなら、家の外で多少窮屈な仮面を被るのも我慢できる。

これが「さわやか王子」の実態だった。


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