神魔1-2
□
王国の第二王子、クロワ・サンス・ド・シャルティエの言い分に、ガブリエールは一瞬ながら思考が麻痺した。
「婚約を…………え?」
「ですから。我が兄上、王太子殿下との婚約をなかったことにしていただきたいのです」
「──そ、それは」
どうしてそのようなことを言われなければならないのか、本気で理解しかねるガブリエール。
心のさざめきを抑えるように胸元を押さえ込む十五歳の令嬢。
「馬鹿な。何故そのような」
「いくら第二王子殿下であっても」
「言ってよいことと、悪いことがあるはずです!」
だが、ジュリエットたちの抗議を、クロワは冷徹な眼光で
第二王子は黒い長髪を微かに揺らして溜息を吐いた。冷淡な声が、氷の針のごとく三人の女中たちを刺し貫く。
「
正論であった。
ぐうの音も出ない三人は、押し黙ってガブリエールの背後に控えるしかない。
そう。
目の前にいる人物は、王国の王位継承権第二位に位置する第二王子。それほどの人物を相手に、女中ごときが意見具申するなどもってのほかと言えた。
クロワ第二王子はテーブル上の紅茶にも一切手を付けず、断罪に近い声色で理非をただす。
「ガブリエール嬢。あなたは、ユーグ王国の王家には
ぐさりと刺さるものを胸のうちに感じるガブリエール。
「貧相な屋敷。貧弱な家柄。貴族とは名ばかりの貧家の生まれという事実。王国内外を問わず、王太子殿下はなんらかの病に罹患したなどと、憂慮する声も上がっております」
ガブリエールはドレスの裾を必死に掴んだ。恥辱と不安で、視界が霞むような気分を味わった。
「我が兄上は、
エミール・ガニアン・ド・シャルティエ王太子。
帝国との戦争で、見事和平を勝ち取った武断の英雄。
品行方正。明朗闊達。国民からの信頼も篤く、末は賢王賢君として、歴史に名を残すだろう、偉大な人物。
それほどの人物が、自分よりも
ガブリエールは反論する言葉を持たない。
「どうかお約束ください。我が兄上に言上すると。『この婚約を破棄させていただきたい』と──そう願い出ることを」
「それは……」
「このままでは、我が兄上は不名誉極まる俗言の嵐に揉まれるでしょう。「そういった趣味の王太子」などと噂されるのは、私には我慢ならないこと」
ガブリエールは、第二王子の表情をまっすぐに見つめた。
相手も見つめ返した。その視線は陰湿そのもので、瞳には絶対零度の感情しかない。おそろしい
それでも。
「お、断り、します」
つっかえながらも、ガブリエールは強く断言した。
「いきなり、そのような話をされても、わ、私と王太子殿下が婚約した事実は事実。誰に言い咎められるいわれもありません!」
「頑迷な」
心底から失望しきったように、第二王子は瞳を伏せる。
「ならば
「折衷案?」
「我が弟、第三王子ルトロ・ヴァイユ・ド・シャルティエであれば、あなたと同い年です。我が弟と婚約すれば、あなたの家名も守られ、ご自身の
「そういうことじゃありません!!」
激したガブリエールが真っ先に気づいた。相手は王族。それに対して怒鳴りつけるなど、あっていいあり方ではなかった。
事実、第二王子は虚を突かれたように瞳を丸くし、ついで呆れ果てたように顔を振った。長い黒髪がそれにあわせて黒曜石の輝きを揺らめかせる。
ガブリエールは席を立って頭を下げた。
「し、失礼しました、第二王子殿下」
「まったくです。どうして兄上が、あなたのような小娘を選んだのか、本気で理解しがたいですよ」
ガブリエールは羞恥に顔を真っ赤にする。瞼の端からこぼれそうなものを、必死に抑え込んだ。
そして、決然と前を向く。
目の前の人物に言いくるめられ、
「私は、王太子殿下との婚約を、こちらから破棄するつもりは、一切、ありません」
対する第二王子はクロワは、少し考えこんだ後に宣った。
「王太子に意見具申・婚約破棄を申し出る勇気がないというのであれば、私の方から」
「いえ。そういうことではありません」
「王族からの援助を受けたいというのであれば、我が弟でも充分役目を果たせるはず」
「そういうことではありません!」
「──では、いったい何にこだわっているというのです、貴女は?」
王太子の婚約者という地位に
「私は、家名を上げたいだとか、財力が欲しいとか、そういう理由で、王太子殿下の婚約を受け入れたのではありません」
クロワは両手を組んでガブリエールの両眼と相対する。
「私は、あのパーティーの日に、殿下から望まれて、婚約者となりました」
わずかふた月前とは思えないほど、鮮烈に少女の脳裏に刻印された、優しい記憶。
「私は、あの方に必要とされた」
彼を満たすためならば、なんでもやろうと思えた。
だから、偽装婚約という申し出に頷き、婚約書にもサインした。
「私が王太子殿下の婚約者という地位から降りるときは、あの方から正式に、婚約破棄を申し渡された時だけです」
それ以外のなにものにも、ガブリエールの意思を動かすことはできない。
そう断言できる。
「そういうことなので。第二王子殿下には大変恐縮ですが──お帰り下さい」
ジュリエットが、ガブリエールの意思を汲んだように、応接間の扉を開いた。
クロワは数瞬の間だけ考え込む姿勢を見せた後、了承したようにひとつ頷く。
「本日はこれにてお
粛々と立ち上がる第二王子。
テーブルの上の紅茶には、最後まで手を付けられなかった。
ガブリエールは腰が精神的に重くなったのを感じつつ、王族を玄関まで見送るべく、淑女のごとく自然と静かに立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます