謁見1-1






 □





 数日が経過した。

 王太子の婚約者(偽装)であるモルターニュ家では、にわかに活気に満ちた声が響き始める。


「お嬢様! 畑仕事なら私どもがやりますから!」

「お嬢様! 部屋の掃除は私の仕事です!」

「お嬢様! 暖炉の灰掻きなら私が!」


 ジュリエット・オルヌ、クレマンス・スュール、シャリーヌ・ユイズヌら三名のメイドは、メイドがやるべき仕事を率先して行おうとする令嬢の姿に驚嘆させられっぱなしだった。

 メイドたちを代表し、ジュリエットが苦言を呈するのも無理からぬ事態と言える。


「お嬢様は家の女主人として、指示を与えてくださるだけでよいのです。けっして、気兼ねなく申し付けてください」

「でも、……」


 抗弁しかけるガブリエール。

 彼女自身、人の命令を下すこと、人をこき使うことにまるで慣れていなかった。

 祖父母が生きていた時代は、すべての決定と裁断は祖父母が務めてくれた。ガブリエールは、二人の庇護者にすべてをゆだねることが可能だった。

 だが、事故によって、そんな緩やかで安穏とした生活は終わりを告げた。

 ガブリエールは残された家財と身分を護る意味でも、使用人衆らに暇を出させるしかなく、生活は困窮を極めた。それでも、ガブリエールは己の務めをまっとうした。大好きな祖父母が残した家と土地を護ること。それのみに心血をそそぎつづけた。

 しかし、それも過去のこと。

 彼女は自分が置かれた立場を再認識する必要に迫られた。


「わかりました、ジュリエットさん。でも、何かあればすぐに言ってください。手伝い」

「手伝いは本当に無用です。殿下の婚約者であるお嬢様に、何かあっては事ですから」


 でもと言いかけてガブリエールは口をつむぐ。

 この婚約は偽装──嘘偽りの関係でしかない。

 そう思うたび、ガブリエールは心臓に小さな針を刺される思いを味わう。

 王太子殿下の深慮は読めないが、きっと何か深い考えがあってのこと……自分ごときが王族の真の伴侶になどなれるはずもない。


(いまは、状況を飲み込もう)


 そうすることでしか、ガブリエールはエミール王太子への忠節を果たせない。

 お人形のように黙って本を読むだけの時間というのは、実に新鮮な感慨を貧家の御令嬢に与えてくれる。

 それから一時間ほど経過した頃。


「お嬢様、少しよろしいですか?」

「は、はい!」


 ガブリエールはクレマンスの声に勢い込んで立ち上がった。


「ああ、座っていてください。殿下からの差し入れです」

「さ、サシイレ?」


 クレマンスは言うやいなや、薬壺の蓋を開ける。

 ガブリエールにはそれが何なのか見当もつかない。


「それは?」

「手肌の傷を癒す魔法の塗り薬です」


 魔法の塗り薬と言われ、ガブリエールは身構える。


「そ、そんな高価なものを?」

「ええ。王族の婚約者への贈り物としては、正直安すぎると思いますが」


 もっとわかりやすく宝石だの衣服だのを送るのが慣例だろうにと、クレマンスは告げる。


「でも。私はお嬢様の手、結構好きですよ? 家事でボロボロだけど、それだけご苦労なさっていることの証なのだから」


 それが消えるのはもったいないなーと言いつつ、クレマンスは令嬢のボロボロの両手に薬を塗りこんでいく。

 見れば、クレマンスの手も、家事によってついたのだろう傷痕──どころではない、深い裂傷の痕が見えた。

 太刀傷といった印象をガブリエールは受ける。


「これ、クレマンスさんに使った方が?」

「ああ、だめだめ! こういう魔法の塗り薬は、個人個人で調合されているものですから」

「い、いつの間に、そんなこと」

「王太子殿下と一緒にいた、サージュ様──王家に仕えるハーフエルフ殿の魔法ですよ」


 もっとも、こういった薬品の調合については、西の隣国──ルリジオン教国の産出品が名高い。かの国では『万病を癒す姫巫女』がいるとされ、巡礼者の数も多いと聞く。


「はーい、今日の分はこれで完了っと」

「…………すごい」


 塗る前と後で、小さな傷はふさがっていくのが分かる。ガブリエールが観察している間にも、魔法の塗り薬は効果覿面な事実を見せつけてくれる。大きな傷はまだ残っているが、それも薬を塗り続ければ消えるだろうと、クレマンスは蜜壺を閉じつつ説明する。


「ありがとうございます、クレマンスさん」

「いやいや。私は薬を塗りこんでやっただけですから。お礼なら殿下にいってください」


 お気になさらずと言って退出していくメイドは、明日も同じように塗り込みにくることを告げて去っていく。


「…………」


 ガブリエールは自分の手を眺めながら、何もすることなく、何をするでもなく、沈黙のうちに様々な思案を巡らせる。

 そうして最後にこう思うのだ。


(ありがとうございます、王太子殿下)


 こんな自分に良くしてくれて、感謝の限りを尽くすガブリエール。

 だが同時に、こうも思う。


(この偽装婚約の関係がとけてしまったら……いったい、どうなってしまうだろう?)


 そんな未来を空想して一人暗澹あんたんたる思いをいだくガブリエール。

 そこへ、部屋のドアをノックする音が大きく響く。


「失礼します、お嬢様」

「シャ、シャリーヌさん? どうかされましたか?」

「実は今しがた、王宮より連絡、先ぶれがございまして──」

「お、王宮から?」


 どのような案件だろうか、エミール殿下からの伝言か何かだろうかと考えるガブリエールに、シャリーヌは緊張ぎみとわかる声で告げる。


「国王陛下が、お嬢様を王宮に召喚──お招きしたい、とのこと」

「こ、国王陛下がっ!?」


 ガブリエールにとっては未知の相手──エミール王太子の父──このユーグ王国の最高位者たる殿上人てんじょうびとからの召喚命令である。

 少女は頷きを返すほかなかった。


「わ、……わかりました」


 15歳の小娘でしかない自分を呼び出す事情など、ひとつきりのはず。

 ガブリエールは決意を新たに、王宮へ赴く準備をメイドたちに手伝ってもらった。








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