この手の届く場所に

柳路 ロモン

第1話

 地元で見ていた空は、想像しているより近い場所にあった。視界いっぱいに広がる青に向けて腕を伸ばす。そうすると手のひらがどこまで続く空の底に触れた気がした。いつだってこの空は、自分の手の届く場所にある気がしていた。


 都会に出て初めて見た空は、手が届いたはずのあの空よりもずっと遠くにあった。どれだけ手を伸ばしたってこの空には到底届かない。


 それでも必死に手を伸ばし、何かを掴んだ気がして握ったその手のひらの中を見ても、いつも僕の手のひらは空っぽだった。




 ◯




 新品の原稿用紙の半分と少しの行を埋める文章を書き終えると、僕は手を止めて机の上に鉛筆を転がした。からからと乾いた音を鳴らしながら転がる先の丸い鉛筆は、整理整頓の行き届いていない乱雑な机の上に置かれた障害物にぶつかり動きを止めた。その一連の流れを、意味もなくただ呆然と眺めていた僕は、そのまま座っている椅子の背もたれに大きく寄りかかった。深く息を吐き出し、今しがた自分の手によって生み出された文章を頭の中で繰り返し復唱する。


 その文章は、僕が執筆している小説の始まりの文章であった。大袈裟な詩的表現のせいで、伝えたい情報を埋もれている気がしないでもないが、作中に登場する主人公の性格や心理状況を考慮すると、やはりこれぐらいが丁度良い。僕なりの文章書きとしての個性の出し方ということにしておいた。


 この小説の主人公は衝突と踏破、挫折と再起を繰り返し体験して立派な人間に成長していく。語るだけで夜を明かせるほどの複雑な設定や世界観は存在しない。端的でわかりやすく心に優しく染みる人間同士のドラマ。僕がこれから書き綴る物語はそういうものだ。


 そして、ページをめくって一番最初に見える主人公の独白は、彼自身の葛藤や苦悩を意味しているように見える。しかし実際は僕自身のそれでもあった。


 井の中の蛙は大海を知り、己の無力さを骨の髄まで味わい尽くした。すぐそこにあると思っていた光が、その光の切れ端に指が触れるその瞬間に遥か遠くへ、単位に「光年」を用いなければならないほどの場所まで遠ざかっていた。


 夢破れ、あらゆる負の感情を知った僕がそれでもなお、その光を目指し続けているのはなぜか。そんな無様な問いかけの答えは既出ている。そしてこの答えだけは、理解していなければならない。


 僕が足を止めることなくいられるのは、意地や野望が生む人智を超越した力によるものではなく、ただの惰性だ。今更この人生を変えることなどできない、この道を歩んでいくしか手段がないのだ決めつけ、待ち受ける最期に向かって伸びるレールの上を歩く僕。その様子を「惰性」と言わずしてなんと表現すればいい。


 時間と運命の流れに身を任せて光を目指す僕の将来は、太陽の光すら飲み込み、自分の姿すら見失いそうなほどに暗い。




 ◯




 「今日、泊まりに行っていい?」


 薄暗がりの部屋の中をぼんやりと照らす携帯電話の光。真昼まであってもカーテンを閉め切った僕の部屋に、それ以上の光源は存在しない。その頼りない光の中に浮かぶメッセージは、サヤコという女性からのものだった。端的に説明すると、サヤコさんは僕の恋人だ。


 「次に応募するコンテストの題材の都合上恋愛小説を書かなければいけなくなったが、僕には恋愛というものがちっともわからないから」という純粋とも不純とも捉え難い動機に始まり、僕は出会い系アプリを通じてサヤコさんと知り合った。僕の記憶と認識が正しければ、もう間も無く付き合ってから二年目を迎える。僕より四歳年上のサヤコさんは、恋人である僕の贔屓目を抜きにしても美人で、スタイルの良い、僕みたいな人間には勿体なさすぎるくらいの女性だ。


 しかし、僕らの関係は、「恋人」と呼ぶには躊躇いが生じるほど物凄く歪なものだ。よく二年もこの関係が続いたと他人事のように感心してしまうほど歪んでいる。


 仕事の出来る優秀なサヤコさんに対し、僕は未だ当たりくじを引けない貧乏な物書き。稼ぎや社会的地位、人生経験の総量。ありとあらゆる面から見て、僕がサヤコさんに勝てる要素など一つもない。サヤコさんも、なぜこんな僕みたいな劣等種を自身の恋人の席に座らせているのかさっぱりわからない。


 劣等感や自己嫌悪の念が邪魔をして、僕とサヤコさんが体を重ねたことはこの二年間で、片手の指で数え切れるほどの回数しかない。


 そして、そのどれもが淡白なものばかり。あの時の光景や体験を「盛りのついた獣のような」とはとても形容できない。それはある種の、「恋人がすることだから」という普通や常識という伝統に則った儀式のような行為であったことを鮮明に記憶している。


 誰かに恋をして、誰かを愛し、愛した分だけ愛される。恋愛事の一切が、僕にはまるでわからない。


 時折、僕の方から彼女に「好きです」と言葉で直接愛を伝えてはいるのだが、僕にはそれが誰かの真似事みたいに聞こえて、僕自身これが本当の愛とやらなのかどうかは謎だ。僕が言葉にしているのは、口だけの、空っぽな僕にお似合いの、中身のない愛なのではないだろうか。そんな僕の勝手な思い込みのせいか、サヤコさんから返ってくる「私も大好きだよ」という言葉も嘘っぽく聞こえる。


 サヤコさんが送ってくれたメッセージのテキストを目で何度も追いかけた後、僕は「そう返すのが当然だから」という風に、決まった通りの順番でメッセージを打ち込み送信した。サヤコさんが「君が好きなキャラクターのだよ」と言ってプレゼントしてくれた、可愛らしいキャラクターのスタンプを添えて。


「わかりました。いつもの駐車場で待ってます。午後からもお仕事頑張ってください」




 ◯




 サヤコさんが僕の家に泊まりに来る時は決まってお酒とそれに合うおつまみを持参してくる。僕が気持ちよく飲める量や、好きなお酒の種類はとっくに把握されている。おつまみも最初の頃はコンビニで適当に買ったものばかりだったが、今ではサヤコさんの手作りのおつまみが食卓に並ぶ。おつまみに限らず、サヤコさんの作ってくれる料理はどれもこれも僕の味覚にぴったりと合う味付けのものばかりで、僕はすっかりサヤコさんに胃袋を掴まれてしまった。


 その場しのぎの掃除を済ませたテーブルの上に、サヤコさんの作ってくれたおつまみの入った保存容器やグラスを並べる。マットレスの上に置かれた縦に積まれた読みかけの本と溜まった洗濯物を部屋の端に寄せ、僕らは肩を並べて座る。左利きの僕が左で、右利きのサヤコさんが右側に座る。これが僕らの定位置だ。


 お酒の注がれたガラスのグラスを持ち上げ、僕らはほんの少しの間だけ見つめ合った。サヤコさんが大人びた色気のある微笑みを浮かべたのと同じタイミングで、僕もぎこちなく微笑み返す。そして、お互いのグラスの縁を軽くコツンとぶつけ、


「乾杯」


 この微笑みが、この音が、この声が、僕たち二人が過ごす夜の訪れを知らせるのだった。最初、僕とサヤコさんの間には拳一個分の空間があったがそれもすぐに埋まった。


 ハイボールの炭酸が弾ける音と喉越しの音に耳を澄ませ、グラスの半分ほどを飲んだところで僕はグラスから口を離した。次に箸を手に取り、お皿に盛り付けられたサヤコさんお手製のおつまみを口に運ぶ。今夜のおつまみは鶏肉とネギのピリ辛和え。お酒だけでなく、真っ白なご飯にもピッタリの一品だ。僕はたった一口食べただけでこの料理の虜になってしまった。この料理がある日は決まって、限界スレスレまで飲んでしまう。もちろん、察しの良いサヤコさんはこのことを全部知っている。 


 おいしい。


 また一口、もう一口と鶏肉を口へ運ぶ僕のことを、サヤコさんは隣でじっと見つめていた。僕は箸を動かす手を一旦止めて、ハイボールをまた胃に流しこんだ、サヤコさんの目を見つめ返しながら、


「おいしいです。サヤコさんの作るこれ、僕本当に好きです」


 直喩や暗喩も一切ない、素直な感想を述べるのであった。そうするとサヤコさんは満足げに笑って「よかった」と呟く。


「君はいつも美味しそうに私の作った料理を食べてくれるからね。頑張って作った甲斐があるよ」


 嬉しそうな可愛げのある声色を保ったまま、サヤコさんはグラスに入ったビールをちびりと飲んだ。そして彼女も箸を手に取って鶏肉のかけらをつまんだかと思えば、それをそのまま僕の方に差し出してきた。


「ほら、あーん」


 僕の恥じらいなんてお構いなしに、鶏肉は食欲をそそる香りを僕の鼻先に漂わせながら僕の方ににじり寄ってくる。仕方なしに口を開けてサヤコさんの気持ちを受け入れると、彼女はまた幸せそうににっこりと微笑んだ。ピリッと舌を刺激するタレのかかった鶏肉を咀嚼しながら、僕は「絶対この人には勝てない」という敗北感も舌の上で転がしていた。


「今日はごめんね、急に『お泊まりしたい』だなんて言っちゃって。迷惑じゃなかったかな」

「いや、僕は全然。むしろここ最近はずっと部屋に引きこもってたので、人肌恋しいみたいなところがありましたから」

「たまにはお外に出なきゃダメだよ? 天気もいいんだし、お散歩したらきっと気持ちいいと思うな」


 彼女の提案に対して具体的な意見は出さず、「僕は家にいる方が落ち着くので」という言葉はハイボールと一緒に飲み込んだ。


「サヤコさんこそ。毎日お仕事ばっかりじゃ、いつ体がおかしくなるかわかりませんよ? たまにはリフレッシュする時間を設けないと────」


「だから今日、君とこうやって一緒にお酒を飲んでるんだよ?」


 彼女は僕の頬に人差し指を柔らかく突き立てて言葉を遮り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。普段は大人っぽい彼女が時折見せる幼さを感じさせる仕草や表情の移ろいは、僕の心を確実に鷲掴みしてくる。思わず表情筋が緩みだらしないにやけ顔を晒しそうになるほど。


「それとこれとは、また別じゃないですか。僕が言いたいのは、もっとこう、サヤコさん一人だけで、仕事や僕のことなんか気にせず自由気ままにいられるプライベートな時間を作ってほしいということであって────」


 僕の頬から離れていく温かな人差し指の感触を惜しみながらも僕は言葉を付け足した。しかしサヤコさん本人はニコニコとした表情を崩さないまま「わかってるよ」と、まるでちっともわかっていないような態度で返すばかり。


「でも、今夜はどうしても君と一緒にいたかったんだ」

「……どうしてです?」


 続く言葉に対して抱くのは、期待よりも不安の方がずっと大きかった。


「なんでだろうね」


 僕の問いかけに、彼女がそれ以上答えることはなかった。期待で僕の胸を満たすこともなければ、心を覆う不安の雲も晴れない曖昧な答え。


 サヤコさんは残り少なくなった鶏肉のおつまみを口に入れ、何度か咀嚼した後にビールと一緒に胃の奥へ流し込んだ。その最中、彼女は頑なに僕と目を合わそうとしない。どれだけ僕が彼女の顔をじっと見つめていても、彼女はちっともこっちを見てくれない。


 しかし、サヤコさんの左手がするりと、足を組んで楽に座っている僕の右腿の上に乗せられた。彼女の色白で細く美しい指の一本一本が蛇のように僕の体の上を這う。僕がその指の動きをまじまじと観察している最中も、サヤコさんは決してこっちを見ない。


 「恋人らしいこと」を求めている時の彼女は、いつもこうだ。


 大した理由もなく僕の部屋の隅をじっと見つめ、次に僕が打つ手を待っている。


 普通ならどうするべきか。この状況に身を置いている僕個人がどう考えているかを別の問題と処理して、僕が一人の男性として何をすべきか。答えはとっくに出ている。当然のことのようにわかっている。でも、それが今の僕にはできない。そうする資格がない。


 僕の右腿を触るサヤコさんの手に、そっと自分の手を重ねようとした。あと数センチ、というところで僕はその手を引っ込めた。僕が目を逸らし前を向いた横で、今度はサヤコさんが僕を見た。


「触ってくれないの?」


 普段の凛々しい喋り方からは全く想像もできないほどの蕩けた声でそう囁くサヤコさん。その声は間違いなく、僕の鼓膜だけでなく理性すらも揺らした。それでもなお僕は前を向き、この手持ち無沙汰を埋めるためにグラスにハイボールを並々と注ぎ直す。


 僕の右腿からサヤコさんの手が離れた。彼女の手が残していった感触と温もりだけは離れてくれない。


「サヤコさん。ちょっとだけ、お話したいことが」


 僕がこんなふうに話を切り出せたのは、きっとアルコールのせいだ。


「いいよ。君の気が済むまで聞いてあげる」


 僕は肺の中一杯に部屋の空気を溜め込み、思考の渦に溺れている言葉を必死に探した。伝えたい情報がきちんと伝わって、それでいて、サヤコさんを傷つけてしまう大きな誤解や語弊が生まれないような便利な言葉。ただ、僕の薄っぺらな辞書からはそんな万能な物は見つけられなかった。


「どうして、サヤコさんは僕と一緒にいるんですか」


 サヤコさんは大きく息を吐く。「またか」と呆れたふうに。概ね僕の予想通りの反応である。


「サヤコさんは、その、綺麗で、真面目で、料理も上手で、男性からしたらすごく魅力的な女性です。だからいつも、『どうして僕なんかを』と考えてしまうんです。僕はサヤコさんと釣り合うような男ではない。僕なんかより良い男なんてごまんといる。だから尚更」


 少しだけ言葉に詰まる。その一瞬の空白は、僕が頭の中に思い浮かべていた文章がここで途切れてしまったことの証明である。次に何を話せばいいのかと再び渦を巻き始めた僕の思考に混じる言葉以外の雑念。将来へのぼんやりとした不安や、サヤコさんが僕の話を聞いて今何を考えているのかという疑問。次の瞬間に起こりうるかもしれない最大最悪の災厄の予知。こんなに苦しい思いをするくらいならと湧き上がる自殺願望。


 渦の中心に向かって泳ぐ言葉は、その雑念に邪魔されなかなか中心に辿り着けない。


 僕の口から出るのは嗚咽混じりの意味を成さない音ばかり。やっと浮かんだ言葉も吃って最初の一文字から次が声にならない。僕の思考を支配していく不安と自己嫌悪の念の勢いは衰えることを知らない。


 頭皮に爪を突き立て掻き毟る。わけもなく溢れ出た涙は僕の頬を伝い顎先から床に落ちる。過呼吸と歯軋りを交互に繰り返すやかましい僕の口。どんな大罪人も、思わず自身の知る限りの言葉で慰めに入るのではないかと言うほど僕の姿はとことん哀れで、惨めであった。


 そんな僕の肩にふわりと柔らかで温かな感触が訪れた。サヤコさんの顔が僕の真横にあって、彼女の鼓動が僕の胸板からじんわりと伝わってくる。サヤコさんの手が僕の後頭部を優しく撫でる。僕は今、彼女の腕の中にいるのだと、少し遅れて気づいた。


「大丈夫。ゆっくり深呼吸」


 彼女が今着ているシャツの袖に顔を押し付け、涙やら鼻水やら涎やらを吸わせる。


 サヤコさんの体温と匂い、息遣いに鼓動。それだけで僕はまるでお気に入りの子守唄を聞かされた赤ん坊みたいにすっと泣き止む。部屋に響くのは僕の泣き声と鼻をすする音。


 僕の心臓が普段通りのリズムを思い出し始めた頃に、僕はサヤコさんの腰にそっと手を回す。自分の指をしっかりと祈るように組み、サヤコさんのくびれに沿うように腕を密着させる。そうして僕はやっと顔を上げる。顔をずっと押し付けていたシャツの袖にはじっとりと濡れた跡があった。サヤコさんはそれに対して特別嫌悪感を露わにすることもなく、近くに置いてあったティッシュの箱から数枚ティッシュを取り、僕の顔や自分の着ているシャツのそれに押し当てた。


 きっと今の僕の顔は原型がわからないほどにメチャクチャになっているのだろう。サヤコさんは僕の目をじっと見て、いつものようににっこりと微笑む。その温かな微笑みには母性のようなものが含まれていた。それから彼女は僕の両手をしっかりと両手のひらで包み込んだ。僕の手なんかよりもずっと小さくて細いのに、そこから溢れ出る力は想像以上のもの。


「私がここにいるのは、私がここにいたいから」


 もう何十分も前に訊いたような気さえする僕の質問にサヤコさんはようやく答えた。今の僕にはその答えが聞けただけでも充分心は満たされる。


 その時、僕らは初めてキスをした。唇同士をそっとくっつけ合うだけのキスはとっくに済ませていたが、今日のそれは全くの別物。ファーストキスの思い出を全て上書きしてしまうほどの衝撃。まさしく、獣のように貪り合うようなキスはこれが初めてだった。


 最初の一回、僕らの唇は何十秒も重なったままだった。僕の手を包み込んでいたサヤコさんの手がするりと解け、そのままお互いが何の意思疎通も行わないままに指を絡ませ合った。


 このまま二度と離れないのではと思った唇が離れた時、彼女の口からふわりと溢れた吐息が妙に甘ったるい香りを伴って僕の顔に触れた。僕の目線の先にあった初めて見る彼女の表情。


 あぁ、僕はなんてことを────。


 本来僕が知るには相応しくない、知ってはならないはずの表情や唇の感触を知ってしまったことの後悔がまた僕を支配するよりも早く、彼女はまた僕の唇に自分の唇を重ねた。僕の側頭部を両側からしっかりと押さえ込んでのそれは、より情熱的で昂りと熱に染まっていた。無理やりこじ開けられた門の向こうにある僕の舌を、彼女の舌が的確に捉えた。それを避けようと反対側に舌を逃すと、当然のように追いかけてくる。ぬらぬらとしたその感触の交錯は徐々に僕を虜にした。幾度となく舌を絡ませ、互いの涎を混ぜ合い啜りあった。ほんの一瞬の呼吸の際に漏れた空気の流れすら恋しい。部屋の中にこだまする僕らの呼吸音と液体の絡み合う音。


 やっと僕らの唇が離れた時、舌の先からは相手の舌先から伸びる涎の橋が架かり吐息の中に揺れていた。サヤコさんの表情は本能を剥き出しにした雌に一層近づいていたが、彼女がそうであるのなら僕もそうなのだろう。そこに鏡があったのなら、そこに映る僕はきっと獣性に身を委ねた雄そのものに違いない。


 本当に、何十秒も、もしかしたら何十分もこうしていた気がする。右手首に巻いていた腕時計を確認しようと右下に視線をやった。するとサヤコさんが僕の右手首に自らの手のひらを重ねた。「時間なんて気にしないで」とでも言いたげなその寂しげな表情に促されるがままに、僕は時計の針を見ないように慎重にそれを外し部屋のどこかへ放り投げた。これで絶対に時計を見ることはない。


 だが、僕らの動きはそこで止まった。お互いの体を軽く愛撫するくらいのことはあったが、その手が直接的な場所を触ることはなかった。せいぜい頭や肩、背中を優しく撫でるか、限界間際を攻めて腿やふくらはぎに触れる程度。


 こつんと、サヤコさんの額と僕の額がぶつかり合った。相手の息遣いが間近に感じられる。


「ここから先は君次第。いつもみたいに、その場の空気に流されたりしないで、今この場にいる君はどうしたいのかを正直に教えてほしい」


 甘味の抜けたいつもの声色でサヤコさんは言った。僕の腿を触っていた彼女の手は僕の両手首に移り、痕が残るのではないかと思うほど強く握った。そこから感じる震えは、はたして僕のものか、それともサヤコさんのものか。


「……やっぱり、僕に、これ以上はもう、無理です」


 その沈黙は僕を理性的に、それでいて悲観的にさせるには丁度良いものだった。

 サヤコさんは伏せがちだった顔を上げて、真っ直ぐと僕を見つめる。


「嘘ばっかり」


 悲しみや寂しさがわずかに混ぜ込まれた微妙な微笑みを僕に見せつけた後、彼女の唇はまた僕の唇にそっと触れた。


 僕は、サヤコさんの言う通り嘘つきなのだろうか。いやそんなはずは。僕がこれ以上を望むだなんて、たとえそれが初めてではない行為だとしても贅沢が過ぎる。僕みたいな人間が彼女の肌に触れていいはずがない。だから、僕にはもう無理なのだ。しかしそうなると、この僕の内側から燃え上がるものは何だ。この昂りは、この熱は、この飢餓はどうやって説明すればいい。


 無理だ無理だと諦めていても本当の僕はその先を求めている。僕なんかにたどり着けるわけが無いと諦めていた山頂からの景色を、僕はその目に焼き付けたがっている。その体験に身を落としたがっている。


「サヤコさん」


 僕の零したその言葉に、サヤコさんは首をカクンと傾げて「何?」と優しく聞き返す。


「僕を、あなたの恋人でいさせてください」


 僕がかつて書いた恋愛小説のワンシーン。そこで僕は主人公にそう言わせた。ヒロインに恋をした主人公が二人の思い出の場所で告白をする。顔を真っ赤にして、目には涙がうるうると滲んでいて、その真摯な姿はヒロインの心を鷲掴みにする。あの甘酸っぱい瞬間を僕は今追体験している。


 僕が書いた話の流れ通りなら、告白を受けたヒロインは喜んでその告白を受け入れ、二人は熱い抱擁を交わすことになるのだが……。


「素敵な告白をどうも。でも女の子を本気で落としたいなら、もっとストレートに想いを伝えないとダメだよ?」


 サヤコさんは僕の額をぴしゃりと指で跳ねた。


「でも、君の本当の気持ちはちゃんと伝わった。だから、次は行動で示してもらえると、私は嬉しいな」


 部屋の照明を操作するためのリモコンに手を伸ばしたサヤコさんは、こちらを微笑んだままリモコンのボタン押し、部屋の闇の中に溶けて消えた。


 とっくの前に日は暮れ、月も空高くに昇った夜更け。ぶ厚いカーテンを越えてやってくるぼんやりとした月明かりだけがこの部屋の唯一の照明だ。そんな心許ない光はすぐにこの部屋の暗闇にかき消され、見覚えのある闇が僕を取り囲む。


 光が自らの存在理由を見失ってしまいそうなほどのどこまでも続く暗闇。その中で僕は恐る恐る手を伸ばした。恐る恐る進む僕の手のひらは、何かを捉えた。太陽の光よりも温かで、旅立ちを見送る春風のように優しげで、広大な星空や海のように寛大な、何かを僕は闇の中で掴んだ。


 「私はここにいるよ」

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