貴方の名前を呼んでもいいですか
──一度でいいから、先生の下の名前、呼んでもいいですか。そしたら、貴方も、僕のことを名前で呼んでくれますか。それが、僕の最初で最後の願いです。
高校には選択教科なんてものがあって、僕はなんとなく美術を選択した。一番仲の良い友達は、音楽を選択していた。僕にも友達にも選ばれなかった書道は、二番人気のようだった。僕が選んだ美術は三番人気、つまりドベ。美術を選んだ人たちが強者揃いだったらどうしようかと思った。しかし、授業を重ねていくうちに、そんな妄想が現実にならなくて良かったと思った。
その代わり、僕はとんでもない気持ちを産んでしまった。
「じゃあ、今日もまずはデッサンを、二十分でやってみようか」
低くてしなやかな声は、耳から入って腹に響く。僕は鉛筆を手に取り、目の前にある桃の食品サンプルをデッサンする。彼の床を撫でるような足音と、鉛筆と紙が擦り合う音だけが教室に包まれていた。
この空気は、あまり好きになれなかった。何故って、緊張するから。彼の影が近づいてくると、僕の心臓は音を立てて跳ね上がる。急速に速まる鼓動は、絵に対する不安感とか、そんなものからではなかった。彼に対する恋心からだった。
古谷先生、彼は皆からそう呼ばれていた。下の名前は、辰巳。一年生の時、第一回目の美術の授業で、彼は一度だけ名前を言った。古谷辰巳。僕は何度も、頭の中で繰り返した。彼は煙草臭かった。いつも教室の窓は開いていた。彼がすぐ側を通ると、苦くて独特な匂いが鼻を侵した。僕は彼の匂いが大好きだった。すぐに彼だと分かる匂いが。
彼の好きなところはまだまだある。背が高いのに、猫背なおかげでいくつか身長が縮んでしまっているところ。黒縁の眼鏡が似合っていて、知的に見えるところ。短い髪の毛は癖が強くて、治せずに寝癖のまま出勤しているところ。そして、腹に響く低い声。生徒に人気なのも良いところだけど、僕は少し嫉妬してしまう。疾しい気持ちなんてなく彼にくっつく生徒達を、何度羨ましく思ったことか。僕にも、気軽にあんなことができれば良いのに、なんて情けないことを考える。
「んじゃ、来週から夏休みなので課題を出します。一枚、自由にテーマを決めて絵を完成させてきてください」
僕は、どの教科の課題よりも美術の課題に力を入れた。彼に褒められたい。その一心で、毎年力作を持って行った。彼は、毎年僕の絵を見て、一番良い、と評価してくれた。そう言った彼の柔らかい表情が、僕は堪らなく好きだった。
三年生の半ば、受験勉強が忙しくなりつつある時期に、ある噂が広まった。
「古谷先生、結婚するらしいよ」
誰かが言ったこの言葉は、僕の奥底にある固いはずのこころを一瞬にして砕いた。身体が冷えていくのを感じた。赤いボールペンを持つ手は震えて、目の焦点は合わなくなっていた。急いでトイレの個室に移動した。扉を閉めた瞬間、涙が何粒も流れ落ちた。視界は揺らぎ、目の前は濁った海の中だった。僕は声を殺して泣いた。彼がもっと遠い存在になってしまうのが、とても怖かった。
噂を聞いて何週間かあとに、僕は思い切って彼に聞いた。結婚を、するんですか。ああ、おかげさまで。彼は恥ずかしそうに後頭部に手を当てた。今までにないくらい、心臓がぎゅっと締め付けられた。噂の真実は、期待したものとは真逆で、僕を暗闇の谷間に突き落とした。
失恋した。長い片想いは、一方的に幕を閉じようとしていた。でも僕は、何もせず終わるなんてことはできなかった。
卒業式当日、校舎の周りには僅かな雪が溶けきれずに残っていた。まだ冷たい風が、髪を静かに撫でる。後輩と先生、保護者が僕ら卒業生を取り囲む。その輪を外から見つめる彼の優しい瞳は、僕のこころを酷く熱くさせた。
「先生」
僕はいつの間にか輪を抜けて、彼に話かけていた。彼の左手の薬指には、シンプルな指輪が輝いていた。
「どうした?」
彼は僕の顔を覗き込むようにして、言葉の語尾をあげた。僕はそっと、彼の左手に触れた。ぴくりと動いた指先が、とても愛おしかった。
「辰巳さん、好きでした。ずっと」
僕の声は震えていて、彼の顔を見ることはできなかった。彼がどんな表情をしているのか、知りたくもなかった。心臓が痛む。爆発しそうなくらいに、痛くて苦しい。彼は突然の告白に驚いたのか、しばらく黙っていた。気持ち悪かっただろうか。迷惑なのは承知だった。困ってしまうことは目に見えていた。
「ありがとう」
そう言った彼の声はいつもより少し高くて、一番優しい声だった。僕は、抑えきれない涙を彼の手の甲に落とした。すると、彼はその左手で僕の左手を握った。
「卒業おめでとう、健太」
目を瞑ると、視界は真っ暗だった。でもどこか、色鮮やかに見えるような気もした。
触れる掌から感じる彼の指輪は冷たくて、お互いの暖かい体温を邪魔していた。幸せになってください。一番言いたかった言葉は、喉を通らなかった。何度も練習したのに、彼の幸せを心から願うことはできなかった。
「三年間、お世話になりました」
それだけぽつりと呟いて、僕は彼の手を離した。一瞬だけ見えた彼の表情は、初めて見るものだった。まるで、僕と同じような目をして、少し赤らめた頬は、夕陽によって誤魔化されていた。どうして、そんな顔をするんですか。
彼に背を向けると、重かった肩が少しだけ、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
そして、僕の三年間の青春は幕を閉じた。
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