浴衣はひらりと恋唄う

 八月十日。午後三時。雲はひとつかふたつだけ。まだ落ちたくないと粘る太陽が、町全体を照らし続ける。町民は皆、今日限りのお祭り会場に集まっていた。


 僕は白いTシャツの袖を肩まで捻って、見事な小麦色の肌を晒した。もう何年も履き古して、ぺちゃんこになった黒色のサンダルを地面に擦りながら歩く。それから、兄のおさがりで貰ったママチャリに手をかけ、大きめの籠に麦茶と携帯と財布を入れた茶色のポシェットを投げ入れる。


「暑いな……」


 思わず独り言を言ってしまうほどに、今日は一段と気温が高かった。年に一度の夏祭りが町の気温を上昇させているのだろう、と僕は適当なことを考える。

 サドルに尻を乗せると、熱が直接伝わってきた。あまりの熱さに一旦距離を取り、右手で熱を吸収してから、もう一度ゆっくり尻を乗せた。日陰に置いておいたつもりが、太陽が移動してかなりの時間日に当たってしまったみたいだ。


 自転車を一心に漕いで、僕はお祭り会場へ向かった。今日は、昔から仲の良い友人と待ち合わせをしている。彼は時間に厳しいから、もう着いているだろうと予想した。一方で、僕は時間にルーズだから、いつも彼より先に着くことはなかった。彼は優しい性格をしているので怒ることはないが、あまり待たせるのも申し訳ない。僕は、尻を浮かせ上半身を前に倒した。気温の割には涼しい風が短い髪の毛を踊らせる。



 十分もかからないで着いたお祭り会場は、案の定多くの人で賑わっていた。水ヨーヨーをベンベンと鳴らして遊ぶ小学生や、射的や金魚すくいで楽しそうにはしゃぐ中学生。たこ焼きと焼きそばを美味しそうに頬張る高校生。ビールを乾杯して笑い上戸になった大人達。ここにいる人は皆、今日という日を満喫しているようだった。

 自転車置き場には、かなりの量の自転車があった。分かりやすいよう隅の方に停めて、歩きながら友人に電話をかける。三コール目で出た彼の声は、近くにいる陽気なグループの声にかき消されそうだった。


「どこにいる?」


「串焼きのとこ」


「分かった。鶏多めでお願い」


「自分で買え」


 端的で無愛想な会話を交わして、合図も無しに電話を切る。串焼きの屋台は毎年会場の端だった。遠いところにいやがって、と僕は口を尖らせた。



 人混みを掻き分けて屋台と友人の姿を確認したとき、僕の目にもう一人の存在が映り込んだ。赤色を基調とした、大胆な花柄の浴衣を見に纏った美しい人。長い髪の毛を後頭部で結い、赤い椿の簪を光らせていた。ほんの少し赤らんだ頬と、浴衣に合わせた赤色の口紅が、僕の心を弾ませた。


「おい、どこ見てんだ」


 友人の低い声に、肩を跳ねらせた。でも、視線は彼女を捕らえて動かなかった。


「あの子、ここの町の子か?」


 僕は無心になって彼に問いかけた。彼は僕の目線を辿って、彼女を認識した。


「いや、知らないな。誰かの友達とかじゃないか?」


「でも一人だぞ」


「……ナンパでもしてこればいいんじゃないか? 見守っててやるからさ、ほら」


 彼はそう言って、僕の背中を強く叩いた。その反動で、右足が前に出る。僕の視線は、彼女を見つけた瞬間から一度も外れていなかった。


「見守ってろよ。言ったからな」


 彼の方に目は向けず、それだけ言い放って僕は前進した。

 今日くらい、勇気を出してみても良いだろう。もし彼女に相手がいても、僕は今日を嘆いたりしない。



 彼女の目の前に来ると、ふわっと香る甘い匂いが僕の嗅覚を刺激した。


「あの」


 緊張して声が震える。ナンパなんて、初めての経験だった。


「……私ですか?」


「はい」


 少し困ったように笑顔を浮かべる彼女は、夜空に打ち上げられた最上級の花火のように美しかった。


「その……一目惚れ、しました」


 思考が止まっていた僕は、直球に想いを伝えた。彼女は、それを聞くなり顔を真っ赤にして驚いた。


「ごめんなさい、急にこんなこと言って」


「良かったら、花火一緒に見ますか……?」


 彼女の綺麗な声が、僕の謝罪を遮った。予想外の展開に、僕の頭は思考を停止するどころか、もう爆発寸前だった。


「見ます! あ、じゃあ、八時半になったらそこの屋台の近くで」


 僕は串焼きの屋台を指差した。彼女は僕の指を目で追って、ひとつ頷いた。


「分かりました。楽しみにしてます」


 そう言った彼女の笑顔は、一生忘れないと確信した。向日葵のように輝いた笑顔に、僕の鼓動は加速した。「それじゃあ、また」と軽く手を振って背を向ける彼女。行く先には、浴衣を着た友人らしき人がいた。

 僕は安心感と緊張感を抱きながら、くるりと方向転換し友人の元へ戻った。


「どうだった?」


「花火、一緒に見ることになった」


「え、まじで? 嘘だろ」


「信じられないだろ、本当なんだよ」


 彼は、僕よりも驚いた反応を見せて、どんな会話をしたのかと詳しく聞きよった。僕は先程の会話を鮮明に思い出し、一言一句をそのまま伝えた。


「じゃあ、俺一人で花火見るってこと?」


「誰かほかのやつも来てるだろ」


 串焼きを食べながら、何気ない会話に発展していく。花火までの数時間、僕の心はぷかぷか浮いていた。大海原で波に任せて揺れているような、雲の上で不安定な風に揺れているような、そんな感覚が続いていた。



 午後八時二十五分。あんなに粘っていた太陽も姿を消して、大きな月とバトンタッチした。会場の賑わいは、先ほどよりも濃くなった気がする。

 僕は彼女と待ち合わせをした屋台の近くに来ていた。友人が、遅れるのは論外だろ、と言って僕を連れてくれた。彼女はまだ来ていなかった。忘れているだろうか、来てくれないのではないか、と僕は消極的な考えを巡らせていた。


「お待たせ」


 ボロボロのサンダルを履いてきたことに後悔していると、彼女の透き通った声が耳に届いた。反射的に顔を上げ、一向に見慣れない彼女を見つめた。


「ありがとう、来てくれて。僕、一番綺麗に見える場所知ってるんだ」


 出来るだけ落ち着いて、スマートな男性を装うことを意識した。彼女は嬉しそうな声をあげて、僕の横について歩いた。

 毎年友人と一緒に見ていた場所へ、彼女を案内する。心臓の音が隣を歩く彼女に聞こえていないか不安になるくらい、僕の胸は高鳴っていた。

 人気のない、崖の上。少し危険な場所だけど、花火は暴れて見るものじゃないから。彼女に気を配りながら、僕らはとっておきの場所で打ち上げ花火のカウントダウンを待った。


「楽しみ」


 遠くから聞こえる大勢の人の声を背景に、彼女の独り言が浮き上がる。耳触りの良い声は、僕の気持ちを高揚させる。彼女の独り言からたった数秒で、会場アナウンスが始まった。


「さあこの後八時四十分からは、皆さんお待ちかね打ち上げ花火です!」


 僕らは小さく歓声を上げて、アナウンスの次の言葉を待った。辺りはすっかり暗くなり、彼女の顔にさえももやがかかって見えづらくなっていた。


「それでは、カウントダウンをしましょうか! 十からいきましょう、十……九……」


 カウントダウンが始まると、僕らとは離れたところにいる人達の声が重なって聞こえてくる。それを聞きながら花火が打ち上がるのを待っていると、彼女が遠くの声に合わせて小さく手拍子をして、その透き通った声で数字を数え始めた。


「五……四……三……二……一……!」


 彼女に釣られて、僕も緊張で枯れた喉を働かせた。カウントダウンが終了してすぐに、ドンという低い打ち上げ音がすると、ヒュウ〜と転がるような音を響かせながら夜空に向かって花火の種が飛んでいく。この数秒の間は、会場の音が消えたような気がした。皆が息を飲んで、一発目の花火を待ち望んだ。天高くまで登った種はふと姿を消して、次の瞬間、僕らを飲み込むくらいの大きな花火に姿を変え、弾け飛んだ。一気に目の前が明るくなり、そしてまた暗くなる。ほんの数秒の興奮が、僕らの胸に押し寄せる。


「わあ……」


 彼女の控えめな歓声が聞こえる。僕はゆっくり目線をずらして、彼女を見た。すると、視線に気付いた彼女もこちらを見た。目が合った。僕は動揺と歓喜の狭間に迷い込んだ。

 どのくらい、見つめ合っていたのだろう。何度か腹に響く花火の音が聞こえて、それと同時に僕らの顔が照らされた。花火に照らされた彼女は一段と綺麗で、僕の心臓は高鳴り続けていた。


「私、今とっても幸せです」


 喉の奥が痞えて声の出ない僕に、彼女はそう言った。優しい微笑みが視界いっぱいに広がる。彼女の言葉の意味を理解することはできなかったが、僕は本能のままに口を開いた。


「僕も、すごい幸せだよ。……君の名前を、教えてほしい」


 首を小さく横に振って、僕もほんの少し口角を上げた。緊張で頬が強張り震えてしまう。

 僕の問いを聞くなり、彼女は目線を足元にずらした。それから、花火が何発か打ち上げられ、音が無くなった。遠くから聞こえる歓声と、「もう終わり?」と嘆く声だけが響いている。


「私……」


 彼女が口を開くと同時に、打ち上げ花火が再び打ち上げられた。今までで一番大きな歓声と連続する打ち上げ音が、今最も豪華な時間だということを知らせてくれる。


「松本かすみです」


 顔を上げ、もう一度僕の見た彼女の目には、確かに涙が溜まっていた。僕は更なる動揺で、より彼女から目が離せなくなっていた。


「どうして、泣いてるの?」


 次の瞬間、彼女の目からは一粒の涙が流れ落ち、僕はその理由を聞いていた。

 彼女は三回薄く瞬きをして、微笑みながら唇を強く結んだ。もうこれ以上の涙が流れないように我慢しているようだった。いつの間にか、打ち上げ花火は煙だけを残して、姿を消していた。終了の合図である乾いた花火の音が鼓膜に打ち付けられる。遠くに聞こえる歓声は、拍手とともに共鳴していた。


「私、もう長く生きられないの」


 僕の問いかけに、彼女はそう答えた。頭の中が真っ白になった。震えた彼女の声が、脳裏で何度も繰り返される。悲しい言葉のはずなのに、彼女の優しい笑顔が咲いていて、複雑な気持ちに僕の目にも涙が浮かんだ。


「今日、特別に外出を許してもらったの。ずっとベッドの上で過ごしてた。こんな素敵な浴衣を着たのも初めてで、最高に楽しい一日で……そこに、君が現れてくれて。人生で一番、幸せな日だった」


 彼女の口から発せられる一言一言が、僕の胸を強く握って潰そうとする。暖かい声色に、柔らかな表情が愛おしい。

 僕は、彼女を優しく抱き寄せた。


「僕が隣にいる。だから、安心して。明日も、明後日も、きっと幸せな日だって思えるように……僕が君の側にいる」


 彼女はそっと、僕の背中に手を回した。静かに鼻を啜る音が鎖骨から伝わってくる。

 遠くから聞こえていた歓声も終わりを告げ、会場はまたまばらな会話で賑わっていた。僕らは暗い崖の上で見つめ合っていた。


「貴方の名前、まだ聞いてない」


 ゆっくり体を離し、彼女は呟いた。僕は慌てて名前を言った。


「慧だよ。佐藤慧」


「けいって、どんな字を書くの?」


 彼女から放たれる僕の名前は、今までで一番輝いていた。躍る気持ちを抑えながら、僕は続けて話した。抑えきれない気持ちが声に乗る。


「彗星の彗の下に心。僕のおじいちゃんがつけてくれたんだ」


 僕の話に、彼女は頷きながら丁寧に笑ってくれた。彼女の動作一つ一つが、僕の心を落ち着かせていく。彼女の隣にいれば何も怖くないと、そう思った。



 彼女は生まれつき身体が弱く、何年も前からほとんどの時間を病院で過ごしていたという。あの後、彼女の友人から連絡が来て、僕らはお別れをした。別れ際、彼女から連絡先の交換をしようと言ってくれた。携帯の画面に彼女の連絡先が表示され、僕はまた心が躍った。


 翌日、メッセージを送ったが、彼女から返事が来ることはなかった。僕は背筋が凍るような感覚に襲われ、病院へ向かった。昨日の内に聞いておいて良かったと、心の底から思った。

 病室には、家族と友人がいた。彼女の母親は、僕を見つけるとすぐに手招きをしてくれた。昨日彼女が嬉しそう話していたと、そう教えてくれた。僕は静かに彼女のもとへ歩いた。昨日と変わらない、優しい表情で眠る彼女がそこにいた。視界が揺らぎ、彼女をうまく捉えられなかった。彼女の華奢な手は冷たくて、もう生きていないのだと実感した。止まらない涙は、彼女の手に落ちてはなめらかな白い肌を伝っていった。


「これを、慧くんにと、かすみに昨日渡されたんです」


 彼女の母が、そう言って白練色の手紙を僕に差し出した。便箋を取り出すと、彼女の綺麗な文字が並ばれていた。



慧くんへ

今日は、とても素敵な時間をありがとう。

本当はもっと一緒にいたかったです。

慧くんのおかげで、今日の夜はぐっすり寝られそうです。

君がそばにいれば、もう何も怖くありません。

出会ってくれてありがとう。愛しています。

かすみより



 便箋を握る手が震える。ぽつぽつと音を立てて、彼女の文字が霞み歪んでいく。僕はもう一度彼女に寄り添った。


「ありがとう、ありがとう……」


 かき消されそうな声と、苦しそうに啜り泣く音だけが病室に響いた。

 僕は、彼女の何かになれたのだろうか。彼女の心に寄り添うことができたのだろうか。

 一抹の不安が押し寄せたが、瞼を閉じてそこに現れた彼女は微笑んでいた。愛らしい笑顔で、僕を見つめていた。目を開けて眠る彼女を見ると、心なしか笑っているような気がした。そっと触れた頬は冷たくて、僕の体温で温められた手との温度差が悲しかった。

 彼女に出会えた奇跡に、僕は心から感謝した。


「愛してる」


 僕は、彼女の額にキスをした。僕の声が、君に届いていますように。

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