乾杯

 この鼻にツンとくる嫌な匂いは、一体どこからしているのか。僕は役目を知らない閉じきった瞼を甘やかして、どうにも冴え切らない鼻と頭に頼ってみた。

 ああ、これは、と三十秒ほどで答えに行き着く。生ゴミの匂いか。道理で本能が嫌がるわけだ。


 微妙に動く眉に気づくことのないまま、僕は深く息を吸った。なぜこんなことをしたのか自分でも理解できないが、嗅ぎたくないものほど、嗅いではいけないものほど嗅ぎたくなるのが人間の性だろう。ほうれい線がくっきりと浮かび、僕の顔は一瞬で老けきった。みっともない顔をしていたと思う。好きな人の前では到底見せられない顔を。まあ僕に好きな人なんてものはいないのだが。


 今、可哀想なやつだ。とか思った奴らがいたのなら一生をかけて呪ってやろう。家にあるもので人形を作って、僕のことを蔑んだであろう奴らを平等に釘刺していこう。


 はあ。部屋の一角で放たれ溶けていった溜息が、僕の体力を表していた。今日もこれっぽちもありゃしない。僕の活力は一体どこへ行ってしまったんだ。戻ってこい、僕の活力。おまえのおうちはここにあるよ。



 妙に右肩が痛くなったと思うと、足も耳も全部が違和感を押し出してくる。僕が仕方なしに寝返りを打つと、ベッドは呼応するようにギシギシと音を立てる。いや、痛い痛いと言っているようにも聞こえる。僕はそんなに重くないぞ、とベッドに訴えようにもこいつには聞く耳がない。残念だ。もしこいつが耳もあって口もあったなら、僕らはきっと仲良くなれたのに。


 何となく目を開けた。瞼の裏でゴロゴロと左右を行き来する眼球に苛立ちを感じた。先ほどまで背中を向けていた空間がざっと眼に映る。

 汚い。気分が下がった。僕は何てダメな人間なのだろうと思った。片付けもできない。ベッドから出れもしない。人にも会いたくないし喋りたくもない。漠然とした不安が、絆創膏だらけの心に追い討ちをかける。


 ああ、まただ。喉がヒクヒクする。鼻がピクつく。目頭が沸騰する。眼球が行き場を無くしたように揺れ動く。このまま感情に身を委ねれば、僕は涙を流すだろう。そうだこのまま、悲劇のヒロインみたいに泣いてしまおう。徐々にぼかされていく視界が気持ちいい。僕の情緒は取り残された。今感じるのは悲哀だけだ。


 しにたい。きえたい。僕という存在が無かったことにはならないだろうか。親も兄弟も友達も、皆々僕のことを忘れてしまえばいいのに。戸籍もなにもかも消えてなくなれば、僕はもうこの世界に必要ないのに。



 お腹が僕を呼んでいる。何かここにものを入れておくれ、とアナウンスしてくる。分かってる。昨日の夜から何も口にしていない。お腹が減らないわけではない。だけど、何か食べようとも思わない。いっそこのまま餓死してみようか。いや、しぬならもっと楽に逝きたい。

 僕は数分呆けて、やっと重い腰を起こしてみた。


 ああ、嫌だ。


 たった一瞬で僕の脳を蝕むのは、罪悪感、嫌悪感、焦燥感。いつでも僕の隙を狙って、ひゅんっと簡単に入り込んでくる。厄介がすぎる。僕はこいつらを逃すためにもう一度身体を倒した。リラックスして、目を閉じる。眉間に集中する力をゆっくりと抜いて、揺れるため息を吐いた。ほんの少しだけ心が落ち着くような気がした。


 鼻筋を横切る涙を感じて、僕は口の端を動かした。幸せになりたい。そう思った。


 結局何時間もあと、日が暮れた頃に僕は身体を起こした。残り少ないシリアルを賞味期限切れの牛乳で溶かして、固い喉に放り込む。僕は生を実感する。なんで生きているんだと問いかけても、答えに行き着くことはないと思う。きっと本能が、まだしんではいけないと感じているのだろう。


 食べ終わった食器を洗うことはなく、僕はまたベッドに身を預けた。今日も一日が終わってゆく。早いのか遅いのか、明日も同じ一日なのか。月明かりだけに照らされる部屋が息苦しくて堪らない。僕は壁と向かい合い、布団に顔を埋めて息を殺した。胸がドクンドクンを鳴り響く。


 いやだ。こわい。

 震える唇が気持ち悪い。

 人生なんて、しんでしまえ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る