エピローグ

 四月、あの出来事から早くも八か月が過ぎた。

 僕は一学年上がり、大学二年になった。


 救助されてからしばらくの間、周囲は騒がしかった。

 あの大企業、山本グループの現社長だった山本正さんの死は大きな話題となり、連日連夜、様々なニュースで取り上げられた。しかし、それ以上に人々の関心を集めたのは『月辺島』に生息しているツキノワグマについてだ。

 ツキノワグマの群れが人間を襲うというショッキングな事件は、たちまち日本中に広まった。

 単独で行動し、草食性であるはずのツキノワグマが何故、群れで人間を襲ったのか?

 そもそも何故、本来居ないはずのツキノワグマが『月辺島』に居たのか?様々な謎が検証された。

 その結果、島にツキノワグマを持ち込んだのは山本グループの前社長だった山本惣五郎であり、ツキノワグマが肉食性に変わったのは同じく島に持ち込まれた鹿が原因であると明らかにされた。

 山本グループは世間から大バッシングを受け、責任者の数名が辞職。

 前社長の行為を黙認していた者達は警察に逮捕された。

『月辺島』で僕達と一緒に生き残った勝也さんもその一人で、彼は現在会社を解雇され、裁判を受けている。

 同じく、『月辺島』の生き残りである田沼さんとはあれ以来一度も会っていない。

 風の噂によると、島から救出された後にPTSD——心的外傷後ストレス障害を発症し、治療を受けているという。


『月辺島』のツキノワグマに関しては、島に居る全てのツキノワグマを駆除すべきだという意見と、殺さずに保護するべきだという意見の真っ二つに分かれ、大論争になった。

 そんな時、ある事件が起きる。

 僕達が救助されて数か月後、『月辺島』に上陸した人間がツキノワグマに襲われ、八名が死亡。十五名の重傷者を出す出来事があった。

 この事件を受け、政府は『月辺島』への半経一キロ以内の接近を禁止。何人たりとも島に上陸出来なくなった。

 政府がこのような決定をしたのは、島のツキノワグマを全て駆除するとなると、またしても犠牲者が出るかもしれないと考えたから。幸い『月辺島』は本土から遠く離れている。ツキノワグマが本土に泳いで渡るのは不可能だと判断し、島への接近を禁止したのだ。


 こうして、『月辺島』は何人たりとも立ち入れない聖域となった。


 人を捕食するようになったツキノワグマに、電話線を噛み切って外と連絡を取れなくしたネズミ。『月辺島』で起きた惨劇の半分以上は動物により引き起こされた。

 もし、『月辺島』に、人間以外の動物が居なければ、あの異様な状況は生まれていなかっただろう。殺人事件だって起きなかったかもしれない。

 でも、動物達を島に持ち込んだのは、人間だ。

 ツキノワグマもネズミも元々はあの島には居なかった生き物。それを島に持ち込んだのは紛れもなく人間。本来は臆病で大人しいツキノワグマを恐ろしい人食い熊に変えたのは人間なのだ。

 人を食べるツキノワグマよりも、人間の方がよっぽど恐ろしい。

 テレビやネットでは、『月辺島』で起きた事件は全て人のせいで起きた災い、『人災』だとする声が日増しに大きくなっている。

 そして、いつしか『月辺島』はこう呼ばれるようになった。

 

人災島じんさいとう』と。


「少し早かったかな?」

 電車を降りた僕は、携帯で時間を確認した。

 今日、僕は遊園地である人と待ち合わせをしている。普段、お洒落には全く無頓着な僕だけど、この日ばかりは服装にも気を使った。

 約束の時間まではまだ三十分以上ある。まだ来ていないだろうなと思いつつ、待ち合わせの場所に行ってみると、既にその人は居た。

 黒く長い髪に整った容姿、身に纏っている服と履いている靴は髪と同じ黒だ。道行く人達の視線は自然とその人に吸い寄せられる。

 僕は慌てて、その人に駆け寄った。

「ごめん、待った?」

「いいえ、私が早く着き過ぎたんです。あまりにも楽しみで」

 彼女はニコリと微笑む。一体、いつから居たんだろう?

「今日はよろしくお願いします。

「その呼び方、まだ慣れないね」


 僕が待ち合わせをしていた相手——それは黒原さんだ。


『月辺島』の事件後、黒原さんは僕と同じ大学を受験した。結果は余裕の合格。四月から黒原さんは僕の後輩になった。

 黒原さんの学力ならもっと上の大学にも行けたはずなのだが、僕と一緒に通いたいという理由でうちの大学を受験したらしい。なんだか申し訳ない気持ちになる。

「仕事は大丈夫?」

「はい、ひと段落着きました」

「黒原さんの新作。楽しみにしてるね」

「誰よりも雨音先輩に読まれるのが一番緊張します」

「あははは」

 遊園地に入ると、中は多くの人で賑わっていた。

「最初はどこに行こうか?」

「先輩と一緒に乗ってみたいアトラクションがあります。そこに行っても?」

「うん、良いよ。行ってみよう」

「ありがとうございます」

 黒原さんは僕の手をそっと握る。僕もその手を優しく握り返した。


 僕は今、黒原さんと付き合っている。

 遊園地に来たのもデートをするためだ。


『月辺島』から戻ったばかりの頃、僕は極度の体調不良に悩んでいた。


『白崎部長が事件を起こしたのは僕のせいじゃないか?』

『僕が白崎部長の想いに気付いていたら、事件を防げたんじゃないか?』

『殺人を止められなかった僕に、生きる資格はあるのだろうか?』


 そう悩み、何度も、何度も自問自答した。

 食欲は無くなり、夜眠ると悪夢を見て飛び起きるという事を繰り返すため、慢性的な睡眠不足にも陥った。

 

 そんな僕の側に、黒原さんはずっと居てくれた。

 あの事件後も、僕と黒原さんの交流は続いており、電話やメッセージで連絡を取り合ったり、直接会ったりもしていた。

 本の執筆や受験で忙しいだろうに、僕の傍に寄り添い、話を聞いてくれた黒原さん。

 彼女のおかげで少しずつ体調は良くなり、今では前みたいな生活が出来るまでに回復した。黒原さんが居なければ、僕はまだ事件を忘れられず苦しんでいただろう。彼女には感謝してもしきれない。

 その感謝の気持ちが恋愛感情へ変わるのに、それほど時間は掛からなかった。

「雨音さんが好きです。この気持ちはずっと変わらない確信があります。どうか、私と付き合っていただけないでしょうか?」

 黒原さんから二度目の告白をされた時、それを断る理由はもう無かった。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 僕が返事をすると、黒原さんは笑った。その笑顔を僕は忘れないだろう。


 こうして、僕と黒原さんは恋人になった。


「次はあれに乗ろうか」

「はい」

 遊園地デートは、とても楽しかった。

 子供の時に来て以来だけど、最近の遊園地はアトラクションが多種多様で飽きない。黒原さんも、とても楽しんでいる様子だった。

 だけど、楽しい時間はあっという間に過ぎる。いつの間にか日はすっかり落ち、周囲は暗くなっていた。名残惜しいが、そろそろ帰らないといけない。僕達は遊園地の締めとして、大きな観覧車に乗った。

 観覧車が上昇すると、人や建物がどんどん小さくなっていく。ひょっとして、観覧車から自分の家が見えるのではないかと目を凝らしてみたけど、残念ながら家は見えなかった。

「今日はありがとう。楽しかったよ」

「私もです」

「また何処かに行こうね」

「はい、必ず」

 観覧車は上昇を続ける。もうすぐ頂上に着くというタイミングで、黒原さんは口を開いた。

「雨音先輩」

「ん?何?」

「何か悩んでいますか?」

「……ッ!」

 驚きのあまり、一瞬息が止まる。

「ど、どうして?」

「なんとなくです。そんな気がして」

 心配を掛けまいと明るく振る舞っていたのに、あっさり見抜かれてしまった。

「ひょっとして、また『あれ』が来たんですか?」

「……うん」

 黒原さんは僕の悩みすらも簡単に言い当ててしまう。どうやら、彼女に隠し事は出来ないみたいだ。

「黒原さんは言ってくれたよね。『雨音さんは前に進まなければいけません』って。僕もそう思う。でも、いざ『あれ』が来るとやっぱり迷ってしまうんだ。このまま何もしなくて良いのかって……」

 震える僕の手を、黒原さんは優しく包んでくれた。

「大丈夫です雨音先輩。先輩は何も間違っていません」

「……黒原さん」

「先輩が迷う度に、私は何度でも言います。先輩は間違っていません。先輩は前に進むべきなのです。何もかも忘れて」

 黒原さんは柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔はいつだって僕の心を癒してくれる。

「ありがとう黒原さん。話して良かったよ」

 黒原さんは優しい目で僕を見つめる。

「先輩は誰にも心配を掛けたくないと、悩みを一人で抱えてしまいますが、悩みがあればいつでも私に話してください。先輩の悩みや不安は全て私が取り除きますから」

「うん、分かった」

「雨音先輩」

「何?」

「私は、先輩の恋人になれて——とても幸せです」

 顔を赤く染めた黒原さんが真っ直ぐ僕を見ている。たぶん、僕の顔も黒原さんと同じように赤く染まっているに違いない。

 赤くなった彼女の頬に、僕はそっと手を添える。

「僕も黒原さんの恋人になれて、とても幸せだよ」

 頂上に着いた観覧車の中で、僕達は静かに唇を重ねた。


 これからも黒原さんと一緒に生きたい。

 僕はそう強く願った。

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