それは、黒原蕾が遊園地に行く数日前の出来事。


 天気予報によると、今日は雨が降るらしい。黒い雲が空一面を覆っていた。

 黒原は鞄と傘を持って家を出ると、ある場所を訪れる。


 手続きを済ませ、持ち物検査と身体検査を終えると案内に従って部屋の中に入る。その部屋は半分がアクリル板で仕切られていて、目の前には椅子が一つ置いてあった。黒原はその椅子に座って静かに待つ。しばらくすると、その人物は黒原の前に姿を見せた。

「やぁ、来てくれてありがとう。黒原さん」

 アクリル板の向こうで不気味な笑みを浮かべるその人物に、黒原は言った。


「お久しぶりですね。白崎さん」


 黒原が訪れたのは拘置所にある面会室。

 少し前、黒原の自宅に一通の手紙が届いた。手紙の差出人は白崎明。

 手紙には一言『会って話がしたい』と書いてあった。

「家に手紙が来た時は驚きました。どうやって私の住所を知ったんですか?」

「色んな手を使ったのさ……色んな手をね」

 白崎はクックックと笑う。


 あの時、白崎は死んでいなかった。

 屋上から落ちそうになる白崎の手を、雨音はギリギリの所で掴んでいたのだ。雨音が助けられなかったのは、春日意次。

 雨音は白崎と春日の両方を助けるつもりだったが、雨音が掴めたのは白崎の手のみ。

 春日に伸ばした手は、あと数センチの所で空を切った。

 屋上から落下した春日は即死。その死体はツキノワグマの群れに食い尽くされた。


『月辺島』から救出された後、白崎は生き残った他の人間の証言により逮捕される。

 だが、その裁判は圧倒的な証拠不足から、混乱を極めた。


 事件発覚後、警察は調査のため『月辺島』へ数人のハンターと共に上陸。その瞬間、彼らはツキノワグマの群れから奇襲を受ける。長い船旅から解放され、気が緩んだ瞬間を狙われた彼らは銃を使う暇もなく、次々とツキノワグマの餌食となった。

 この奇襲によって、警察とハンター合わせて八名が死亡し、十五名の重傷者が出る大惨事となる。生き残った警察とハンターは本土に引き返すしかなく、殺人事件の調査は断念せざるを得なかった。

 この事件をきっかけに『月辺島』への半経一キロ以内の接近が禁止されたため、事実上、証拠を集めるのは不可能となる。

 白崎の弁護士は山本正、飯田美琴、伊達美代。

 この三つの殺人については物証の少なさから無罪を主張。黒原達に対する殺人未遂についても、当時の彼女は極度の恐怖やストレスによって善悪を判断出来る状態になかったとして、無罪を求めている。


「積もる話はあるが、面会時間は短い。だから単刀直入に用件を言わせてもらうよ」

「どうぞ」

「君を呼んだのは訊きたい事が二つあるからだ。一つ目はライフルについて」

「ライフル……別荘にあったあのライフルですか?」

「そうだ。私が使ったあのライフルだよ。あのライフルについて疑問があるんだ」

「どのような?」

「あのライフルは何故、破裂したんだろう?」

 白崎は自分の顎をなぞる。

「最初は整備不良で破裂したのかと思った。整備不良のライフルが破裂する事故はよく起きるそうだからね。だけどふと、もう一つの可能性に気付いたんだ。もしかして、?ってね」

「……」

「その人物は、私がライフルの弾丸を隠し持っているのに気付いた上で、引き金を引けば破裂するようライフルに細工した。さらに、。『ライフルに細工をしました。引き金を引けばライフルは破裂します。飯田さんの仇を討てますよ』とでも囁いてね」

 白崎は肘を付き、顔の前で両手を組む。

「急にそんな事を言われ、春日君は困惑しただろう。もし、その人物の言葉が正しければ、飯田君の仇が打てる。だが、もし違っていれば襲い掛かっても撃たれて無駄死にするだけ。彼は本当にライフルが破裂するかどうか静観する事にした。そして、その人物が言った通りライフルが破裂すると、彼は私を屋上から突き落とそうとしたんだ。ライフルが破裂した瞬間、彼が誰よりも早く動けたのは、ライフルが破裂すると、あらかじめ教えられていたからだよ」

 棘のような声で白崎は言う。

「ライフルに細工し、それを春日君に伝えたのは黒原さん、君じゃないのかい?」

「私が……ですか?」

「あのライフルはずっと地下室にあった。地下室に閉じ込められていた君なら、ライフルに細工をするのはたやすい」

 白崎は続ける。

「君は私が追い詰められれば雨音君以外の人間を殺そうとする事、殺するなら証拠の残りにくい屋上で皆を殺そうとする事、さらにライフルが破裂すればあの女——飯田君を殺した私を春日君が屋上から突き落とそうとする事まで読んでいた」

「……」

「君が自分を撃つように言ったのは、他の人間を助けるためじゃない。春日君から私の意識を逸らすためだ。ライフルが破裂した際、春日君が私に向かって行きやすいように、君は私の視線が彼から外れるようにしたんだ」

 白崎は、暗く冷たい目で黒原を見る。

「君は自分の手を汚さずに私を殺そうとした。違うかい?」

 シンとした空気が面会室に流れた。

 黒原は記録を取っている刑務官を見る。普通、こんな会話をしていれば面会は即中止されるはずだ。しかし、何故か刑務官は動こうとしない。黒原と目が合った刑務官は、慌てて視線を逸らした。

 なるほど、と黒原は思う。白崎は買収するか脅迫するかして、刑務官を懐柔したのだ。刑務官の怯えた様子を見るに、おそらく後者だろう。黒原と白崎の二人がこの場でどんな会話をしようとも、刑務官は黙認するに違いない。

 黒原は会話を再開した。

「私が貴方を殺す動機は何です?」



 白崎は唇の端を上げる。

「飯田君が死に、私までも死んでいたら雨音君はさらに大きな心の傷を負っていただろう。私が居なくなれば、君は雨音君を独占出来る。傷付いた彼に寄り添い、側で支え続けていれば、いつか彼は自分を愛してくれるようになる。そう考えたんじゃないのかい?」

「……」

「私は雨音君と一緒に事件を捜査する事で彼から愛されようとしたが、君は傷付いた彼を支える事で愛してもらおうとした。困難を乗り越えた二人が物語のラストで結ばれるのと同じく、傷付いた自分を支えてくれた相手と恋に落ちるのは物語の王道だからね」

 白崎がそこまで話すと、長い沈黙が続いた。黒原は静かに口を開く。

「面白いですね、実に面白い推理です。別荘で貴方自身が言っていましたが、貴方は謎を作るよりも、謎を解く方が得意なようですね」

 黒原は妖しく微笑む。

「ですが、残念ながらその推理は間違っています。私は何もしていませんよ」

 白崎は刺すような目で黒原を見るが、黒原は妖しい笑みを崩さない。

 再び沈黙の時間が面会室を支配する。まるで極寒の中に裸で居るような寒さを感じ、刑務官は身を震わせた。

「はぁ、仕方ないか」

 つまらなそうに白崎は頬杖をつく。

「君がライフルに細工をしたという証拠も、君が春日君を唆して私を殺そうとしたという証拠も無い。君に違うと否定されれば、もうどうしようもない」

 白崎は大きく肩を竦めた。

「訊きたい事は二つあると言っていましたね。もう一つは何ですか?」

「……雨音君の事だ」

 白崎の目が鋭くなる。

「私は何度も雨音君に『面会に来て欲しい』と手紙を送ったのだが、雨音君は一向に会いに来てくれない。手紙が届いてないんじゃないかと思ったが、どうやらそうではないようだ。君、何か知らないかい?」

「私が止めました」

 黒原はあっさりと答える。

「私が雨音先輩に、貴方とはもう会わない方が良いと言いました」


 白崎から手紙が来た時、雨音はそれを黒原に伝えた。

 どうすれば良いだろうかと迷う雨音に黒原は、

『白崎さんと会うべきではありません』

 と言って、雨音が白崎の面会へ行くのを止めたのだ。

『雨音先輩は前に進まなければいけません。白崎さんの事はもう忘れるべきです』

『……そうだね。そうするよ』

 黒原に諭された雨音は、白崎の面会へは行かないと決めた。


「やはり、君が雨音君を止めていたか。優しい彼が面会に来てくれないなんておかしいと思っていたよ」

 白崎は「フッ」と息を吐いた。

「ところで、気になってたんだけど……『月辺島』で君は雨音君を『雨音さん』と呼んでいた。だけど今、君は雨音君の事を『雨音先輩』と呼んだ。もしかして、私達が通っている大学に入ったのかな?」

 訊かれた黒原は頷く。

「はい。四月から通っています」

「雨音君に会うため?」

「そうです」

「彼は元気かい?」

「ええ、とても」

「そうか、それは良かった」

「今は私とお付き合いしています」

 バン!

 その瞬間、白崎は透明なアクリル板を手のひらで叩いた。刑務官はビクッと体を震わせたが、黒原は眉一つ動かさない。

「そうか、君はまんまと目的を果たしたわけか。まぁ、私が死のうが生きて刑務所に入っていようが、君が雨音君を独占出来る状況なのには違いないからね。この半年の間にゆっくりと時間を掛けて彼を落としたというわけか」

 無表情で淡々と話す白崎だったが、突然、笑みを浮かべる。

「だけど、君にも誤算はあった。唯一の誤算がね」  

「誤算?」

「雨音君が私を助けてくれた事だよ。彼が私を助けたのは君にとって計算外だった。違うかい?」

 白崎との面会で初めて、黒原の表情が微かに揺れた。

「私は生きている。生きていればまた雨音君に会える。そして、会えば彼の気持ちも変わるかもしれない」

 白崎はニヤリと嗤う。

「君が殺そうとした私を彼は救ってくれた。やはり、私と雨音君は結ばれる運命なんだよ」

「話はこれで終わりですね」

 黒原は静かに席を立つ。

「では、私は帰ります」

「雨音君に伝えてくれ」

 ドアノブに手を掛ける黒原に向かって、白崎は叫ぶ。

「愛している。と、そして……必ず会いに行く。とね」

 それは、自分は必ず無罪になるという自信の表れか。

 それとも脱獄してでも会いに行くという宣言か。

 最後に、白崎と黒原は言葉を交わす。


「雨音君は私のものだ。いつか必ず奪い返す」

「いいえ、雨音先輩は私のものです。誰にも渡しません」


 黒原はドアを開け、そのまま面会室を後にした。


 拘置所を出た黒原は思う。

 あの様子だと、白崎明はまた雨音先輩に手紙を送るだろう。いや、もう既に送っていて、雨音先輩の元に届いているかもしれない。雨音先輩が白崎明と再び会う事だけは絶対に避けなければ。これからは今まで以上に、雨音先輩の様子に注意を払っておく必要がある。

 証拠が無いとはいえ、白崎明が裁判で無罪になる確率は低いだろう。それよりも警戒しなくてはならないのは脱獄の方だ。雨音先輩に会うためなら、白崎明は脱獄くらいする。あれはそういう人間だ。


 もし、脱獄した白崎明が雨音先輩に接触するような事があれば、その時は——。

 

 ピコン。

 鞄の中に入れていた携帯が鳴った。確認すると、一件のメッセージが届いている。メッセージを開いた瞬間、黒原は目を輝かせた。

『よければ今度、一緒に遊園地に行きませんか?』

 それは最愛の人からのデートへの誘い。黒原はすぐに返信する。

『はい、喜んで』

 二人はメッセージを送り合い、詳しい日時や待ち合わせ場所を決めた。

『じゃあ、また』

『遊園地、楽しみにしています』

 黒原は携帯を鞄に戻す。すると、曇り空から落ちた水滴が顔に当たった。持っていた傘を開いた直後、本格的に雨が降り始める。

 そうだ、今度は雨を題材にした物語を書こう。頭の中に新作のアイデアが浮かんだ。

 幸せそうに微笑むと、黒原はゆっくり歩き出す。


 周囲を包む、優しい雨の音に耳を澄ませながら。

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