③
「『
昨日、食事の席で黒原さんがそう言った時、僕は心底驚いた。何故なら『暖炉の前で』は僕が書いた小説だからだ。
僕が『暖炉の前で』を書いたのは一年前。
高校の頃、僕は文芸部に入っていた。その文芸部では毎年、文化祭で部員が書いた詩や小説を一冊百円で販売する。
『暖炉の前で』は文化祭に出すために書いた小説だ。
去年の文化祭は当日に風邪を引いてしまって行けなかったけど、後で他の部員から僕の書いた小説を買ってくれた人がいたと聞いた。
一年の時も、二年の時も文化祭のために小説を書いたけど、一冊も売れなかった。今年も売れないだろうなと思っていただけに、とても嬉しかったのを良く覚えている。
「もしかして、僕の小説を買ってくれたのって黒原さんだったんですか?」
「はい、そうです」
黒原さんは笑みを深める。
それから、彼女は一年前の出来事を話し始めた。
「私が小説家としてデビューしたのは中学の時でした。最初に書いた『闇化粧』以降、私は何冊も小説を書きました」
黒原さんの書いた小説は『闇化粧』だけでなく、全ての作品がヒットしている。
まさに、彼女は天才だ。
「ですが突然、私は小説が書けなくなりました。あれだけ溢れていたアイデアが全く出なくなったのです。どんなに書こうとしても、一文字も書けませんでした」
黒原さんは胸を押さえ、顔を歪める
「小説を書きたくても書けないというのは、まさに地獄の苦しみでした。苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて……この苦しみから逃れるために、死のうとさえ思いました」
「黒原さん……」
「安心してください。今は大丈夫です」
それから黒原さんは、小説のネタを探しに毎日彷徨っていたのだという。創作の刺激になりはしないかと、知らない場所にも積極的に足を伸ばしていたらしい。
でも、一向に小説は書けなかった。
「ある日、私は家から少し離れた場所にある高校の前を通りました。その高校ではちょうど文化祭をしており、様々な催し物が行われていました。私は校門をくぐり、その文化祭に参加したのです」
黒原さんは学校の隅から隅まで歩いて文化祭を見て回ったそうだ。だけど結局、小説のネタになるようなものは見付からなかったらしい。
もう帰ろうと思った時、校舎の隅にポツンとあった文芸部の部室が黒原さんの目に留まった。
「文芸部の部室では、様々な小説や詩が売られていました。高校の部活で書かれた詩や小説に創作のヒントがあるとは正直思えませんでしたが、せっかく来たのです。記念に一冊だけ買って帰ろうと思いました。私はなんとなく……本当になんとなく一冊の小説を手に取り、それを購入しました」
その小説こそ、僕の書いた『暖炉の前で』だったのだという。
「家に帰って『暖炉の前で』を読み終えた時、私は自然と涙を流していました。こんなにも優しく、心が温かくなる物語を読んだのは生まれて初めてでした。私は何度も何度も『暖炉の前で』を読み返しました。すると、今まで書けなかったのが嘘のように、次から次へと物語のアイデアが頭の中に浮かんできたのです。私はパソコンを開き、小説を書き始めました」
黒原さんは、それからたった一週間で新作の小説を一本書き上げたのだそうだ。
「雨音さんは二度も私を助けてくださいました。一度目は作家としての私を、二度目は私の命そのものを、雨音さんは救ってくださったのです。感謝してもしきれません」
そうか。だから僕の部屋に来た時、黒原さんは『雨音さんは二度も私を助けてくださいました』と言ったのか。
知らない所で、僕の書いた小説が黒原さんを救っていた。自分の書いた小説が誰かの支えになる。作者として、これほどの喜びは無い。
だけど……。
「どうして、僕が『
「それも、お話しします」
黒原さんはクスリと笑う。
「私は『暖炉の前で』を一度だけでなく、何度も読み返しました。そうしている内に、私の中で作者である『
まず黒原さんは僕が通っていた高校に連絡して、文化祭の時に文芸部で売っていた『暖炉の前で』という小説の作者を教えて欲しいと頼んだ。だけど、個人情報なので教えられないと断られたらしい。
「じゃあ、どうやって僕が『
「文芸部の部室にはロッカーがありましたよね。そこに貼ってあった名前の書いたシールから推察しました」
文芸部には小さなロッカーがいくつかあり、そこに鞄などを入れていた。ロッカーはそれぞれ使う場所が決まっていたため、自分が使うロッカーには名前の書いたシールを貼っていたのだ。
「ロッカーに貼ってあった名前は有田、高木、東野、川上、古市、島崎、雨音の七人。この中に『
黒原さんの記憶力に驚く。一年前に見たロッカーに貼られていた名前を今も覚えているなんて。
「次に注目したのは『
黒原さんは人差し指を振る。
「『
「——ッ!」
本名で小説を出すのが恥ずかしかったからペンネームにしたけど、まさかそのペンネームから本名に辿り着かれるなんて思ってもみなかった。
通っていた高校と所属していた部活、そして名前が分かれば個人を特定するのは比較的簡単だ。黒原さんは様々な人間とコンタクトを取り、僕の容姿や、僕が通っている大学名を突き止めた。
「ひょっとして、僕が『ミステリー調査同好会』に入っていたのも知ってたんですか?」
「はい、知っていました」
「どうやって⁉」
「雨音さんの大学にあるサークルや同好会のSNSアカウントを全て調べました。その中で雨音さんが所属しているのは『ミステリー調査同好会』だと思ったのです」
「何故ですか?」
「文章は人によって、癖や特徴が出ます。『ミステリー調査同好会』のアカウントに書かれた文章には、『暖炉の前で』で使われていたのと同じ癖や特徴がいくつもありました。このアカウントを更新しているのは間違いなく、雨音さんだと確信したのです」
「SNSの文章だけで、それを書いたのが僕だって分かったんですか⁉」
「はい」
「……ッッ!」
思わず息を呑む。どんな観察力をしてるんだ。
「私は何度も雨音さんに会いに行こうとしましたが、いざ会おうとすると、中々勇気が出ませんでした」
切なげな表情になる黒原さん。
「そんな時、この島に招待されたのです。この別荘を舞台にした謎解きゲーム。その脚本を書いて欲しいと頼まれました。最初はお断りしようと思ったのですが、雨音さんがSNSに書かれた内容を見て考えを改めました」
「僕がSNSに書いた内容?」
「『申し訳ありませんが、所要によりミステリー調査同好会は八月二十日から八月二十三日まで活動を休止します』と書かれましたよね?」
「は、はい。書きましたけど……」
「八月二十日から八月二十三日というのは、私が『月辺島』に宿泊する予定の期間と同じでした。ですので、ひょっとすると雨音さんも『月辺島』へ行くのではないのか?と思ったのです」
「じゃあ、黒原さんがこの島に来たのは……」
「そうです。私は貴方に会うために此処へ来ました」
黒原さんはニコリと微笑んだ
「……船で話し掛けて来た時、僕の事を全部知っていて話し掛けたんですね」
「はい」
「どうして黙っていたんですか?」
「すみません。全てを話したら雨音さんに気味悪がられてしまうと思ったのです。何も知らない振りをした方が雨音さんは私と親しくしてくださると考えました」
「……」
確かに、見知らぬ女性が自分の事を色々知っていたら、間違いなく僕は困惑していただろう。黒原さんとは今みたいに話せてなかったかもしれない。
「雨音さん、貴方は私が想像していた通りの人でした」
黒原さんは椅子から立ち上がり、僕に近づく。
「『暖炉の前で』に登場する人達と同じく、雨音さんは優しくて思いやりがあり、勇気のある方でした。直接お会いして、私の想いはさらに強くなりました」
彼女の手が、僕の頬にそっと触れる。
「好きです。どうか私と付き合ってください」
真剣な表情。宝石みたいに綺麗な目に飲まれそうになる。でも……。
「ごめんなさい」
僕は深々と頭を下げた。
「今は全員で生き残る事以外、考えられません」
告白された事は嬉しい。でも、今は誰とも付き合う気になれない。それが僕の正直な気持ちだ。それを伝えると、黒原さんは「そうですか」と頷いた。
「ですが、私は諦めません」
「えっ?」
「絶対に、どんな事をしても、私は必ず貴方の恋人になります」
黒原さんは笑う。その笑顔は思わず身震いするほど、美しかった。
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