「山本さんを殺したのが人間⁉」

 白崎部長の発言に、皆がざわめく。

「それって、此処に居る誰かが山本さんを殺したって事か?」

 と、春日さん。

「それはまだ分からない。あくまでその可能性もある。という話だよ」

「……ちゃんと説明してくれ」

「もちろんだ」

 白崎部長は襟を正す。

「犯人は山本さんを刺すか、何度も殴るかして殺した。そして、山本さんの死体を玄関まで引きずると、窓からツキノワグマが近くに居ないのを確認して外まで運び、捨てた。急いで別荘に戻った犯人は玄関ドアの鍵を掛ける。やがて血の匂いに誘われたツキノワグマの群れが山本さんの死体を見付け、食べ始めた。私達がさっき見たのはそれだよ」

 なんて事だ。確かにそれだったら玄関ドアの鍵が掛かっていなかったのにも説明がつく。

 ツキノワグマは山本さんを襲って食べたのではなく、外に倒れていた彼の死体を食べていただけだったのか。

 美術展示室で工藤さんがツキノワグマに襲われるのを見た事で、てっきり山本さんもツキノワグマに襲われたものとばかり思い込んでしまった。

「ツキノワグマの嗅覚は犬よりも優れている。血を流した死体があれば数キロ先からでも嗅ぎ付けてすぐに集まるでしょうね」

 白崎部長の推理を補足するように伊達さんは言う。

 じゃあ、やっぱり山本さんはこの中の誰かに殺されたのか?

「あの……ちょっと良いですか?」

 田沼さんが手を挙げる。

「床に散らばっている破片って、あそこにあった壺ですよね?」

 田沼さんはテラスへと続く通路の両端に置いてある壺を指差す。

 確かに、五つあった壺の内『中央が窪んだ壺』が無くなっていた。床の破片はあの壺のもので間違いないだろう。

「最初、私は熊に襲われた山本さんがあの壺を使って抵抗したんだと思っていました。でも、もし山本さんを殺したのが人間だとしたら、あの壺が割れた時、犯人は山本さんと一緒に居た事になりませんか?」

「あっ!」

 田沼さんが言いたい事を理解した僕は思わず口に手を当てた。

 仮に人間が犯人だとすれば、あの壺は山本さんと犯人が争った時に割れたか、もしくは犯人が壺で山本さんを殴った時に割れたかのどちらかだろう。

 どちらにしても、壺が割れた時、山本さんと犯人は一緒に居た事になる。

 あの時、壺が割れる音を聞いて白崎部長、黒原さん、春日さん、田沼さん、勝也さん、僕の六人が部屋から出た。そして、飯田先輩、伊達さん、山本さんの三人に知らせるため部屋を回った。その際、飯田先輩と伊達さんは二人とも部屋に居たのを確認している。

 つまり……。

「この場に居る全員にアリバイがある?」

「そうです。壺が割れた時、山本さんと犯人は一緒に居たはずです。でも、壺の割れる音が聞こえた時、山本さんを除く全員が二階に居ました。私達の誰かが彼を殺すのは無理です」

 もし、山本さんを殺したのがツキノワグマだとすれば、玄関ドアに鍵が掛かっていたのはおかしい。

 もし、山本さんを殺したのが人間だとすれば、山本さんが殺された時のアリバイが全員にあるのは変だ。

「じゃあ、山本さんを殺したのは一体……?」

「ふむ」

 僕は頭を抱え、白崎部長は顎に手を添える。

「犯人が熊じゃなくて、別荘の人間でもないんだとしたら、それ以外の奴の仕業じゃないか?」

 春日さんが震える声で叫んだ。

「どういう事ですか?春日さん」

「だから、居るんだよ。この別荘に俺達以外の誰かが!」

 ぶつぶつと、独り言のように春日さんは話す。

「そいつは俺達が島に来る前から別荘に潜んでいたんだ!そ、そして全員が寝静まった頃を見計らって山本さんを殺したんだよ!」

「あ、ありえません!」

 春日さんの説に勝也さんが反論する。

「この島に出入りする人間は厳しくチェックしています。この別荘に私達以外の誰かが潜んでいるなど、ありえませんよ」

「船でこっそり来たかもしれないだろ!ここは山本グループの所有する島なんだから金目のものは沢山ある!それを盗みに来たんだよ!」

 春日さんの言う通り、この別荘には価値のある美術品が沢山ある。山本グループが所有している『月辺島』の存在を知った人間が、価値ある美術品を目当てに上陸した可能性はゼロじゃない。だけど……。

「それなら、盗みを働いた後、すぐに逃げるんじゃないんですか?盗難目的なら、ずっと別荘の中に隠れているのは変です」

「うっ……」

 春日さんは言葉に詰まる。

「だ、だったらきっと山本さんに恨みを持つ人間だ!船でこの島に来たそいつは別荘に隠れていてチャンスを伺っていたんだよ!都会で人を殺すよりも、誰も居ない島で人を殺す方がバレにくいと思ってな!」

「だとしたら、どうして昨晩犯行に及ばなかったんだい?」

 今度は白崎部長が反論する。

「山本さんを殺すつもりで別荘に隠れていたのなら、昨日の晩に殺せば良かった。なのに、どうして犯人は今晩になって、山本さんを殺したんだい?」

「それは……今晩殺せば熊を利用出来るから……」

「私達が今日ツキノワグマに襲われたのは偶然だ。そんな事、犯人に予想出来るはずがないよ」

「ううっ……」

 バッサリと否定され、春日さんは再び言葉に詰まる。

「じゃ、じゃあ……あの中の誰かだ!」

「あの中って?」


「熊に襲われた連中の誰かだよ!」


 春日さんはとんでもない事を言い出した。

「まさか、それって貝塚さん達の事ですか?」

「そうだよ。熊に襲われた連中の誰かが実は生きていたんだ!そいつは俺達が戻るよりも前に別荘に帰って来ていて、どこかに隠れていたんだよ!そして、夜になって山本さんを殺したんだ!」

「お、お待ちください春日様!」

 勝也さんが春日さんの言葉を遮る。

「私は別荘におりましたが、皆様が戻って来られる前に帰って来た方は居ませんでしたよ?」

「玄関以外の場所から入ってきたかもしれない!そもそも、ずっと玄関を見ていたわけでもないんだろ?」

「え、ええ。そうでございますが……」

「ほらな!きっと犯人は今も別荘のどこかに隠れているんだ!そうに違いない!」

 狂気的な笑顔で春日さんはまくし立てる。

「ひどいよ!春日君!」

 その時、飯田先輩が叫んだ。

「い、飯田……」

「春日君は、恵っちが犯人だとでも言うつもりなの⁉」

「い、いや……そういうつもりじゃ……」

「恵っちはそんな事しないよ!春日君も知ってるでしょ?」

 飯田先輩は怒りで顔が赤くなっていた。こんなにも怒った飯田先輩は初めて見る。

「お、俺は何も貝塚が犯人だなんて一言も……」

「木原先生も人を殺したりはしないよ」

「飛石先輩もです!人を殺すような人じゃありませんでした!」

 伊達さんと田沼さんも怒りを露にする。三人から睨まれた春日さんは凄く狼狽していた。

 そもそも、貝塚さんも、木原准教授も、飛石さんも、とても助かる状態じゃなかったのは、医者じゃない僕から見ても一目瞭然だった。

 あの三人に、犯行は絶対不可能だ。

「じゃあ、加藤っておっさんだよ!あいつ怪我してなかったし、冒険家でサバイバルの知識もあるんだろ?森の中を通れば、俺達が戻って来るよりも前に別荘へ帰れるんじゃないか?」

「でも、春日さんも聞きましたよね?加藤さんの叫び声を」

「あれは演技だよ!わざと叫んで熊に襲われたように見せかけたんだ!」

 春日さんは目を血走らせながら叫ぶ。そんな彼の態度に僕も怒りを覚えた。

「加藤さんは僕達を助けるために、自分から囮になったんですよ?それを……!」

「雨音君」

「部長……」

 僕の肩に手を置いた白崎部長は、春日さんに向かって話す。

「死んだと思われていた人物が実は生きていて、犯人はそいつだった。確かにミステリーだと時々ある展開だけど、今回の事件に関しては違うと思うよ?」

「な、何でだよ!」

「あの時、走り出した加藤さんの後を六頭のツキノワグマが追った。ツキノワグマの足は人間よりも早い。あっという間に追い付かれてしまうだろう。万が一、何らかの方法でツキノワグマを振り切れたとしても、その後で私達よりも早く別荘に着くのは無理だと思うよ?」

「そ、それは……」

 一瞬、顔を下げた春日さんだったけど、またすぐに上げる。

「そうだ!あの熊は加藤っておっさんに飼われていたんだよ!」

 春日さんはまたしても、とんでもない事を言い出した。

「あのおっさんは実は前からこの島に来ていて、熊達を調教してたんだ!俺達を熊に襲わせた後、自分も熊に襲われる振りをした!その後は、森の中を最短距離で進んで、別荘まで戻ったんだ!どうだ、これなら俺達よりも早く別荘に帰れるだろう?」

 力説する春日さん。白崎部長は伊達さんに尋ねる。

「伊達さん。春日さんが今言った事は可能だと思う?」

「無理に決まってる」

 伊逹さんはきっぱりと否定した。

「どんなに優秀な調教師だって、野生のツキノワグマをそんな高度な命令で操れるわけがない。しかも複数のツキノワグマを同時にだなんて……絶対無理よ」

「だそうだよ?」

「……」

 今度こそ、春日さんは口を閉じる。

『この別荘には僕達以外の人間が潜んでいる』説も『ツキノワグマに襲われた誰かが実は生きていた』説も、かなり無理があった。

 おそらく、春日さん自身もそんな事は分かっていただろう。でも、しきりに二つの説を主張したのは、もしかしたら今この別荘に居る誰かが犯人であって欲しく無いという想いからだったのではないだろうか?

 そうだとしたら、さっきは少し言い過ぎたかもしれない。反省する。

「でも、山本さんを殺したのがツキノワグマでもなく、別荘に居た人でもなく、その他の人でもないとしたら……彼は一体、誰に殺されたんですか?」

 そうだ。結局、誰が山本さんを殺したのかは判明していない。僕達は再び頭を悩ませる。

 すると、今まで黙っていた黒原さんが口を開いた。

「勝也さん。別荘の鍵を持っているのは山本さんと貴方のどちらですか?」

「両方です。各部屋のマスターキーは私が管理していますが、別荘の鍵と地下室の鍵は正様と私の両方が持っています」

「でしたら……」

 黒原さんは静かに言う。


「彼を殺したのは、彼自身では?」


 その言葉に、僕達は目を見開く。

「黒原さん。それって——」

「はい。山本さんは自殺したのではないでしょうか?」

 自殺。誰も思っていなかった可能性を黒原さんは示す。

「まず山本さんは自分の腕などを傷付け、シャンデリアの下から玄関まで床に血を垂らしました。その血をタオルや布などを使って広げ、あたかも引きずられたように偽装。壺をシャンデリアの下へ投げて割ると、ドアノブに血が付かないように注意しながらドアを開けて外に出ました。そして、外からドアの鍵を掛けると、別荘から少し離れた場所まで歩き、そこで倒れた。後は血の匂いに誘われたツキノワグマが自分を食べてくれれば、『ツキノワグマに襲われて外に連れ去られた』ように見えるというわけです」

「た、確かにそう考えれば説明は付きますね」

 田沼さんは黒原さんの推理に同意する。

「自分が皆を招かなければ誰も死ななかった。何より熊をこの島に連れて来たのは自分の父親ですもの。責任を感じて自殺してもおかしくない」

「し、しかし黒原様。何故、正様はそんな方法で自殺を?」

「山本さんは自殺よりも、事故死だと思われた方が残された人の苦しみが減ると考えたのかもしれません。自殺したのでは、残された人達がそ自殺を止められなかった事を悔いるかもしれませんが、『ツキノワグマに襲われた事故死』なら諦めもつく。そう考えたのかも」

「そんな……正様」

 勝也さんは絶望の表情を浮かべた後、両手で顔を覆った。


 その後、僕達は念のため一階と二階を全て調べた。

 一階のドアや窓は全て閉まっており、鍵が開いている所は一つもない。二階にある窓も全て閉じられている。

 やはり、山本さんを殺したのはツキノワグマではなかったのだ。もちろん、一階にも二階にも僕達以外の誰かが潜んでいたなんて事はなかった。

 そして、此処に居る全員にアリバイがあり、誰にも山本さんを殺せない以上、黒原さんの言葉通り、山本さんは自殺したと考えるのが自然だろう。


 床の血や散らばった壺の破片は携帯で撮影した後、掃除した。

 本当は現場を保全した方が良いのだろうが、破片が散らばっていれば危ないし、床に付いた血を見るたびに皆がショックを受ける。下手をすれば、何日もこの別荘に居なくてはいけない事を考えると、精神的なストレスとなるものは出来る限り排除しておくべきだと言う意見でまとまった。

 壺の破片は広範囲に飛び散っており、ソファーやフロントの近くまで飛んでいた。念のためその破片も撮影しておく。床の血は中々落ちず、綺麗になるまで時間が掛かった。

 なんとか掃除を終えた時にはもう午後十一時を過ぎていた。

「お疲れ様、雨音さん」

「伊達さん」

 掃除を終えると、伊達さんが話し掛けて来た。

『彼女、君に惚れたんじゃないのか?』一瞬、白崎部長の言葉を思い出したけど、直ぐにその言葉を否定する。そんなわけ無い。

「また、大変な事になったね」

「そうですね」

 言葉には出さないけど、伊達さんの顔にはかなり憔悴の色が浮かんでいた。

「雨音さん、大丈夫?」

「えっ?」

「なんだか、すごく疲れた顔してる」

 思わず自分の顔を触った。自覚はなかったけど、僕もかなり憔悴していて、それが顔に出ていたようだ。

「仕方ないよね。まさかこの別荘で人が死ぬなんて思いもしなかったもの」

 伊逹さんは「はぁ」と息を吐きだす。

「私も……ちょっと疲れちゃった」

 なんだか、体から魂が抜け出しそうな声だった。あの強かった伊達さんが参っている。何か言わなければと口を開きかけた時、黒原さんがこちらに近づいて来た。

「お疲れ様です」

 黒原さんは僕に微笑んで会釈した後、伊達さんと話す。

「伊達さん、よろしいでしょうか?」

「黒原さん、どうかしたの?」

「相談したい事があるのですが、少しだけお時間いただけませんか?」

「いいよ」

 憔悴した伊達さんの顔に、ほんの少しだけ笑顔が灯る。

「それじゃあ、私の部屋で話そうか」

「ありがとうございます」

「じゃあね雨音さん。また明日」

 黒原さんと伊達さんは二階へ上がろうとする。

「あの、黒原さん」

 黒原さんの背中に、僕は声を掛けた。

「僕も黒原さんに話したい事があります。伊達さんの話が終わった後で良いから、少し時間を貰えますか?」

 僕がそう言うと、黒原さんはニコリと笑った。

「ええ、もちろん構いません。私の部屋の前で待っていてください」

 そう言って、黒原さんは伊達さんと一緒に階段を上がっていった。


「雨音君、ちょっと来てくれないか?」

「部長、どうかしました?」

「飯田君を部屋まで送りたい。一緒に付き添ってくれ」

 飯田先輩に目をやると、苦しそうにソファーに座っていた。

「分かりました」

 僕と白崎部長は顔を真っ青にしている飯田先輩を部屋まで誘導する。途中、飯田先輩は何度も立ち止まり、深呼吸をした。僕達は時間を掛け、ゆっくりと歩く。

「先輩、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 飯田先輩は明るく振舞おうとするけど、いつもの元気な姿からは程遠い。ようやく部屋の前に着くと、先輩は僕達に礼を言った。

「二人ともありがとう。じゃあ……」

 ドアが閉まり掛ける。何か気の利いた言葉を掛けようとしたけど、結局、僕は何も言えなかった。

「飯田君」

 何も言えない僕の代わりに、白崎部長が口を開く。

「戸締まりはきちんとしておいてね」

「……はい」

「それと……」

 部長はゴホンと咳払いする。

「君は必ず私が守るよ」

「部長……」

 飯田先輩の目が大きくなる。

「飯田君だけじゃない。君もだよ、雨音君。君達二人は『ミステリー調査同好会』の大切な仲間だ。部長である私が絶対に守る」

 白崎部長は真面目な表情だった。それを見た飯田先輩と僕は、

「ふふっ」

「あはっ」

 思わず笑ってしまった。真面目な白崎部長の顔が、何故か面白かったのだ。

「むっ、なんだい?二人して」

「いえ、何でもないです」「はい、何でもないです」

 頬を膨らませる白崎部長と、部長を宥める飯田先輩と僕。少しだけ、飯田先輩にいつもの笑顔が戻った。

「白崎部長」

「なんだい?飯田君」

「私は部長を信じます。あの黒原って子の言葉よりも、部長の言葉が正しいと、私は信じています」

「……そうか、ありがとう」

「じゃあ、お休みなさい。部長、雨音君」

「うむ、お休み」

「はい、お休みなさい」

 飯田先輩はドアを閉める。鍵とドアガードを掛ける音が聞こえた。

「さて、じゃあ私も戻るとするか」

「あの、部長!」

 自分の部屋に戻ろうとする部長を、僕は引き止める。

「部長は黒原さんが言った事、どう思います?」

「どうとは?」

「本当に山本さんは自殺だったと思いますか?」

「……」

「部長はさっき、飯田先輩に戸締まりをきちんとしておくように言いましたけど、あれは山本さんを殺した犯人が、この別荘の中に居るかもしれないと思ってるからじゃないんですか?」

 この別荘に、ツキノワグマが入れないのは白崎部長も十分理解している。なら、部長が警戒しているのは、ツキノワグマではなく、人間の方だろう。

 少しの沈黙の後、部長は口を開く。

「君の言う通りだよ。確かに私はこの別荘の中に山本さんを殺した犯人が居るのではないかと、まだ疑っている」

 やっぱり。

「疑っているのは、『生き残った人間』ですよね?」

「ああ、春日さんの言っていた『私達の知らない人間』でも『死亡したと思われている誰か』でもない。疑っているのは『ツキノワグマの襲撃から生き残った人間』だよ」


 つまり、僕を含めた八人。この中に犯人が居ると、白崎部長は考えている。


「でも、田沼さんも言ってましたけど、壺が割れる音がした時、僕達は全員二階に居ました。壺が割れた時に山本さんが殺されたのだとしたら、全員にアリバイがある事になります」

 だからこそ、黒原さんは山本さんの死は自殺だと推理したのだ。

「そうだね。だけど、気になるんだ」

「何がです?」

「床の血だよ」

 部長は自分の顎を撫でる。

「黒原さんは『山本さんは腕などを傷付け、シャンデリアの下から玄関まで床に血を垂らし、その血をタオルや布などを使って広げ、あたかも引きずられたように偽装した』と言った。しかし、それで果たして引きずったように見えるものかな?床に落ちた血を布で広げても『引きずった跡』と言うよりは『血を拭いた跡』に見えるんじゃないだろうか?」

「……そうかもしれません」

「山本さんは自殺じゃない。私にはそう思えてならないんだ」

 部長は「雨音君」と僕の名前を呼んだ。

「私はこの事件を調べてみようと思う。手伝ってくれるかい?」

「今さらですよ。いつも手伝ってるじゃないですか」

「だが、今回は『殺人事件』かもしれないんだ。それでも良いのかい?」

 今まで白崎部長と一緒にいくつも奇妙な事件を解決したけど、人が死んだ事件に遭遇したのは初めてだ。これまでとは勝手が違う。

 だけど、もし山本さんが誰かに殺されたのだとしたら、それを見過ごすなんて出来ない。

「はい、構いません。僕は部長を手伝います」

 白崎部長はフッと笑う。

「じゃあ、いつものようによろしく。雨音君」

「よろしくお願いします。部長」

 部長と僕は固い握手を交わした。

「だが、今日はもう遅い。調査は明日にしよう」

「分かりました」

「それじゃあ、お休み」

「お休みなさい」

 白崎部長は自分の部屋へと戻る。だけど、僕は自分の部屋には戻らなかった。

 僕が向かったのは——黒原さんの部屋だ。

 僕は彼女に、どうしても話しておきたい事がある。


 部屋の前で待っていると、黒原さんは笑顔でこちらにやって来た。

「お待たせしました」

「いえ、全然。それより伊逹さんとの話はもう良いんですか?もし、僕の約束のために急がれたのだとしたら……」

「大丈夫です。これをお借りしただけですから」

 黒原さんの手には小さく茶色い紙袋が握られていた。

「それは、なん……」

「それで、雨音さんのご用はなんでしょうか?」

 言葉が被ってしまった。伊達さんから借りた物は気になるけど、あまり詮索しない方が良いかもしれない。

 僕は自分の要件を口にする。

「さっきの話の続きをしても良いでしょうか?」

 僕がそう言うと、黒原さんは笑みを深め、部屋のドアを開く。

「どうぞ、お入りください」

「失礼します」

 部屋に入ると、僕は椅子に座った。黒原さんは紙袋を棚の上に置き、僕とは反対側の椅子に腰を下ろす。

「話の続きという事は、告白の返事を聞かせていただけるのですか?」

 黒原さんは期待に満ちた眼差しを僕に向ける。

「その前に、訊きたい事があります」

「何でしょう?」

「黒原さん、貴方は——」

 告白された時に言い掛けた言葉を、僕は口にした。


「前から僕を知っていましたか?」


 部屋の中がシンと静まり返る。黒原さんは薄く微笑み、

「何故、そう思ったのですか?」

 と言った。

「最初に変だと感じたのは船の上でお会いした時です。別れ際、黒原さんはこう言いました。『雨音さん、また島でお話しましょう』って」

「はい、覚えています」

「だけどおかしいんです。あの時、黒原さんは自分の名前を僕に教えてくれました。でも、。なのにどうして、黒原さんは僕の名前を知っていたんですか?」

「……」

「それだけじゃありません。さっき僕の部屋で黒原さんは『雨音さんは二度も私を助けてくださいました』と言いました。でも、どうして『』なんですか?僕は確かにツキノワグマから黒原さんを助けました。だけど、僕が黒原さんを助けたのはその一度だけです。『二度も私を助けてくださいました』という言い方はおかしい」

 僕は同じ質問を繰り返す。

「黒原さん、貴方は前から僕を知っていたんじゃないんですか?」

 数秒の間を置き、黒原さんは口を開いた。

「直接お会いするのは昨日が初めてです。ですが、おっしゃる通り私は以前から雨音さんを知っていました」

 黒原さんは僕の手をそっと握ると、笑顔でこう言った。


「お会いできて嬉しいです。『鵜天羽うあもう十夜とや』先生」

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