「無事に生きて帰る……か」

 白崎部長と別れ、自分の部屋に戻った僕はひとり呟く。

「飯田先輩、心配だな……」

 部長が大分落ち着いたと言っていたのでとりあえず安心はしたけど、友人が目の前で亡くなったのだ。立ち直るまでには、まだまだ時間が掛かるだろう。

 カーテンを開け、窓から外を見ると、森の奥で何かが動いたような気がした。ツキノワグマだろうか?それとも鹿か?あるいは気のせいだったかもしれない。

 窓から離れ、倒れるようにベッドにダイブした。ツキノワグマに襲われた人達の顔が脳裏に浮かぶ。苦痛に歪む表情と叫び声が頭から離れない。

 独りになって張りつめていた緊張の糸が切れたからだろうか?今頃、体が震え始めた。

「……ごめんなさい」

 亡くなった人達に心から謝罪する。もっと僕が頑張っていれば、助けられた命もあったかもしれない。

 特に思い出すのは、飛石さんと加藤さんだ。

 飛石さんは僕を助けてくれた。彼が居なかったら、僕は死んでいたかもしれない。伊達さんは僕に「ありがとう」と言ってくれたけど、本当に感謝されるべきは、飛石さんの方だ。なのに、僕はそんな飛石さんを助けられず見殺しにしてしまった。

 助けてくれ、と僕に手を伸ばした飛石さんの表情が忘れられない。

 加藤さんも勇気のある素晴らしい人だった。あの人は自分を囮にして、僕達を逃がしてくれた。

 心の底から敬意を抱くのと同時に思う。あれは本来、僕の役目だったんじゃないだろうか……と。

 最初にツキノワグマが現れた時、僕が囮になっていれば、他の皆は助かったんじゃないか?そう思えてならないのだ。

 木原准教授も、飛石さんも、貝塚さんも、加藤さんも死なずに済んだんじゃないか?

 もし、皆が助かっていたら悲しむ人は出なかった。飯田先輩もあんなに悲しまずに済んだ。

 だけど、僕は生き残ってしまった。他人を犠牲にして生き残った罪悪感で胸が苦しい。でも、体が震えるのは罪悪感だけが理由じゃない。

 死ぬのが怖いのだ。怖い、死にたくない。生物としての本能が体を震わせる。

 助かってしまった罪悪感と、死にたくないという恐怖。相反する感情で頭が割れそうになる。

「はぁ……」

 疲れからか、段々と瞼が重くなっていく。このまま眠ってしまいそうになった時だ。

 コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

 携帯を見ると、夜の十時を過ぎている。こんな時間に一体誰だろう?不思議に思いながらも僕はドアを開けた。

「黒原さん?」

 そこに居たのは寝間着姿の黒原さんだった。初めて見るその姿に心臓が少し高鳴る。

「夜分遅くに申し訳ありません。少しよろしいでしょうか?」

「えっ……あっ、は、はい」

 僕は黒原さんを部屋に入れた。いつもの癖で反射的に鍵を掛けようとしたが、女性が部屋に居るのに鍵を掛けるのはまずいと考え、開けたままにする。 

 部屋の中に入った黒原さんは真っすぐベッドへ向かい、そこに座った。椅子もあるのにどうしてベッドに?

 じゃあ、僕は椅子に座ろう。と思っていると、

「雨音さんも、こちらへ」

「えっ?」 

 黒原さんはベッドをポンポンと叩く。まさか、隣に座れと?

「そ、それは……ちょっと」

「駄目ですか?」

「いえ、駄目と言うわけでは……」

 口籠る僕を黒原さんは真っすぐ見つめていた。その視線に抗いきれず、僕は黒原さんの隣に座る。

 美人だと分かってはいたけど、近くで見るとますます綺麗だ。

 昼間の服や昨日着ていた黒のワンピースよりも、寝間着姿の今の方が大きな胸の膨らみが強調されている。おそらくシャンプーの匂いだろう。髪からはとても良い香りがした。

 これはまずいと、慌てて視線を逸らす。

「あの……それでご用は?」

「お礼を言いたくて来ました」

 黒原さんは頭を下げる。

「ツキノワグマに襲われた時、助けてくださり本当にありがとうございます。雨音さんは私の命の恩人です」

「あっ、い、いえ……頭を上げてください……」

 伊逹さんに続いて、黒原さんにも礼を言われてしまった。お礼を言われるべきなのは僕じゃないのに。

「礼なんて必要ありません。黒原さんが無事だっただけで、僕は嬉しいですから」

「やはり、雨音さんは優しいですね」

 黒原さんは、柔らかく微笑んだ。

「いつも雨音さんは他の人を気に掛けています。自分の身が危険なのを承知で私を助けてくださいましたし、皆さんを守るため展示室に入り、非常ドアの鍵を掛けました。先ほどは私の怪我の心配まで——雨音さんご自身も危ない目に遭ったというのに」

「いえ……僕なんて……貝塚さんや木原さん達は助けられませんでしたし」

「ですが、私は助けてくださいました」

 顔を伏せる僕に、黒原さんはゆっくりと、まるで言い聞かせるように話す。

「貴方が身を挺して助けてくださったから私は無事なのです。雨音さんが居なければ私は死んでいたかもしれませんし、助かったとしても、今のように無傷ではいられなかったでしょう」

 もう一度、黒原さんは僕に頭を下げる。

「ありがとうございます雨音さん。心からお礼を申し上げます」

「——……ッ」

 僕は、さっきまでの体の震えがいつの間にか治まっているのに気付いた。自分の中で恐怖と罪悪感が薄くなっていくのを感じる。

「雨音さん」

「はい」

「好きです」

「えっ?」

「私は、雨音さんが好きです」

 突然の告白だった。まるで雷に打たれたような衝撃が全身に走る。

「あ、あの……それは……どういう意味で?」

「恋愛的な意味での『好き』です」

 黒原さんの表情は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。

「こんな時に、いきなり告白して申し訳ありません。ですが、どうしても今、自分の気持ちを伝えておきたかったのです。私が無事に生きて帰れる保証はどこにもありませんから」

「……黒原さん」

「ですが、雨音さんは私が守ります」

 黒原さんは両手で僕の手を包む。

「雨音さんは二度も私を助けてくださいました。今度は私が雨音さんを守ります。必ず守ると約束します。どんな事をしても、何を犠牲にしても、私は貴方を守ると約束します。そして、もしも無事に生きて帰れたらどうか……」

 黒原さんは僕に顔を近づける。

「私と付き合ってください」

「——ッ!」

 心臓がドクンと跳ねる音がハッキリと聞こえた。

 手から伝わる温かさと、すぐ目の前にある美しい顔。何より綺麗なその目が僕を捕らえて離さない。

 黒原さんはさらに顔を近づける。

 唇と唇が触れ合う寸前、僕は彼女の肩を掴んで止めた。

「黒原さん、貴方は——」

 その時だ。

 パリン、という大きな音が別荘に響き渡ったのは。


 それは、これからこの別荘で起きる『事件』の始まりを告げる合図だった。

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