④
日本には二種類の熊が生息している。
一つは北海道に生息するヒグマ。そして、もう一つがツキノワグマだ。
ツキノワグマの特徴は胸部にある三日月形の白い模様で、それが名前の由来となっている。体長(鼻先から臀部までの長さ)は百~百四十センチぐらい。体重はオスで六十キロ~百キロ、メスで四十~六十キロほど。ヒグマの半分ぐらいの大きさだ。
アジアを中心に広く分布していて、日本に居るものは『ニホンツキノワグマ』と呼ばれている。日本での生息地は本州と四国。昔は九州にも居たらしいが、今は絶滅したとされている。
伊達さんは言った。「あのツキノワグマ達はありえない」と。
「ツキノワグマは雑食だけど、主食は植物なの。ドングリみたいなブナ科の果実が好物で、他にもミズキやサルナシ、ヤマブドウなんかの植物を食べている」
「そうなんですか?」
熊と言えば肉を食べるイメージがあったが、そうではないらしい。
「もちろん雑食だから動物性タンパク質を摂取する事はあるよ。春には冬に死んだ他の動物の死体を食べるし、夏から秋にかけてはアリやハチ、バッタなんかの虫を食べる。生きている動物を捕食する様子が観察された事もある。だけど、ツキノワグマの場合、植物を食べる割合の方がかなり多い」
それに、と伊達さんは言う。
「ツキノワグマは臆病な動物なの。毎年のように人間がツキノワグマに襲われる事件は起きているけど、ツキノワグマが人を襲う理由の大半は自衛のため。森の中で人間と鉢合わせしてしまい、驚いて反射的に攻撃したり、母熊が子熊を守ろうとして人間を襲うケースがほとんど。でも、あのツキノワグマ達はそうじゃなかった」
伊達さんは自分の髪をクシャクシャにかき乱す。
「あのツキノワグマ達は明らかに私達を捕食する目的で襲って来た。しかもオオカミみたいに群れで。ツキノワグマは……ううん。ツキノワグマだけじゃない。熊は基本的に単独で行動する。群れで狩りをする熊なんて聞いた事が無い」
あり得ないと何度も呟く伊達さん。
だけど実際にあのツキノワグマ達は群れで襲って来た。それもただ襲って来ただけじゃない。僕達が前方に居る熊に気を取られている隙に別の熊が背後から襲う。力が強い相手には複数で一斉に襲い掛かる。取り囲んで逃げ場を無くす。など、かなり統率のある狩りをしていた。
「『月辺島』のツキノワグマは普通じゃないと?」
「そうだね。普通じゃない」
伊達さんは自分の口に手を当てる。
「そもそも、どうしてこの島にツキノアグマが居るのか……昨日、木原先生も言っていたけど『月辺島』は大陸から分裂した島じゃなくて海底火山の影響で誕生した島。ツキノワグマが居るはずがない」
「泳いでやって来たとか?」
僕の言葉を、伊達さんは否定する。
「『月辺島』は本土から離れ過ぎている。ツキノワグマは泳げるけど、この島まで泳いでやって来たとは考えにくい。『月辺島』に来れるのは空を飛べる鳥や、鳥の体に付いて運ばれた植物の種や虫くらいのはずなのに……」
「でも、ネズミは居ますよね?」
この島には電話線を嚙み切ったネズミが居る。空を飛べないネズミは一体どうやって島へ来たというのか?
「ネズミはたぶん、船に紛れてやって来たんだと思う。元々ネズミが住んでなかった土地に船で運ばれたネズミが住み着き、生態系を荒らした事例は沢山あるから。でも……」
「でも?」
「流石にツキノワグマが船に紛れて運ばれたとは考えにくい」
確かにそうだ。ネズミくらいの大きさならともかく、ツキノワグマほどの大きさの動物が荷物に紛れていたら、普通は気付く。
だったらあのツキノワグマは一体どうやって……。
「意図的に持ち込まれたのでは?」
そう言ったのは黒原さんだった。全員の視線が彼女に集まる。
「黒原さん。どういう意味?」
「ツキノワグマが泳いでこの島にやって来たとは考えにくい。そして、船に紛れて運ばれたとも考えにくい。となれば人の手によって意図的に持ち込まれたとしか考えられません」
僕は驚き、目を大きくする。
「誰かがツキノワグマをこの島まで運んだって事?」
「はい、そうです」
「い、一体誰がそんな事?」
「この島はつい最近まで山本惣五郎氏の所有物でした。ならばツキノワグマを島に持ち込んだのは山本惣五郎氏と考えるのが自然でしょう」
「父が⁉」
山本惣五郎氏の息子である山本正さんは、驚愕する。
「何故、父が熊を島に連れて来るなんて危険な事を……」
「この別荘。あまりに丈夫に作られ過ぎているとは思いませんか?」
黒原さんは周囲を見渡す。
「勝也さんは言っていました。『この別荘は壁も窓もドアも特別に作られている。ライフルの弾丸すら通さない』と。何故、この別荘はそこまで頑丈に作られたのでしょうか?」
てっきり台風なんかの災害から守るためだと思っていたけど違うのか?
「なるほど。流れ弾か」
白崎部長が答えた。
「ツキノワグマを狙って撃った弾丸が外れて別荘に当たれば、中に居る人間が危険に晒される。それを防ぐために別荘を頑丈に作った……君はそう言いたいんだね?」
「はい」
黒原さんは頷く。
「山本惣五郎氏はハンティングを楽しむために、ツキノワグマをこの島に持ち込んだのではないでしょうか?」
「し、信じられない……」
顔を青くする山本さん。黒原さんは続ける。
「山本惣五郎氏はツキノワグマを眠らせるなどして、この島に持ち込みハンティングしていました。ですが、中にはハンティングを逃れて森の中に逃げ込んだツキノワグマも居たのでしょう。私達を襲ったツキノワグマ達はハンティングから逃れ生き残った個体か、その子孫では?」
「おい!」
春日さんが山本さんに詰め寄る。
「どうなんだよ!今、あの子が言った事は本当なのか?あんたの父親が熊を島に持ち込んだのか?」
「し、知りません……わ、私は何も知らなかったんです!」
「嘘を付くな!あんたの父親がした事だろ!息子のあんたが知らないわけが無いだろうが!」
「ほ、本当です!本当に私は何も知らないんです!」
山本さんは必死に否定する。と、その時。
「も、申し訳ありません!」
突然、勝也さんが大声を出した。
「春日様、正様が何も知らないと言うのは本当なんです!」
勝也さんはその場に土下座する。
「黒原様が言われた通りです。先代はこの島に動物を持ち込んで狩りをしていました!」
「本当……なのか?」
山本さんは勝也さんの両肩を掴む。
「勝也、本当なのか?本当に親父は島に熊を持ち込んだのか?」
「は、はい」
「お前は、それを知っていたのか⁉」
「……はい」
山本さんが怒りのままに吠える。
「そんな話、初耳だぞ!なんで俺に知らせないんだ!」
「申し訳ございません!」
勝也さんは床に頭を擦り付ける。
「先代は動物を狩るのが好きで世界中を回ってハンティングをしていました。その内、誰にも邪魔されない空間で狩りがしたいと言われまして……」
「ま、まさかそれで?」
「……はい」
「なんて馬鹿な真似を……」
山本さんの顔が大きく歪む。
「最初は鹿を放って狩りをしていたのですが、やがてもっと強い獲物を狩りたいと、今度は熊を持ち込まれたんです。罠などに掛かった熊を高値で買い取ってそれを島へ運びました」
皆が唖然とする。まさか、山本グループのトップがそんな事をしていたなんて。
「でしたら」
黒原さんは僕に視線を向けた。
「雨音さんがバスから見たという鹿もツキノワグマ同様、ハンティングから生き残った個体か、その子孫だったというわけですね」
「……はい、そうだと思います」
そうか。やっぱり、あの鹿は見間違えじゃなかったのか。
僕が見た鹿は二頭。その内一頭は小さく見えた。あれが親子なのだとしたら、鹿もこの島で繁殖している事になる。
「どうして、黙っていたんだ!」
山本さんは烈火のごとく怒りを露にする。
「せ、先代に固く口止めされていたんです。自分が島に熊を持ち込んだ事は決して、誰にも話すなと。たとえ、身内の人間であったとしても……」
勝也さんの目が泳ぐ。
「先代は心配しなくても逃げた熊は環境に馴染めずどうせすぐに死んでしまう。だから大丈夫だと言っておられました。じ、事実逃げ出した熊が別荘の周りに現れるなど今まで一度もなかったのです。ですから、私もてっきり逃げ出した熊は死んだものとばかり思っていました。それならば、報告の必要は無いだろうと……」
だけど、実際にはツキノワグマは島で生きていたというわけだ。呆れてものも言えない。
一人の金持ちの道楽のせいで、六人もの尊い命が犠牲となり、残った九人も危険な状況に晒されている。
「でもなんで、この島のツキノワグマは群れで人を狩るようになったんでしょう?」
僕が疑問を口にすると、伊達さんは「あくまで私の仮説だけど」と前置きした上で話してくれた。
「この島のツキノワグマが肉食性に変化したのは、鹿が原因だと思う」
「鹿……ですか?」
「鹿の繁殖力は凄まじいの。天敵が居ない環境だと、あっという間に増えてその土地の植物を食い荒らす。ハンティングから逃れた鹿が、爆発的に増えて島中の植物を食べ尽くした結果、ツキノワグマが食べる分の植物が無くなってしまった。本土の森なら食べ物が無くなれば別の場所に移動出来るけど、周囲を海に囲まれ、しかも陸地が遠いこの島では別の場所へ移動する事は出来ない」
そこでツキノワグマ達は、新しい餌として島で爆発的に繁殖した鹿に目を付けたのではないかと、伊達さんは言う。
「でも素早く逃げる鹿をツキノワグマが捕まえるのはとても難しい。ほとんどの狩りは失敗に終わったでしょうね。単独で鹿を狩るのは困難だと理解したツキノワグマ達は、狩りの成功率を上げるため、やがて群れを作り、協力して狩りをするようになった」
この島のツキノワグマは生き残るために、自分達の習性を変えたというわけか。
植物食中心の生活から生きている鹿を補食する肉食中心の生活となり、単独行動をやめて群れを作るようになった。
それが伊達さんの唱える説だ。
「人と同じように動物にもその場所特有の文化が生まれる事がある。『月辺島』のツキノワグマは『集団で狩りをする』という新しい文化を生み出した。これは世界初の出来事でしょうね」
最後に、伊達さんは疲れた顔でこう言った。
「一度、人の味を覚えた動物はその後、何度も人を襲うようになる。岸辺君を食べた事でツキノワグマは私達を完全に餌と認識してしまった。この島のツキノワグマは私達全員を食い殺すまで諦めないでしょうね」
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