②
初めて野生の熊を見て、僕が最初に思ったのは『意外と小さい』だった。
熊と言えば、人間の身長を大きく超える怪物のようなイメージだったけど、目の前に居る熊は大型犬よりも、少し大きいくらいだ。
だけど、いくらイメージより小さくとも、あの鋭い牙と爪で攻撃されたら、ただでは済まない事だけは十分に理解出来る。
「く、熊だ!」熊を見た瞬間、春日さんは後ろを向いて逃げようとした。
「走っちゃ駄目だ!」
逃げようとした春日さんを木原准教授が止める。
「熊は本能的に逃げる相手を獲物と認識して追う習性がある。だから絶対に走っちゃ駄目だ!熊の目を見ながらゆっくりと後ろに下がるんだ!」
木原准教授の指示に従い、僕達は熊から視線を逸らさずにゆっくりと少しずつ後ろに下がる。だが……。
「きゃああああ!」
貝塚さんの悲鳴。振り返ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
前に居る熊とは別の熊が、貝塚さんを襲っていたのだ。
「嫌ああああああああああ!」
「貝塚っち!」
「痛い!いや、やめて!いやあああああ!助けてええええ!」
貝塚さんが泣き叫ぶ。僕は貝塚さんを助けようとした。
「ぐああああ!」
すると、次は木原准教授が悲鳴を上げた。
「先生!」
「木原さん!」
僕達が背後に気を取られている隙に、前にいた熊が木原准教授を襲ったのだ。まさか、狙ってやったのか?
「きゃあああああ」「う、うわあああああ」
あまりの事態に皆がパニックになる。
しかし、悲劇はこれで終わらなかった。更なる絶望が僕達の前に現れる。
「おい、おい、嘘だろ⁉」
加藤さんが青ざめながら声を出す。
なんと、今度は左右の草むらから新たに四頭も熊が現れたのだ。四頭の熊はそのまま僕達に向かって来る。
その内の一頭が、伊達さんと黒原さんに襲い掛かろうとした。
「危ない!」
僕は咄嗟に二人の腕を引く。瞬間、熊が立ち上がって鋭い爪を振り下ろした。ギリギリの所で熊の攻撃は空を切る。
だが、ホッとしている暇はない。熊はまた襲い掛かって来る。
「この!」
僕は熊の頭を蹴った。だけど、全く効果が無い。熊は岩のように硬かった。蹴ったこちらの足が逆に痛む。
「この!この!」
それでも僕は何度も熊を蹴った。そのうちの一発が、幸運にも熊の目に当たる。熊は目を押さえながら後退した。
だけど、別の熊がこちらへ走って来る。まずい、さっき目に蹴りを当てられたのは偶然だ。二度目は無い。このままじゃやられる。
「うおおおおおおおおお!」
誰かが雄叫びを上げながら、僕達に襲い掛かろうとした熊に突進した。その人物の体当たりで、熊はよろける。
「飛石さん!」
僕を助けてくれたのは、柔道をしているという飛石さんだった。
飛石さんに体当たりされた熊は標的を彼に変える。先程のように、熊は立ち上がって爪を振り下ろそうとした。
「うおりぁ!」
だが、飛石さんは熊の腕を掴むと、まるで一本背負いのように投げ飛ばした。地面に叩き付けられた熊は驚いた様子で、立ち上がるとすぐに飛石さんから距離を取る。
「す、すごい……」
あんなに重そうな熊を投げ飛ばすなんて……僕には絶対に無理だ。
「おらぁ!掛かって来い!」
飛石さんは再び雄叫びを上げる。その雄叫びに、熊達が怯んだように見えた。よし、そのまま飛石さんに怯えて逃げてくれれば!
だけど次の瞬間、僕の期待は打ち砕かれる。飛石さんの背後から、一頭の熊が彼を急襲したのだ。その熊は飛石さんの背中にしがみつくと、後頭部に牙を突き刺す。
「ぎゃああああああああ!」
飛石さんはバランスを崩し、うつ伏せに倒れた。倒れた飛石さんを、さらに二頭の熊が襲う。後頭部に噛み付いた熊は激しく左右に首を振り、他の二頭の熊は手足に噛みついて飛石さんの動きを封じた。
「やめろ!離せ!離せえええええええ」
飛石さんは必死に抵抗しようとするが、動きを封じられ、何も出来ない。熊達は牙や爪を使い、容赦なく彼の肉を抉っていく。
「助けて……助けてくれ!」飛石さんは僕に助けを求めた。
「飛石さん!」
「行っては駄目です!」
飛石さんを助けようとした僕の手を、黒原さんが掴む。冷徹さすら感じる声で彼女は言った。
「もう間に合いません」
その直後、飛石さんの悲鳴が消えた。見ると、彼の首筋に熊の牙が刺さっている。首を噛まれた飛石さんは完全に動きを止めた。
木原准教授、そして貝塚さんも血まみれで動かなくなっている。すると、熊達はまだ無事な僕達に視線を向けた。
「わぁああ!」「うああああ!」
合計六頭の熊に囲まれる僕達。その時、加藤さんが一人飛び出した。
「おい、こっちだ!こっちだ!」
大声を出しながら加藤さんは走る。
「熊どもこっちだ。こっちに来い!」
「加藤さん⁉」
「逃げろ!早く!」
集団の中から飛び出した加藤さんを熊達は一斉に追った。
『熊は逃げるものを本能的に追う習性がある』
加藤さんは熊の注意を自分一人に向けようとしていた。
「今だ!」
白崎部長が叫ぶ。
「今の内に逃げるぞ!」
「部長、でも!」
「私達が助かるには、今の内に逃げるしかない!彼の覚悟を無駄にするな!」
「——ッ!」
僕達はその場から逃げ出した。木原准教授、飛石さん。貝塚さん。そして——。
「ぐわああああああ」
加藤さんを犠牲にして。
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