初めて野生の熊を見て、僕が最初に思ったのは『意外と小さい』だった。

 熊と言えば、人間の身長を大きく超える怪物のようなイメージだったけど、目の前に居る熊は大型犬よりも、少し大きいくらいだ。

 だけど、いくらイメージより小さくとも、あの鋭い牙と爪で攻撃されたら、ただでは済まない事だけは十分に理解出来る。

「く、熊だ!」熊を見た瞬間、春日さんは後ろを向いて逃げようとした。

「走っちゃ駄目だ!」

 逃げようとした春日さんを木原准教授が止める。

「熊は本能的に逃げる相手を獲物と認識して追う習性がある。だから絶対に走っちゃ駄目だ!熊の目を見ながらゆっくりと後ろに下がるんだ!」

 木原准教授の指示に従い、僕達は熊から視線を逸らさずにゆっくりと少しずつ後ろに下がる。だが……。

「きゃああああ!」

 貝塚さんの悲鳴。振り返ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。

 前に居る熊とは別の熊が、貝塚さんを襲っていたのだ。

「嫌ああああああああああ!」

「貝塚っち!」

「痛い!いや、やめて!いやあああああ!助けてええええ!」

 貝塚さんが泣き叫ぶ。僕は貝塚さんを助けようとした。

「ぐああああ!」

 すると、次は木原准教授が悲鳴を上げた。

「先生!」

「木原さん!」

 僕達が背後に気を取られている隙に、前にいた熊が木原准教授を襲ったのだ。まさか、狙ってやったのか?

「きゃあああああ」「う、うわあああああ」

 あまりの事態に皆がパニックになる。

 しかし、悲劇はこれで終わらなかった。更なる絶望が僕達の前に現れる。

「おい、おい、嘘だろ⁉」

 加藤さんが青ざめながら声を出す。

 なんと、今度は左右の草むらから新たに四頭も熊が現れたのだ。四頭の熊はそのまま僕達に向かって来る。

 その内の一頭が、伊達さんと黒原さんに襲い掛かろうとした。

「危ない!」

 僕は咄嗟に二人の腕を引く。瞬間、熊が立ち上がって鋭い爪を振り下ろした。ギリギリの所で熊の攻撃は空を切る。

 だが、ホッとしている暇はない。熊はまた襲い掛かって来る。

「この!」

 僕は熊の頭を蹴った。だけど、全く効果が無い。熊は岩のように硬かった。蹴ったこちらの足が逆に痛む。

「この!この!」

 それでも僕は何度も熊を蹴った。そのうちの一発が、幸運にも熊の目に当たる。熊は目を押さえながら後退した。

 だけど、別の熊がこちらへ走って来る。まずい、さっき目に蹴りを当てられたのは偶然だ。二度目は無い。このままじゃやられる。

「うおおおおおおおおお!」

 誰かが雄叫びを上げながら、僕達に襲い掛かろうとした熊に突進した。その人物の体当たりで、熊はよろける。

「飛石さん!」

 僕を助けてくれたのは、柔道をしているという飛石さんだった。

 飛石さんに体当たりされた熊は標的を彼に変える。先程のように、熊は立ち上がって爪を振り下ろそうとした。

「うおりぁ!」

 だが、飛石さんは熊の腕を掴むと、まるで一本背負いのように投げ飛ばした。地面に叩き付けられた熊は驚いた様子で、立ち上がるとすぐに飛石さんから距離を取る。

「す、すごい……」

 あんなに重そうな熊を投げ飛ばすなんて……僕には絶対に無理だ。

「おらぁ!掛かって来い!」

 飛石さんは再び雄叫びを上げる。その雄叫びに、熊達が怯んだように見えた。よし、そのまま飛石さんに怯えて逃げてくれれば!

 だけど次の瞬間、僕の期待は打ち砕かれる。飛石さんの背後から、一頭の熊が彼を急襲したのだ。その熊は飛石さんの背中にしがみつくと、後頭部に牙を突き刺す。

「ぎゃああああああああ!」

 飛石さんはバランスを崩し、うつ伏せに倒れた。倒れた飛石さんを、さらに二頭の熊が襲う。後頭部に噛み付いた熊は激しく左右に首を振り、他の二頭の熊は手足に噛みついて飛石さんの動きを封じた。

「やめろ!離せ!離せえええええええ」

 飛石さんは必死に抵抗しようとするが、動きを封じられ、何も出来ない。熊達は牙や爪を使い、容赦なく彼の肉を抉っていく。

「助けて……助けてくれ!」飛石さんは僕に助けを求めた。

「飛石さん!」

「行っては駄目です!」

 飛石さんを助けようとした僕の手を、黒原さんが掴む。冷徹さすら感じる声で彼女は言った。

「もう間に合いません」

 その直後、飛石さんの悲鳴が消えた。見ると、彼の首筋に熊の牙が刺さっている。首を噛まれた飛石さんは完全に動きを止めた。

 木原准教授、そして貝塚さんも血まみれで動かなくなっている。すると、熊達はまだ無事な僕達に視線を向けた。

「わぁああ!」「うああああ!」

 合計六頭の熊に囲まれる僕達。その時、加藤さんが一人飛び出した。

「おい、こっちだ!こっちだ!」

 大声を出しながら加藤さんは走る。

「熊どもこっちだ。こっちに来い!」

「加藤さん⁉」

「逃げろ!早く!」

 集団の中から飛び出した加藤さんを熊達は一斉に追った。

『熊は逃げるものを本能的に追う習性がある』

 加藤さんは熊の注意を自分一人に向けようとしていた。

「今だ!」

 白崎部長が叫ぶ。

「今の内に逃げるぞ!」

「部長、でも!」 

「私達が助かるには、今の内に逃げるしかない!彼の覚悟を無駄にするな!」

「——ッ!」

 僕達はその場から逃げ出した。木原准教授、飛石さん。貝塚さん。そして——。


「ぐわああああああ」

 加藤さんを犠牲にして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る