第3話「供述調書」


「えっ、ちょっと待ってなんか怖いよ!」


「なんで人形に名前つけてんの? ほんとに怖いって!」


 女性陣は自分の身体を抱くようにして慄いている。まぁ無理もない、男の俺だってマジ怖い。「アケミが来る」と連呼していた被疑者が恐れていたのは、まさかの人形だったとは。

 アイスコーヒーのグラスについた水滴を指で拭い、サムはもう一度それに口をつける。だけど拭いきれなかった水滴がぽたりと落ちて、テーブルに染みを作った。もはやその染みさえも不気味に映る空気だ。


「おれはユミに訊いた。そのアケミって何なんだ、ってな。するとユミはいきなり形相を変えて怒った。『なにとは何だ!』ってよ。早い話、人形をモノ扱いされたことが気に食わなかったんだろうな」


「サム、お前怖くなかったのか?」


「もう慣れてるよ、ヨシ。意外に思うかもしんねーけど、警察官ってこういう手合いに関わることがめちゃくちゃ多いんだ。おれらはユミみてーな人たちを精神的不安定者──、MDって符牒で呼ぶ。まぁつまり、この事件は被害者もおかしかったってことだ」


「それじゃあ、おかしくなったユミに驚いたタカシが、思わず殴っちゃったってこと? た、たとえばさ。もしユミの方がタカシに危害を加えようとして、それに反撃していたとしたら。誤認逮捕になるんじゃない?」


「いやカナコちゃん、誤認逮捕にはならねーよ。今回の事件は、鼻が折れて血を噴き出したユミと、そして拳が返り血に濡れてたタカシの二人しかいない。どういう経緯であれ、タカシがユミを殴ったのは明白だ。それにタカシには一切外傷が認められなかった。タカシが攻撃されていない以上、正当防衛は成り立たない。まぁ正当防衛って、殴られたくらいじゃ認められないんだけどな」


 どうやらサム曰く、正当防衛を満たす要件はかなり難しいようだ。ナイフで刺されてやっと反撃できるとかなんとか。それってもう死ぬ寸前じゃねーかと思う。日本の法律ってどうなってんだよ。


「なぜタカシがユミを殴ったのか、その動機は今でもわからない。あいつは今、精神病院に入院中だ。だからしばらく話を聞けそうにねーんだよな」


「えっ? 精神病院……?」


「タカシは事件の翌日、釈放になったんだ。ユミは今回の事件の被害届を頑なに出さないって言ったからな。それに広報も絶対にしないでほしいと拒否した。だからこの事件はニュースになってないし、今後もなることはない」


「えっとサム、よくわかんないんだけど。なんで人を殴って逮捕されたのに、次の日に釈放になるの?」


「そりゃレイカ、被害届が出てないからだ。勘違いされがちなんだが、被害届がなくても被疑者を逮捕することはできる。現行犯でなくてもな。逮捕後の四十八時間は警察の身柄で、それを超えて勾留しようとなったら今の刑事手続きでは被害届が必須になる。それがないと余程デカい事件でない限り釈放になるんだよ」


「なぜユミは被害届を出さなかったの? あと広報って何?」


「ユミが被害届を出さなかった理由はわからない。夫婦間のDVとかなら、夫が逮捕されると収入がなくなるつって、出さない妻は多いよ。でもユミとタカシは出会って数時間の仲だぜ? おれも何故ユミが被害届を出さなかったのかは理解できねーよ。あと広報についてだが、これはマスコミとかのメディアに今回の事件情報を流すかどうかって話だ。被害者が拒否したらメディアには何も伝えない。事件があったことさえな」


 俺は何故か、ごくりと唾を飲み込んでしまった。ユミから被害届が出なかったために、タカシは翌日釈放された。だけど今タカシがいるのは精神病院だという。釈放されてなぜ精神病院に入院するんだ? そこまでタカシの頭はおかしくなってしまったってことか?


「まぁとにかくだ。次の日の朝、タカシは釈放になった。だがタカシは狂ったままだ。ずーっとブツブツ『アケミが来るアケミが来るアケミが来る……』って言い続けてた。ちなみに釈放されても罪が消えるワケじゃない。拘束被疑者から不拘束被疑者に身分が変わって、取調べは続行される。罪は罪だからな」


「あぁ、釈放されても無実にはならないのね。在宅捜査、ってヤツだ」


 レイカはビビりながらも冷静を装っている。俺ももちろんそうだ。心霊的な話かと思ってたのに、まさかこっち系とは。俺たちの動揺を他所に、サムは涼しい顔で続ける。


「メディアではそう呼ぶらしいな。まぁそうだ、不拘束取調べってヤツだ。でも狂ったままだと取調べになんねーだろ? それにこのままタカシを家に帰すのもマズい。自殺でもされたら困るからな。つまりこういう時に取れる措置は一択、医療保護入院しかないんだ」


 サムはそこで医療保護入院に関する説明を入れた。要は、狂ったタカシを元に戻そうとする努力が必要になるらしい。しかし警察にその力はない。となると専門機関──、つまりは最寄りの精神病院に繋いでやるしかないらしいのだ。

 医療保護入院とは、サムの説明をそのまま使えば「対象の親族または居住する市町村長の同意の元、精神保健指定医の判断により行われる、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に基づいた強制力を伴う入院措置」らしかった。はっきり言って意味不明である。

 意味がわからんと俺たちがサムに告げると、サムは「だよな、おれもだ」と笑って続けた。


「まぁ簡単に言うと、精神的にヤバいヤツは親族の同意さえあれば、強制的に入院させられるってことだ。ラッキーなことにタカシの親はマトモな人でな、すぐに同意が取れたよ。最長で三ヶ月間、タカシは精神病院の中だ。もちろん今も、治療を受けながら入院してる」


「なら、いろいろ不明点はあるけど事件は一件落着ってこと?」


 レイカがサムにそう問うと、サムは珍しく表情を曇らせた。「いやいやそんなワケねーだろ」と言って。


「レイカ、忘れてねーか? そもそも何故この事件は起きたのか。タカシの動機はわからない。でもひとつだけ、たったひとつだけタカシは供述してるんだ。『アケミが来る』って意味不明な供述を。そしてそのアケミは、被害者のユミが持ってた手製の人形の名前だ。当然ユミから話を聞く必要があるだろ? もちろんアケミの話を抜きにしたって、被害者調書は刑事手続きに必要だ。誰かがユミの話を聞かないといけない。じゃあ誰が聞く? 答えは簡単、一番下っ端のおれだ」


「……サム。お前ヤバい女から、サシで話を聞いたのか?」


「基本はそうだが今回は別だ。おれは男でユミは女。そういう時は立会りっかいとして女性警察官の同席が望ましい。おれは後輩の伊川イカワってヤツに立会を頼んでユミの聴取を始めた。結論から言うとユミは普通だった。マッチングアプリでタカシと出会ったこと。意気投合してタカシの家に行ったこと。自分は乱暴をされなかったこと。でも、急にタカシが豹変して殴られたこと。それらをユミは語った。矛盾点も、おなしなところもなかった。ある一点を除いてな」


「それって……」


「そう、アケミの話だ。その話をする時だけ、ユミの供述は完全におかしくなった。『タカシはアケミに、性的な乱暴をしようとした』って言うんだぜ。めちゃくちゃ真面目な顔してな。意味わかんねーだろ? そしてユミは続けた。『アケミからも話を聞いてください』って、アケミをカバンから出してな」


「いや怖いってほんとに!」


 そう言ってレイカはとうとう耳を塞いだ。だがカナコは、怖がりつつも興味を隠せない様子。「続けてサムくん」というカナコに、サムはまたアイスコーヒーを飲みながら言う。


「当然、アケミから話は聞けない。人形だからな。おれは敢えてそれを伝えた。まぁ激昂するよな、わかってたよ。MDの話は否定してはならないって不文律を敢えて破ってやったんだ。するとユミはいきなり落ち着きを取り戻して言った。『刑事さんはアケミの話を信じない人なんですね。よくわかりました』って」


「怖い……でも続き聞きたい。ねぇサムくん、そのアケミのくだり、調書に書いたの?」


「書けるワケねーよ。そんなもん書いたら、被害者の供述に信憑性がないって話になる。検事も困るよな、そんな調書じゃあ」


「それじゃあサム、調書はどうしたんだ?」


「アケミの話を端折って書いた。最後に読み聞けって、書いた調書をユミに読ませて聞かせるんだけどよ、そこで問題が起きた。調書に不備がなければ最後に供述人、つまりユミから署名と指印をもらって調書を閉めるんだが、ユミはそれを拒否したんだ。この調書にはアケミのことが書いてない、ってな。別に拒否するのはいい、それも供述人の権利だ。でもそれだとタカシに罰を与えられないぞってユミにおれは伝えたんだ。そしたらユミは、こう言ったんだよ」


「な、なんて……?」


「大丈夫。罰はアケミが与えるから、って」





【続】



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